要するに、僕は、ある時、一つの言葉に出会う。
それは週刊誌の愚劣な実話小説の一行のなかに於いてでも、
生物学の教科書の見出しのなかに於いてでも、
あるいはテレビの画面に流れるテロップの断片に於いてでも、
何でも構わない。
出会ったという思いは、その言葉が僕の眼に入った瞬間、
その言葉が現に置かれてある前後の言葉と関係なく、
その文脈とも無関係に、その言葉の独立した意志の働きのように、
もう一つの言葉を浮かびあがらせてきたときに、
たしかな手応えとして響いてくる。
そして、このあとは、ちょうど十七字の分量のコップのなかに、
すでにある言葉が招いている言葉を次々と流しこむだけである。
流しこまれた言葉は次々と溢れ出し、そのコップのなかの言葉は
少しずつ微妙に変化する。
こんな作業を現実に紙の上に文字を書いてゆくというかたちで行っていると、
ふと何かが見えたような気がする瞬間がある。
僕が、その言葉を通して、何かを見たと信じ、
それを見たことによって、なにがしかの感動めいた興奮が生まれたとき、
それは僕の作品として書きとめられる。
したがって、この作業に加わっているのは、俳句形式と、
その形式に反応しながら自由に流れてゆく作業と、
それを書きとめてゆく僕の手である。
高柳重信という俳人が、俳句をつくる時の様子を
書き記した文の一部です。
まなこ荒れ
たちまち
朝の
終りかな
私の好きな高柳重信の句です。 (遅足)