575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

受験生のみなさん、運もあるのだ !    竹中敬一

2017年01月13日 | Weblog
小学校時代、「級長になりたくなければ、勉強しないこと」などと、強がりを
云っていたバチアタリで、その後、色々と困ったことに出くわしました。

昭和8年生まれの私たちの世代は学制改革で、昭和22年、旧制中学から新制高校に
入った珍しいケースでした。
若狭地方に一校しかなかった旧制中学はこの地方の最高学府で受験の際、3人に1人は
落ちると云われていました。
昭和21年、私とK君、I 君の仲良し3人組は、この旧制中学を受験することになりました。

しかし、私たちは教室での授業以外、6年間というもの、家で勉強をしたことは
ありませんでした。
中学受験は親が進めたわけでなく、私たち3人が相談して決めたものでした。それに、
落ちても、小学校の高等科へは進めた為、気軽な気持ちでした。
しかし、さすが受験日が近づくと、担任の先生の方が慌て出し、私たちを放課後、先生の
宿直室に集めて、中学受験に際しての傾向と対策を色々とアドバイスしてくださいました。

先生の話では、紙が不足しているので筆記試験はなく口頭試問だけだ、ということでした。
問題を想定して、先生が色々と質問、それに私たちは答えて、しゃべる訓練をしました。
試験当日、何と先生の想定問答集の一部が出題されていて、3人は首尾よく合格。
筆記試験だけだったら、きっと無理だったでしょう。

旧制中学では男女共学となりましたが、女学校からきた生徒は概して成績が良かった
ように思います。
国語の時間、教科書の一節を一人ずつ立って読まさせられましたが、女子は大抵つかえる
こともなく、すらすら読み上げました。
私はというと、順番が近づいてくると心臓がドキドキ。先生に指名されて立つと、
目の前が真っ白になり、ツカエツカエ読むのがやっとでした。加えて、文中にわからない
漢字も多く、いつも恥ずかしい思いをしました。
矢張り、漢字は小さい頃にたくさん覚えておくべきだったと後悔しています。いまでも、
難しい字が読めない、書けない、その後遺症が続いています。

受験シーズンを迎えていますが、今は偏差値とやらに、がんじがらめになっていて、
志望校も自ずと決められているようですネ。
昭和20年代、確か共通一次試験というものがありました。平均点をとつておれば、
どの大学でも受験でき、私も大抵、無理だろうと思いつつW大を受けてみました。
どうせ一発勝負、宝くじで大当たりするように、その時の運、ツキを信じて受験する。
なんていうと笑われるかもしれませんが、私の頃はまだそんなチヤンスがわずかながら
与えられていたのです。

旧制中学の受験では紙が不足していたお陰で筆記試験がなくってパスしましたが、
大学受験でもヤマが当たりました。
国語の問題の時間、どこかで見覚えのある文面に出くわしました。我が家の二階には
父の書斎があって、私はその中から梅原龍三郎や岸田劉生の画集を見たり、たまには
漢字の勉強も兼ねて文学書を読んだりしていました。
中でも詩人、萩原朔太郎の詩集や詩論に興味をもち、繰り返し読んでいました。
W大の国語の問題で、その朔太郎の詩論の一部が出題されていたのでした。
一つ自信がつくと、ドミノ倒しのようにうまくいくものです。
受験生のみなさん。一休みして、この馬鹿げた話を参考に運を引き寄せてください。

              

明日からセンター試験。日本列島は雪となるとか。会場への道。気を付けて下さい。
今日からちょっと京都へ行ってきます。遅足

写真は竹中健さんの絵です。

コメント
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