575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

「 私のオトギの国 」のお話   竹中敬一

2017年01月06日 | Weblog
冬休みも終って、孫たちは、また塾通いや習い事に忙しいようですが、
私の子供の頃のオトギ話を紹介します。

私が生まれたのは、若狭湾の小さな半島の根っこにある寒村です。
半島には14ヶ村が点在していていますが、この根っこに小学校があつて、
子供たちは各村々から峠越えで通学していました。

昭和8年生まれの私は、太平洋戦争が勃発する前年の昭和15年 (1940)、小学校へ。
内外海 ( うちとみ ) 国民学校と云いました。
私たちのクラスは12人。これでも多い方で、一級下は9人でした。
いわゆる複式学級で、私たちは学年を呼ぶ時に1・2 年生、3・4 年生、5・6年生と
云っていました。
この複式学級は若狭地方でも珍しかったようで、よく学校関係者が私たちの授業を
見学に訪れていたのを思い出します。

木造二階建てのオンボロ校舎。二階の廊下を走らなくても歩くだけで、ぎしぎしと
下の講堂まで音が伝わってきました。
その講堂で毎朝、全校生徒と云っても50人余りが整列して朝礼が行われます。
まず神棚に礼拝した後、各学級ごとに級長の号令のもと、教室に向かいます。
「気を付け、前へ進め !」。
この一言を云う勇気がなくて、私は級長になりたくありませんでした。
僅か12人、勉強していないという点ではみんな同じで、その気になれば
誰でも級長になれました。
「級長になりたくなければ、勉強しないこと」。
妙な理屈をつけて、学校から帰ってくるとカバンを家に置くなり、すぐ外に出て、
仲良しのK君とI 君の3人で遊んでいました。

小川で小魚やメダカを捕ったり、自分たちで作ったボールで野球のまねごとをしたり、
入江でハゼ釣りや水泳をしたり…。
午後の授業をサボって、I 君と小川で遊んでいたところを、私の父に見つかり、学校へ
連れ戻されこともありました。

ある日、国語の時間、作文を書かされ、できあがったものを先生が読み上げました。
自分は何を書いたか全く思い出せませんが、一級下のS 君の作文は今でもなぜか
覚えています。

「ぼくは春がらいすきです。なんでかいうとさかたがつれるからです」
( 注、僕は春が大好きです。なぜかと言うと魚が釣れるからです )
短い文章に誤字が二カ所もあります。でも、誰も笑ったりする者はいませんでした。
私も含めて皆、似たり寄ったりの作文だったからです。

釣り日和には、S君はよく学校を休むことがありました。S君は魚釣りの名人でした。
私も彼と一緒に魚釣りに行ったことがありますが、彼に教えもらった岩場の穴に糸を
垂れると必ずメバルを釣り上げることだできました。
S君はじめ同級生の多くは赤銅色で、腕力にかけては誰にも負けない漁師子でしたが、
暴力を振るったりするいわゆる不良の子は一人もおらず、陰湿ないじめもありませんでした。
父はよく云つていました。「この辺でぐれたりする子がいないのは、あたりの自然が
すばらしいからだ。若狭の自然が人の心を癒してくれるのだ。」と。

あれから70年以上が経っています。さらに十数年後には北陸新幹線が故郷を通ります。
「私の オトギの国」。いつも心を癒してくれたアッケラカンとした風景はいつまで続くことやら。

写真は、内外海 (うちとみ ) 半島のシンボル 久須夜岳 (619 m)から見た西小川 ( にしょうがわ )
の集落。地元では(にしおがわ) とは云いません。
コメント
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