風に揺れる黄水仙をじっと観察していました。
強い風にも、しなやかに首を振ってやり過ごしています。
この様子を見ているうちに、水仙は風を嫌っているのではない。
喜んでいるのでは?と気づいたそうです。
主体と客体との境界が消え、作者も水仙も風に揺れ始める・・・
観察している者が対象と一体となる瞬間が訪れたのではないでしょうか?
この瞬間をとらえて「風を欲る」という言葉が浮かびました。
「風を欲る」と上五を置き、「揺れに揺れたる」と言葉を畳みかけます。
作者も揺れているようです。そして最期に主体の黄水仙の登場。
亜子さんが「風を欲る」という表現はどこから生まれたの?
と、不思議そうに聞いていました。
これは私なりの答えで「答えはひとつではない」でしょうが・・・
でも「写生」とはこういうことでは、と思わせる句です。
認識という意味では、仏教の悟りと同じ心理的な構造を持ち、
同じプロセスをたどっているのではないでしょうか?
遅足
強い風にも、しなやかに首を振ってやり過ごしています。
この様子を見ているうちに、水仙は風を嫌っているのではない。
喜んでいるのでは?と気づいたそうです。
主体と客体との境界が消え、作者も水仙も風に揺れ始める・・・
観察している者が対象と一体となる瞬間が訪れたのではないでしょうか?
この瞬間をとらえて「風を欲る」という言葉が浮かびました。
「風を欲る」と上五を置き、「揺れに揺れたる」と言葉を畳みかけます。
作者も揺れているようです。そして最期に主体の黄水仙の登場。
亜子さんが「風を欲る」という表現はどこから生まれたの?
と、不思議そうに聞いていました。
これは私なりの答えで「答えはひとつではない」でしょうが・・・
でも「写生」とはこういうことでは、と思わせる句です。
認識という意味では、仏教の悟りと同じ心理的な構造を持ち、
同じプロセスをたどっているのではないでしょうか?
遅足