平成11年の暮れ、福井県小浜市に帰省した私は小学校時代の同級生、
倉谷幹二君と再会しました。
私の生まれた阿納尻(あのじり)の集落は僅か31軒ですが、倉谷家は代々、
庄屋をしていた家柄です。
その倉谷家で、明治時代に内外海村(うちとみむら)の村長をしていた
倉谷善右衛門の回顧録を見せたもらいました。
倉谷君の曽祖父、善右衛門は明治32年(1899)から3年間、内外海村の村長
として活躍。幹二君や私が生まれる一年前の昭和7年(1932)に88歳で
亡くなっています。
回顧録は、その晩年に書き綴ったもので、廃藩置県や教育改革に伴う
学校設置など、かって "陸の孤島"と云われた内外海半島での出来事が
細かく記されています。
私はこの回顧録を見せてもらって、強く心ひかれる箇所がありました。
回顧録ではごく僅かしか触れられていませんが、内外海半島の泊地区に
漂着した韓国船を救護した時の話です。
倉谷君の話では韓国の難破船漂着の時の証拠品が蔵の中にあるとのこと。
私は子供の頃、倉谷家の離れで幹二君とよく遊びましたが、蔵の中へは
入れてもらえませんでした。
この時、初めてその蔵の中に案内してもらいました。
薄暗い蔵の中で、倉谷君が懐中電灯の光を当てた先を見ると、階段の下に
麻縄の太いロープがとぐろを巻いた蛇のように、幾重にも巻かれて置いて
ありました。太さ5センチ、長さ30メートル位、韓国船を繋ぎとめたていた
ロープだと、伝え聞いている、とのことでした。
この話をもっと詳しく知りたいと思い、倉谷君に尋ねると、韓国の難破船が
漂着した泊地区の人たちが最近、その記録をまとめているということです。
私は早速、泊地区へ行くことにしました。
泊地区は内外海半島の先端。私の生まれた阿納尻から泊までは凡そ9キロ。
今では舗装道路とトンネルが出来て便利になりましたが、昭和30年代までは、
山道を徒歩で峠を4つも超えなければ辿れないような辺鄙な所でした。
泊の集落は23軒。海に面した南向きの狭い土地に家屋が寄り添うように
建てられています。背後は標高619メートルの久須夜岳(くすやだけ) 。
その北山麓に奇岩の連なる景勝地、蘇洞門 (そとも) があります。
久須夜岳のおかげで、日本海を吹き抜けてきた北風は少し弱まります。
かっては、蘇洞門周辺の外洋で、漁業にたよって生活していた村の人たちも、
今では民宿を営んだり、小浜市内へ働きに出る人が多くなっています。
私はまず、平成8年に発足した「泊の歴史を知る会」のメンバーの一人、
大森知良さん (元 小学校教諭) を訪ねました。
韓国船遭難救護に関する詳細な記録に出会うのですが、そのお話は次回に。
写真の古図は 「 内外海誌 」( 昭和44刊 、私の父、竹中皆二が編集長 )です。
倉谷幹二君と再会しました。
私の生まれた阿納尻(あのじり)の集落は僅か31軒ですが、倉谷家は代々、
庄屋をしていた家柄です。
その倉谷家で、明治時代に内外海村(うちとみむら)の村長をしていた
倉谷善右衛門の回顧録を見せたもらいました。
倉谷君の曽祖父、善右衛門は明治32年(1899)から3年間、内外海村の村長
として活躍。幹二君や私が生まれる一年前の昭和7年(1932)に88歳で
亡くなっています。
回顧録は、その晩年に書き綴ったもので、廃藩置県や教育改革に伴う
学校設置など、かって "陸の孤島"と云われた内外海半島での出来事が
細かく記されています。
私はこの回顧録を見せてもらって、強く心ひかれる箇所がありました。
回顧録ではごく僅かしか触れられていませんが、内外海半島の泊地区に
漂着した韓国船を救護した時の話です。
倉谷君の話では韓国の難破船漂着の時の証拠品が蔵の中にあるとのこと。
私は子供の頃、倉谷家の離れで幹二君とよく遊びましたが、蔵の中へは
入れてもらえませんでした。
この時、初めてその蔵の中に案内してもらいました。
薄暗い蔵の中で、倉谷君が懐中電灯の光を当てた先を見ると、階段の下に
麻縄の太いロープがとぐろを巻いた蛇のように、幾重にも巻かれて置いて
ありました。太さ5センチ、長さ30メートル位、韓国船を繋ぎとめたていた
ロープだと、伝え聞いている、とのことでした。
この話をもっと詳しく知りたいと思い、倉谷君に尋ねると、韓国の難破船が
漂着した泊地区の人たちが最近、その記録をまとめているということです。
私は早速、泊地区へ行くことにしました。
泊地区は内外海半島の先端。私の生まれた阿納尻から泊までは凡そ9キロ。
今では舗装道路とトンネルが出来て便利になりましたが、昭和30年代までは、
山道を徒歩で峠を4つも超えなければ辿れないような辺鄙な所でした。
泊の集落は23軒。海に面した南向きの狭い土地に家屋が寄り添うように
建てられています。背後は標高619メートルの久須夜岳(くすやだけ) 。
その北山麓に奇岩の連なる景勝地、蘇洞門 (そとも) があります。
久須夜岳のおかげで、日本海を吹き抜けてきた北風は少し弱まります。
かっては、蘇洞門周辺の外洋で、漁業にたよって生活していた村の人たちも、
今では民宿を営んだり、小浜市内へ働きに出る人が多くなっています。
私はまず、平成8年に発足した「泊の歴史を知る会」のメンバーの一人、
大森知良さん (元 小学校教諭) を訪ねました。
韓国船遭難救護に関する詳細な記録に出会うのですが、そのお話は次回に。
写真の古図は 「 内外海誌 」( 昭和44刊 、私の父、竹中皆二が編集長 )です。