575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

父、竹中 皆ニの短歌から ~ 流氓 ( りゅうぼう ) ~ 竹中敬一

2018年10月27日 | Weblog


父は昭和45年、滋賀県東近江市の石塔寺を訪れた際 「 流氓 」と

題した歌を数首 詠んでいます。


  近江の国 蒲生郡に いにしへの 百済びとらは移り住みにき


  風霜に曝され たてる石の肌 大石塔のめぐりを歩む


  石塔は声なけれども然れども 過去流氓のいのちを伝ふ


  大いなる角の石もて造りたり 声なき石の流氓の声


私が滋賀県の蒲生 ( がもう ) 郡や神崎 ( かんざき ) 郡に百済からの

渡来人が移り住んだことを知ったのは、司馬遼太郎の 「 街道をゆく

~ 韓 ( から ) のくに紀行 ~ 」からでした。

古代の朝鮮半島では高句麗 ( こうくり )、新羅 ( しらぎ )、百済

( くだら )の三国が対立。660年、百済は新羅、唐の連合軍に敗れ、

滅亡する。

663年、倭 ( 日本 )と百済再興軍は白村江 ( はくすきのえ ) の海戦で、

新羅・唐の連合軍に大敗。 司馬遼太郎氏は

「 … 敗戦の現地日本軍は百済人たちを大量に亡命させるべく努力した。

さらには当時の天智政権は国をあげて かれら亡国の士民を受け容れる

べく国土を解放した。

日本歴史の誇るべき点がいくつかあるとすれば、この事例を第一等に

推すべきかもしれない。」と述べています。

百済からの亡命者の中には百済王子の末裔、鬼室集斯 ( きしつしゅうき )

という人物がいました。この一族が移り住んだという場所が石塔寺の

近くにあるというので行ってみることにしました。

東名高速道路八日市インターから30分位、車一台がやっと通れる農道

のような小道を鈴鹿山脈の方向へ行くと、鬼室 ( きしつ ) 神社の案内板

が出てきます。

この辺りは、地元の人に聞くと小野 ( この ) という集落で、水田に囲ま

れた小さな森が鬼室集斯を祀った神社でした。本殿裏に石の墳墓があり

ました。

「 日本書紀 」の天智天皇四年 ( 669 )に

「 鬼室集斯 等 男女七百餘人 還居 近江国蒲生郡 」とあります。

鬼室集斯は天智天皇の大津宮 ( おおつのみや ) で初代の今でいう文部

大臣を務めた後、小野の地で没したとされています。

鬼室神社の入口にはハングル文字の案内板もあり、父のいう " 流氓

( りゅうぼう ) "の跡が偲ばれます。ふと、父の歌が思い出されました。


  しづかにも季 ( とき ) の移るは 吹く風に日の光にもあはれあれども



写真は滋賀県蒲生郡日野町小野 ( この ) の鬼室神社 筆者 撮影

             

百済の人々は今で言えばAIの先進技術を身につけた人たち。
天智天皇としては願ってもないことだったのでしょうね。

のちに高句麗の人達も亡命してきましたが、こちらは関東に住んでいます。
微妙に政治的なものが反映しているのでしょうか? 遅足





コメント (1)
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