その日、珸瑶瑁(ごようまい)水道は朝から深い霧。わずか4km足らず先のロシア領・貝殻島もすっかり鉛色です。
しきりに鳴る霧笛。茫々とした視界の中に、納沙布灯台が放つその低音だけが響いていました。
「霧笛」、海上を行く船舶と人命の安全のため国際条約によって定められたものですが、なぜかその役目を越えて、聞く人の胸に沁みます。
その霧笛が、来年には「全廃」と決まりました。
小型漁船までもが、GPSを備える時代。当然のこととはいえ、やっぱり寂しい。
♪ 霧笛が俺を呼んでいる・・・歌い手は赤木圭一郎。古いねー。
霧笛が一番似合う季節は? そんなものはありません。したがって季語にもなし。
ただ、消えるのみです。
しきりに鳴る霧笛。茫々とした視界の中に、納沙布灯台が放つその低音だけが響いていました。
「霧笛」、海上を行く船舶と人命の安全のため国際条約によって定められたものですが、なぜかその役目を越えて、聞く人の胸に沁みます。
その霧笛が、来年には「全廃」と決まりました。
小型漁船までもが、GPSを備える時代。当然のこととはいえ、やっぱり寂しい。
♪ 霧笛が俺を呼んでいる・・・歌い手は赤木圭一郎。古いねー。
霧笛が一番似合う季節は? そんなものはありません。したがって季語にもなし。
ただ、消えるのみです。
しかしそういった斜に構えた影のある赤木の個性は同じような運命をたどったアメリカのジェームズ・ディーンの様に、彼の死後花開くこととなった。
その後の代表作『霧笛が俺を呼んでいる』(1960年)では彼の少年時代からの憧れだった船乗りを演じた。日活俳優の中ではマドロス姿が最もさまになる俳優であった。しかしその後は、俳優としての仕事は多忙を極め彼の表情の中には疲労すら伺えるようになった。赤木は仕事の疲れをスポーツカーやバイクなどのスピードで紛らわせるようになり、その当時から周囲からカーキチとして知られるようになった。
そして1961年2月14日、映画『激流に生きる男』のセット撮影の合間の昼下がりの休憩時間に日活撮影所内で友人だった かまやつひろし、長門裕之らとゴーカートを運転中、ハンドルを切り損ね時速60キロ以上の速さで鉄扉に激突し、慈恵医大病院に緊急入院。途中回復の兆候は見せたものの、1週間後の2月21日、前頭骨亀裂骨折に伴う硬膜下出血のため21歳の若さでこの世を去った。死の報せを聞いた石原裕次郎は号泣したという。また死に顔を見た宍戸錠は「まるでハリウッドの俳優ルドルフ・ヴァレンティノのようだった」と言った。
生前の彼は映画を見ることも好きでアンジェイ・ワイダ監督のポーランド映画『灰とダイヤモンド』を何度も見ており暗く影のある主人公マチェックに非常に共感していたという。
(Wikipedia)より
なんとなく覚えています。
しかしなんと言っても裕次郎ですね。
かっこ良かったのは。
足の長さを誇っているポスターも
覚えています。
遅足ではなく、短足ですね。