4.神奈川(台之景)
川崎から十粁で神奈川宿である。街道はゆるい丘陵へ続く。画題は、「台之景」とあり、街道に軒を並べる茶屋、茶見世の客引き女が旅人の袖をひいている。この有様は一九の「膝栗毛」に「実は片側に茶店軒をならべいすれも座敷二階造、欄干つきの廊下棧などわたして、浪うちぎはの景色いたってよし、茶屋女「おやすみなさいやぁせ、あったかな冷飯もございやぁす・・・・・・」。とあるそのままの絵である。江戸を立って神奈川泊りは楽旅の一日の行程だったという。昔はこの街道近くまで海がせまって船着場であった。その海を左手にひろく見せ、遠く磯子、金沢のあたりを遠景としている。海上には帆の舟、近くは大伝馬船や幾艘かの釣舟が静かな海に浮かんでいる。全体の構図が品川の図に近いが、江戸から離れた野趣豊かな街道風景画捨て難い。こうした静かな漁村に江戸三百年の夢を破って黒船が来航、神奈川は横浜港へと発展したのである。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
川崎から十粁で神奈川宿である。街道はゆるい丘陵へ続く。画題は、「台之景」とあり、街道に軒を並べる茶屋、茶見世の客引き女が旅人の袖をひいている。この有様は一九の「膝栗毛」に「実は片側に茶店軒をならべいすれも座敷二階造、欄干つきの廊下棧などわたして、浪うちぎはの景色いたってよし、茶屋女「おやすみなさいやぁせ、あったかな冷飯もございやぁす・・・・・・」。とあるそのままの絵である。江戸を立って神奈川泊りは楽旅の一日の行程だったという。昔はこの街道近くまで海がせまって船着場であった。その海を左手にひろく見せ、遠く磯子、金沢のあたりを遠景としている。海上には帆の舟、近くは大伝馬船や幾艘かの釣舟が静かな海に浮かんでいる。全体の構図が品川の図に近いが、江戸から離れた野趣豊かな街道風景画捨て難い。こうした静かな漁村に江戸三百年の夢を破って黒船が来航、神奈川は横浜港へと発展したのである。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』