3.川崎(六郷渡舟)
品川から十粁で川崎の宿に達する。絵はこの宿に入る手前の六郷川の渡しが描かれている。漸く東海道もここへきて野趣豊かとなる。前景は六郷川、今、渡し舟が旅人を乗せて対岸へ向かっている。対岸は川崎宿、右手に遠く富士山が見える。川の藍と遠景の濃い色彩が画面を引き立てている。この絵では、渡し舟と対岸に舟を待つ人物が描かれているが、この描写が見事である。一点のすき間もない簡略な、それでいて雰囲気をかもし出す筆致は広重独特のものである。竿をつっぱった船頭の描写が特に巧みである。画題は「六郷渡舟」である。六郷川は、多摩川の下流の別称で、多摩川が荏原六郷を流れる時にこの名となる。もと東海道にはここに橋があったが、武田信玄の率いる甲州勢が攻めよせた時、北条方がここの橋を焼き落として甲州勢をせき止めた。その後、徳川家康の時代に橋は復元されたが、元禄年間の洪水に流失し、以後は橋渡しになったという。現在はこの川が東京都と神奈川県との境となっている。この渡しを描いた作では、鳥居清長に有名な美人画の傑作がある。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
品川から十粁で川崎の宿に達する。絵はこの宿に入る手前の六郷川の渡しが描かれている。漸く東海道もここへきて野趣豊かとなる。前景は六郷川、今、渡し舟が旅人を乗せて対岸へ向かっている。対岸は川崎宿、右手に遠く富士山が見える。川の藍と遠景の濃い色彩が画面を引き立てている。この絵では、渡し舟と対岸に舟を待つ人物が描かれているが、この描写が見事である。一点のすき間もない簡略な、それでいて雰囲気をかもし出す筆致は広重独特のものである。竿をつっぱった船頭の描写が特に巧みである。画題は「六郷渡舟」である。六郷川は、多摩川の下流の別称で、多摩川が荏原六郷を流れる時にこの名となる。もと東海道にはここに橋があったが、武田信玄の率いる甲州勢が攻めよせた時、北条方がここの橋を焼き落として甲州勢をせき止めた。その後、徳川家康の時代に橋は復元されたが、元禄年間の洪水に流失し、以後は橋渡しになったという。現在はこの川が東京都と神奈川県との境となっている。この渡しを描いた作では、鳥居清長に有名な美人画の傑作がある。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』