
【原文】
世に語り伝ふる事、まことはあいなきにや、多おほくは皆みな虚言そらごとなり。
あるにも過ぎて人は物を言ひなすに、まして、年月としつき過ぎ、境さかひも隔へだたりぬれば、言ひたきまゝに語りなして、筆にも書き止めぬれば、やがて定まりぬ。道々の物の上手じやうずのいみじき事など、かたくななる人の、その道知らぬは、そゞろに、神の如くに言へども、道知れる人は、さらに、信も起おこさず。音おとに聞くと見る時とは、何事も変るものなり。
かつあらはるゝをも顧かへりみず、口に任まかせて言ひ散ちらすは、やがて、浮きたることと聞ゆ。また、我もまことしからずは思ひながら、人の言ひしまゝに、鼻はなのほどおごめきて言ふは、その人の虚言そらごとにはあらず。げにげにしく所々うちおぼめき、よく知らぬよしして、さりながら、つまづま合はせて語る虚言そらごとは、恐しき事なり。我がため面目めんぼくあるやうに言はれぬる虚言そらごとは、人いたくあらがはず。皆人みなひとの興ずる虚言そらごとは、ひとり、「さもなかりしものを」と言はんも詮せんなくて聞きゐたる程に、証人にさへなされて、いとゞ定まりぬべし。
とにもかくにも、虚言そらごと多おほき世なり。たゞ、常にある、珍めづららしからぬ事のまゝに心得えたらん、万よろづ違たがふべからず。下しもざまの人の物語は、耳驚く事のみあり。よき人は怪しき事を語らず。
かくは言へど、仏神ぶつじんの奇特きどく、権者ごんじやの伝記、さのみ信ぜざるべきにもあらず。これは、世俗の虚言そらごとをねんごろに信じたるもをこがましく、「よもあらじ」など言ふも詮せんなければ、大方は、まことしくあひしらひて、偏ひとへに信ぜず、また、疑ひ嘲あざけるべからずとなり。
あるにも過ぎて人は物を言ひなすに、まして、年月としつき過ぎ、境さかひも隔へだたりぬれば、言ひたきまゝに語りなして、筆にも書き止めぬれば、やがて定まりぬ。道々の物の上手じやうずのいみじき事など、かたくななる人の、その道知らぬは、そゞろに、神の如くに言へども、道知れる人は、さらに、信も起おこさず。音おとに聞くと見る時とは、何事も変るものなり。
かつあらはるゝをも顧かへりみず、口に任まかせて言ひ散ちらすは、やがて、浮きたることと聞ゆ。また、我もまことしからずは思ひながら、人の言ひしまゝに、鼻はなのほどおごめきて言ふは、その人の虚言そらごとにはあらず。げにげにしく所々うちおぼめき、よく知らぬよしして、さりながら、つまづま合はせて語る虚言そらごとは、恐しき事なり。我がため面目めんぼくあるやうに言はれぬる虚言そらごとは、人いたくあらがはず。皆人みなひとの興ずる虚言そらごとは、ひとり、「さもなかりしものを」と言はんも詮せんなくて聞きゐたる程に、証人にさへなされて、いとゞ定まりぬべし。
とにもかくにも、虚言そらごと多おほき世なり。たゞ、常にある、珍めづららしからぬ事のまゝに心得えたらん、万よろづ違たがふべからず。下しもざまの人の物語は、耳驚く事のみあり。よき人は怪しき事を語らず。
かくは言へど、仏神ぶつじんの奇特きどく、権者ごんじやの伝記、さのみ信ぜざるべきにもあらず。これは、世俗の虚言そらごとをねんごろに信じたるもをこがましく、「よもあらじ」など言ふも詮せんなければ、大方は、まことしくあひしらひて、偏ひとへに信ぜず、また、疑ひ嘲あざけるべからずとなり。
【現代語訳】
この世の中に語り伝えられている事は、真実そのままに語ってもつまらないからだろうか、多くの話は嘘八百である。
人は事実よりも大げさに物事を言う傾向がある上に、ましてや、年月を経て、遠く離れた場所の出来事であれば、言いたい放題に語られる。書物などに記録されてしまえば、もはや嘘は真実に書き換えられてしまう。巨匠の伝説は、愚かな人間が、ろくに知らないくせに神のように崇め奉るので、たちが悪い。しかし、その道の達人だったら、そんな架空伝説は信用しない。やはり「百聞は一見にしかず」なのである。
話している側から嘘のメッキが剥がれているのにも気付かず、口が自動的に出任せを言い出せば、すぐに根も葉もないウソッパチであることがバレる。また話している本人が、はなから「こんな話はウソッパチだろう」と知りながら、人から聞いたまま、鼻をピクピクさせて話せば、それは語り部をやっているだけだから、あながち「嘘つき」呼ばわりする訳にもいかない。だがしかし、もっともらしく話を捏造し、都合が悪い部分は曖昧にしたまま、最終的に話の辻褄を合わせてしまうようなインチキ技は、危険である。お世辞を言われて舞い上がっている者は、それを否定しない。周囲がインチキ話で盛り上がっている時に、一人だけ「嘘ばっかり」とムキになっても気まずくなるだけだから黙って聞いていると、そのうち嘘の証人になどにさせられて、瓢箪から出た駒みたくなってしまう。
と、文句を書いても、この世はインチキでまみれている。世の中を漂っている何げない事を、ありのままに受け入れてさえいれば、真実を見失わないはずだ。しかし、愚か者は、刺激を喜ぶから適当な事ばかり言っている。信頼できる人なら、いい加減な話をしたりはしない。
そうは言っても、「神の奇跡や、超人の輝かしい記録までも信じてはいけない」と言うわけではない。世の中にまみれている嘘に染まれば、間抜けである。それを信じる人に「そんなのはインチキだ」と言っても、既に洗脳済みだから仕方ない。どうせ殆どはインチキなのだから、諦めて適当にあしらい、意味もなく信じたりせず、心の中では「こいつはバカじゃないのか?」と思っても、用心の為に黙っていた方が良い。
人は事実よりも大げさに物事を言う傾向がある上に、ましてや、年月を経て、遠く離れた場所の出来事であれば、言いたい放題に語られる。書物などに記録されてしまえば、もはや嘘は真実に書き換えられてしまう。巨匠の伝説は、愚かな人間が、ろくに知らないくせに神のように崇め奉るので、たちが悪い。しかし、その道の達人だったら、そんな架空伝説は信用しない。やはり「百聞は一見にしかず」なのである。
話している側から嘘のメッキが剥がれているのにも気付かず、口が自動的に出任せを言い出せば、すぐに根も葉もないウソッパチであることがバレる。また話している本人が、はなから「こんな話はウソッパチだろう」と知りながら、人から聞いたまま、鼻をピクピクさせて話せば、それは語り部をやっているだけだから、あながち「嘘つき」呼ばわりする訳にもいかない。だがしかし、もっともらしく話を捏造し、都合が悪い部分は曖昧にしたまま、最終的に話の辻褄を合わせてしまうようなインチキ技は、危険である。お世辞を言われて舞い上がっている者は、それを否定しない。周囲がインチキ話で盛り上がっている時に、一人だけ「嘘ばっかり」とムキになっても気まずくなるだけだから黙って聞いていると、そのうち嘘の証人になどにさせられて、瓢箪から出た駒みたくなってしまう。
と、文句を書いても、この世はインチキでまみれている。世の中を漂っている何げない事を、ありのままに受け入れてさえいれば、真実を見失わないはずだ。しかし、愚か者は、刺激を喜ぶから適当な事ばかり言っている。信頼できる人なら、いい加減な話をしたりはしない。
そうは言っても、「神の奇跡や、超人の輝かしい記録までも信じてはいけない」と言うわけではない。世の中にまみれている嘘に染まれば、間抜けである。それを信じる人に「そんなのはインチキだ」と言っても、既に洗脳済みだから仕方ない。どうせ殆どはインチキなのだから、諦めて適当にあしらい、意味もなく信じたりせず、心の中では「こいつはバカじゃないのか?」と思っても、用心の為に黙っていた方が良い。
◆鎌倉末期の随筆。吉田兼好著。上下2巻,244段からなる。1317年(文保1)から1331年(元弘1)の間に成立したか。その間,幾つかのまとまった段が少しずつ執筆され,それが編集されて現在見るような形態になったと考えられる。それらを通じて一貫した筋はなく,連歌的ともいうべき配列方法がとられている。形式は《枕草子》を模倣しているが,内容は,作者の見聞談,感想,実用知識,有職の心得など多彩であり,仏教の厭世思想を根底にもち,人生論的色彩を濃くしている。