12:四世岩井半四郎の乳人重の井
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/a2/b1c11b3ea5ceaa32d9bad896422304e7.jpg)
この絵は、寛政六年五月河原崎座上演の「恋女房染分手綱」の女主人公乳人重の井を描いた作である。重の井は恋人伊達の与作との恋愛が知れ、与作はおいとま、父の竹村定之進は切腹、与作との間にできた一子与之助し自然生の三吉といって馬士になった。主君の姫が浜松の入間家に養女に行くのにしたがって重の井は東へ下ったが、その途中、馬士自然生の三吉と出逢うが、乳人という役目の手前、母子の名乗りもできずに分かれる。その場の重の井を描いたのがこの絵である。
この絵は四世岩井半四郎という、当時三世瀬川菊之丞とともに女形の双璧と謳われた名優を描いて、写楽の半身像の女形の絵の最傑作といっていい。それは女形半四郎をあますところなく描き切っているからである。乳人という重の井の役柄がもつ暖かい人情がこの絵にはみなぎっている。また白地に薄紅の蝶扇の模様の着物、紅裏に鶯色の裲襠(うちかけ)の配合は清楚ではあるが、乳人という落ち着きがあり、守り袋を右手にもった姿も悠揚として、大名の奥につとめる女性の気品が見られる。
当時の役者評判記に「誠に花実兼備の若女形」とある標語はこの絵にぴったりである。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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この絵は、寛政六年五月河原崎座上演の「恋女房染分手綱」の女主人公乳人重の井を描いた作である。重の井は恋人伊達の与作との恋愛が知れ、与作はおいとま、父の竹村定之進は切腹、与作との間にできた一子与之助し自然生の三吉といって馬士になった。主君の姫が浜松の入間家に養女に行くのにしたがって重の井は東へ下ったが、その途中、馬士自然生の三吉と出逢うが、乳人という役目の手前、母子の名乗りもできずに分かれる。その場の重の井を描いたのがこの絵である。
この絵は四世岩井半四郎という、当時三世瀬川菊之丞とともに女形の双璧と謳われた名優を描いて、写楽の半身像の女形の絵の最傑作といっていい。それは女形半四郎をあますところなく描き切っているからである。乳人という重の井の役柄がもつ暖かい人情がこの絵にはみなぎっている。また白地に薄紅の蝶扇の模様の着物、紅裏に鶯色の裲襠(うちかけ)の配合は清楚ではあるが、乳人という落ち着きがあり、守り袋を右手にもった姿も悠揚として、大名の奥につとめる女性の気品が見られる。
当時の役者評判記に「誠に花実兼備の若女形」とある標語はこの絵にぴったりである。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
顔の雰囲気がやはり写楽調という
感じがします。当時の作者さんの
それぞれの個性が出ますねぇ。
好みの分かれるところかも知れ
ませんが、写楽はやはり男優の
絵がよい気がしますねぇ。
さて、明日早朝佐渡を出まして、
水曜日まで越後で仕事となります。
長岡にも戻れませんので、サイト
管理は帰ってからのことになりま
す。よろしくお願いします。
一足早い夏休みかなと勝手に思っていましたが、
お仕事ですか。
お暑い中お疲れ様です。
お仕事に熱中するにあまり熱中症にご用心!