34:尾上松助の松本造酒之進

この絵は写楽の作品中最も地味な絵でありながら有数の傑作といえる。
これは寛政六年五月の桐座の狂言、「敵討乗合話」の内の役で、浪人した上貧困のうちにあって、志賀大七(ニ一座)のために殺害される役であるが、その寂しい疲れた不運な生活を送る造酒之進の役柄の境遇、性格が画面ににじみでている。
着物は濃緑で、だこれ一色の絵といってもいい。
この地味な着物に対して、やつれた、月代ののびた、鼻の下やあごの薄くのびた髭、うつろのような眼に、そのやつれが如実に感じられ、まさに芸質の物凄い再現といっていいであろう。
扇子をもった手にも力がない。
そこにもうらぶれた浪人の境涯が感じられる。
この松助は、後に松緑となり、息子が三世尾上菊五郎であり、文化時代に名優となった人で、「小幡小兵次」や「天竺徳兵衛」といった怪物物、ケルン物を演じて名をなした。
文化十二年、七十三歳で没した。この五月狂言でも敵役佐々木岸柳を勤めているが、写楽はことさらにこの造酒之進の方を描いている。
それもこの陰影の多い役柄に魅せられた結果と考えられ、いかにも写楽らしさが感じられる。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この絵は写楽の作品中最も地味な絵でありながら有数の傑作といえる。
これは寛政六年五月の桐座の狂言、「敵討乗合話」の内の役で、浪人した上貧困のうちにあって、志賀大七(ニ一座)のために殺害される役であるが、その寂しい疲れた不運な生活を送る造酒之進の役柄の境遇、性格が画面ににじみでている。
着物は濃緑で、だこれ一色の絵といってもいい。
この地味な着物に対して、やつれた、月代ののびた、鼻の下やあごの薄くのびた髭、うつろのような眼に、そのやつれが如実に感じられ、まさに芸質の物凄い再現といっていいであろう。
扇子をもった手にも力がない。
そこにもうらぶれた浪人の境涯が感じられる。
この松助は、後に松緑となり、息子が三世尾上菊五郎であり、文化時代に名優となった人で、「小幡小兵次」や「天竺徳兵衛」といった怪物物、ケルン物を演じて名をなした。
文化十二年、七十三歳で没した。この五月狂言でも敵役佐々木岸柳を勤めているが、写楽はことさらにこの造酒之進の方を描いている。
それもこの陰影の多い役柄に魅せられた結果と考えられ、いかにも写楽らしさが感じられる。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
あぁ~今日は、写楽。。。
もう、何が出てくるのかしら?と、
いつもドキッといたしますページです。
知らないことばかり、少しはものにしてと、
思うことは思うのですが、これがなかなかですが。。。
この一年間いつも鋭いコメントを頂戴いたしまして、
ありがとうございました。
どうぞよいお年をお迎えくださいますように。。。
おひさしぶりです、お元気ですか?
こちらこそ大変お世話になりました。
ウェブ上でお知り合いになれ幸せでした。
ありがとうございました。
また事情の許す限りお越しください。
よいお年をお迎えください。
来年もよろしくお願いします。