5.保土ヶ谷(新町橋)
神奈川から五粁、保土ヶ谷は現在横浜市の内である。画題は「新町橋」とあるが、この地はもと保土ヶ谷、新町、帷子の三宿であったが、慶長二年(1957)に一駅となったという。絵に見える橋が新町へ入るところにかかる新町橋である。家並み、樹木などの感じが野趣に満ち、絵の上部にぼかした橙色、これを一文字というが、この色から秋を思わせ、川の水の藍も秋冷を思わせる。橋の上の虚無僧の姿にも、橋の袖の二八そばやの行燈にも静かな秋が感じられる。町の方からは江戸へ下る大名行列の先頭が見え、江戸から上る武家の駕篭は橋を渡っていくが、その上り下りの足音だけが静かさの底にきこえるようである。いたって風景は平凡といえるかもしれないが、広重はいつも自然の中に人間を添えてその絵に息吹を与えている。この絵も上り下りのすれ違う旅の心が描かれているからこそ私たちの感情に何かを与えているといえる。その点で左手のとり入れのすんだ田圃をいく百姓の姿も見のがすことは出来ない重要な添景である。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
神奈川から五粁、保土ヶ谷は現在横浜市の内である。画題は「新町橋」とあるが、この地はもと保土ヶ谷、新町、帷子の三宿であったが、慶長二年(1957)に一駅となったという。絵に見える橋が新町へ入るところにかかる新町橋である。家並み、樹木などの感じが野趣に満ち、絵の上部にぼかした橙色、これを一文字というが、この色から秋を思わせ、川の水の藍も秋冷を思わせる。橋の上の虚無僧の姿にも、橋の袖の二八そばやの行燈にも静かな秋が感じられる。町の方からは江戸へ下る大名行列の先頭が見え、江戸から上る武家の駕篭は橋を渡っていくが、その上り下りの足音だけが静かさの底にきこえるようである。いたって風景は平凡といえるかもしれないが、広重はいつも自然の中に人間を添えてその絵に息吹を与えている。この絵も上り下りのすれ違う旅の心が描かれているからこそ私たちの感情に何かを与えているといえる。その点で左手のとり入れのすんだ田圃をいく百姓の姿も見のがすことは出来ない重要な添景である。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』