阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

平安神宮の「神苑」という日本庭園。

2010年11月14日 | 国内旅行
平安神宮に見事な日本庭園があることを知りませんでした。中に入ると広大な面積を占めていて驚きました。外国人向けのガイドブックで紹介されているのか、来園者は日本人より外国人の数が多いくらいでした。静かなゆったりした贅沢な空間を楽しみました。








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八坂神社-円山公園-知恩院 いずれも紅葉には少し早かった

2010年11月13日 | 国内旅行
八坂神社と円山公園には藤沢のHMさん、大阪千里のMIさんと3人で行って以来ひさしぶりでした。



八坂神社の横を抜けて円山公園に出ました。





公園に来ればお二人に挨拶は欠かせません。

続いて家の宗派「浄土宗」の総本山、知恩院にお参りしました。



かなり歩いたので、次に平安神宮に行く途中、京菓子司「吉水園」の茶房で抹茶と生菓子を頼み、
ゆっくり一休みしました。


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秋の祇園白川から八坂神社方面へぶらぶら

2010年11月11日 | 国内旅行
阪急電車を終点の四条河原町で降りました。祇園白川まで歩いて「とり新」(坂本龍馬が近江屋で暗殺された時、誕生日だった龍馬は峰吉に軍鶏を“鳥新”に買いに行かせたと司馬遼太郎の「竜馬がゆく」にある。ただし今の店は当時の場所ではない)でお昼にした後、祇園を八坂神社までぶらぶらしました。














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鴨川の向こうに比叡山

2010年11月10日 | 国内旅行
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上村松園展@ 京都国立近代美術館

2010年11月09日 | 国内旅行
見終わって四階の美術館コレクションも見たら、さすがにぐったり疲れました。四階のロビーから窓の外を見ると、平安神宮の大鳥居の向こうに京都市立美術館の建物が迫っていました。
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祇園白川の「とり新」で親子丼

2010年11月09日 | 国内旅行

お昼のメニューは親子丼だけの「とり新」。列に並んでから入りました。
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河童橋へ     上高地その3       

2008年09月13日 | 国内旅行

上高地を開いた宣教師ウェストンのレリーフがある場所へ向かっていると雨脚が強くなってきました。

折りよく上高地温泉ホテルの前を通りかかったので、ホテルの喫茶コーナーで40分ほど喫茶タイムにしました。

メニューにビールがなかったので相方に合わせてケーキセットにしました。疲れていたのか珍しく砂糖を入れたレモンテイーも、ケーキも美味かったです。





河童橋の上から見ると河原に下りている人も見えましたが、そろそろ集合時間も迫っていたのでバスステーションに向かいました。

行きは名神の小牧ICから中央高速で諏訪に走りました。帰りのバスは上高地から岐阜県の平湯に出て、高山を経由し先日全面開通したばかりの東海北陸道に入りました。

一宮で名神に乗り入れ平湯出発から5時間のスムーズなドライブで三ノ宮に到着しました。

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大正池から歩く   上高地その2          

2008年09月10日 | 国内旅行

土曜日、日曜日は観光バスは上高地の途中の駐車場までしか入れません。観光客はそこからシャトルバスに乗り換えて上がります。

大正池の手前でシャトルバスを降りて、梓川の岸をしばらく歩き、大正池から自然遊歩道に入りました。ところどころ木製の歩道が敷かれていますが、

一部砂礫の道もあります。フィットンチッドの芳香に包まれ、にわか雨にも会いながらぶらぶら歩きました。








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2時間だけの上高地        

2008年09月09日 | 国内旅行

諏訪で花火を見たあと、ゲリラ豪雨に襲われた神戸からのツアー客を乗せた神姫バスの大型観光バスは一路白馬村のホテルへ走り、

日付が変わった時間にようやく部屋に入ることが出来ました。翌朝、ホテルのしっかりした朝食を食べ、バスは10時に出発して上高地に向かいました。

車窓からは取り入れ間近い黄金色の田んぼがえんえんと続き、安曇野は想像した以上に豊かな土地だなあと思いました。白い花が満開のソバ畑も多くきれいでした。


ついこの間、古代この地に北九州の海洋民族、安曇族が移住した史実をテーマにした小説「
失われた弥勒の手を読み、

地図を広げて“海ノ口”などの地名を見たばかりなのに、その「海ノ口駅」の真横を、自分が乗ったバスが走っていく!
 本を読んだ頃にはまさか間もなく自分が小説の舞台に行くとは思ってもいなかっただけに、我ながら心が弾んで窓の外を見続けました。

 実際に上高地に滞在したのは2時間に過ぎませんが、大正池から河童橋まで歩いたりして、いいところだなあと感じました。

次回はここだけに数日来たいと思いました。
   大正池の画像です。


2008年06月15日(日) 阿智胡地亭の非日乗に掲載。

安曇族は信州穂高に住み着いた。「失われた弥勒の手 安曇野伝説」を読みました。

中学生になると社会科という科目があり、その中の地理の時間に日本各県の地名を地図で習う時間があった。長野県の地図の時に、上高地の箇所を見ると「島々」と言う地名があるのに気がついた。そこから目の範囲を広げていくと「海ノ口」や「有明」という地名もあった。

 

海のない山の中なのにどうして海に関係する地名があるのだろうと単純に不思議に思った。今思うとそれが地名と人の移動の関連に関心を持つきっかけだった。

 

今回知ったのだが上高地は元々は「神垣内」と書かれ、「穂高神社」の神域にあり、“綿津見神”も祭神の一つである穂高神社は大きな船の形をした山車が出る「お船祭り」で有名だ。

「失われた弥勒の手 安曇野伝説」松本猛・菊池恩恵/共著 という本を読んだ。

共著者の一人、松本猛は画家の“いわさきちひろ”の息子で父親の里である安曇野で祖父母に育てられた。安曇野にある「ちひろ美術館」の館長でもある。

この本は日本列島に来た海洋民族(海人族)の一つであった「安曇族」の移住の歴史を探る事がテーマになっている。中国の江南の地から北九州に移住し、「志賀島(しかのしま)」を本拠地として栄え、対馬を交差点にして百済の国とも強い人的な交流があったという安曇族。彼らの一派が何故志賀島を出て信州の松本周辺にまで来て住み着いたのか?。

同じ海人族である「宗像族」はヤマト族に仕えて大和朝廷の九州海軍として生き延びたが、ヤマト族と抗争した「安曇族」は、戦いに敗れて各地に散ったと見る松本は、友人の菊池と共に韓国、対馬、北九州を歩いた。

新安曇族と称する松本にとってはルーツ探しの旅でもあった。この小説は学術書では書けない推理の部分を、安曇野の松川村にある観松院の弥勒菩薩を狂言回しに使って書いた面白い試みだ。

九州の玄界灘に臨む志賀島(しかのしま)にある「志賀海神社」の神主は代々阿曇姓の人が継いで本拠地を今も守っている。安曇川、渥美半島など安曇、阿曇、安津見、渥美、渥見などの文字がつく安曇族の後裔が住む土地は日本列島に数多い。神社へのお供え物には太古からの膨大な量の「鹿の角」が奉納されていて、海人族にとって釣り針に使った「鹿の角」は漁獲量の多寡という生存に直結する貴重な財産であったことが想像できる。

海彦・山彦の神話が記紀にあるが、日本列島に於ける海人系民族と山人系民族の抗争・交流を記録した史話と読めば、世界各地に移動、移住した人類共通のテーマでもある。そしてその具体例の一つが安曇族の北九州から信州への移動・定住の物語だろう。

残念ながら肝腎の移住の原因や定住に伴う歴史は、いまや残された神話から推測することしか出来ないが、毎年、安曇野の地では安曇族の後裔たちがお船祭りを続け、先祖に感謝し先祖の神を守っていることだけは確かなようだ。

出版社名 講談社
出版年月 2008年4月
ISBNコード 978-4-06-214645-6
(4-06-214645-2)
税込価格 1,890円

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本格木造建築の日本家屋・広瀬邸を見学しました。  その2 (了)          

2008年07月03日 | 国内旅行

広瀬記念邸の中へ入ってあちこち見て廻りました。少し驚いたのは明治20年ごろすでに洋式トイレを設けていたことです。
そして広い厨房がありましたが、おそらく賓客をもてなす料理を料理人がここで作っていたのでしょう。















 ガラスを通して庭を斜めから見ると景色が歪んで見えました。ある意味ガラスらしく懐かしく思いました。
以前のの板ガラス製造はフロート法ではなく、ロールを通して作る方法だったから表面にどうしても完全な平面が出ないからです。



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