諏訪湖、ほぼ全面結氷 「御神渡り」の可能性高まる
01月30日(月)信濃毎日新聞
写真は全面結氷した諏訪湖。諏訪市豊田の湖畔では、これまでに打ち寄せられた薄氷が重なり合うように凍っていた=30日午前9時すぎ
30日の県内は中南部を中心に晴れ、強い寒気と放射冷却の影響で厳しい冷え込みになった。諏訪は前日に続き最低気温が氷点下11・3度となり、諏訪湖がほぼ全面結氷。湖面の氷がせり上がる「御神渡(おみわた)り」の判定をする八剣神社(諏訪市小和田)の宮坂清宮司(61)は「今季一番しっかり氷が張った。数日この寒さが続けば可能性が高まる」と、2008年1月以来4季ぶりの出現に期待を寄せている。
午前7時前、同神社氏子総代2人と宮坂宮司が諏訪市豊田の湖畔から双眼鏡で観察すると、先週まで波が立っていた湖心も結氷。3人は「ようやく御神渡りの気配がしてきた」と笑顔を見せた。
総代らによると、御神渡り出現には氷点下10度前後の冷え込みが3日以上続く必要がある。長野地方気象台によると、31日の諏訪の最低気温は氷点下9度の見込み。30日の最低気温は県内30観測地点中、諏訪、松本(氷点下10・1度)、伊那(同9・7度)、飯田(同8・0度)など10地点で今冬最低。北部山沿いでは雪が続き、信濃町では午前5時現在の積雪が164センチで観測史上1位を記録した。
○ 諏訪湖の画像を3時間ごとに中継するライブカメラの映像はこちら。
○ 諏訪市街地と諏訪湖全体を10分ごとに中継するライブカメラはこちら。

諏方神社にお参りしてから富士見坂へ行きました。いまやこの「やねせん巡り」はしっかり世間に広まって
いるらしく、「富士見坂」をはじめ、コースのあちこちでカメラを手にした二人連れやグループが多く歩いていました。
富士見坂は今でも晴れた日に富士山が見えるそうです。富士見坂から「谷中銀座商店街」と「だんだん坂」へ。
「岡倉天心記念公園」には「六角堂」があり、「天心座像」が安置されています。「幸田露伴の旧居跡」、焼けた「谷中五重塔」の礎石。
「徳川慶喜の墓所」や小説「警官の血」に登場する「谷中霊園の交番」など。「よみせ通り」、改修工事中の「朝倉彫塑館」。
鶯谷駅に近い「子規庵」は昼休みでした。ループバスも走っていて次回は乗ってみようかと思いました。
根津駅近くの串揚げの「はん亭」は夕方五時からの開店で入れませんでしたが、不忍通りに面した店はランチタイムメニューで
営業していて、「ミニひつまぶし定食」は小鉢も汁も漬物もおいしくグラスワイン2杯を頼んでしまいました。
グラスワインについてくる「おひたし」の突出しがまた良かったです。ヘルシーメニューがよく知られているのか
女性客が次々入店してきました。
この昭和20年代、30年代の暮らしが残っている「やねせん」の街並みは心地のいい空間です。
何回も歩きたい場所です。今回はTMさんという先達の陰で効率よくあちこちぶらぶらさせてもらいました。
年に数回行く東京国立博物館も、上野駅からよりも鶯谷駅からの方が近いことも教えてもらいました。
新宿や渋谷はまた別の東京。時には青山も銀座ぶらぶらも好きですが、自分には「谷根千」がよく合いそうです。
これからもまた、何度も訪ねることになるでしょう。
東京在住がもう30年ほどになるT・Mさんに先達になって頂き、「やねせん」巡りをしました。
まずは「諏方神社」を目指しました。西日暮里の改札口に11時に集合して、歩きだしました。
亡くなった小説家吉村昭と奥さんの津村節子は、初詣は長く浅草の観音さまにお参りしていましたが
年々人出が多くなり、参道が歩けなくなったので、吉村昭が生まれ育った日暮里の「諏方神社」に初詣でに
行くようになったといいます。(津村節子のエッセイ「時のなごり」第4回 波一月号)。
諏方神社が日暮里にあるのは、このエッセイを読んで初めて知りました。何かの改修工事をしていて
境内は雑然としていましたが、全体の雰囲気から、古くからの信仰の場であることは感知できました。
1205年の鎌倉時代に信州諏訪の諏訪大社からこの地に勧請されたということは、江戸という町が出来る
ほぼ400年前の大昔に既に日暮里・谷中の総鎮守として崇敬を集めていたことになります。
諏訪ルーツの自分としては、この神社の存在を知った限り、パスするわけにはいきません。





まずは「諏方神社」を目指しました。西日暮里の改札口に11時に集合して、歩きだしました。
亡くなった小説家吉村昭と奥さんの津村節子は、初詣は長く浅草の観音さまにお参りしていましたが
年々人出が多くなり、参道が歩けなくなったので、吉村昭が生まれ育った日暮里の「諏方神社」に初詣でに
行くようになったといいます。(津村節子のエッセイ「時のなごり」第4回 波一月号)。
諏方神社が日暮里にあるのは、このエッセイを読んで初めて知りました。何かの改修工事をしていて
境内は雑然としていましたが、全体の雰囲気から、古くからの信仰の場であることは感知できました。
1205年の鎌倉時代に信州諏訪の諏訪大社からこの地に勧請されたということは、江戸という町が出来る
ほぼ400年前の大昔に既に日暮里・谷中の総鎮守として崇敬を集めていたことになります。
諏訪ルーツの自分としては、この神社の存在を知った限り、パスするわけにはいきません。




