店の前はいつも通っていますが、これまで入ったことがなかった「瑠美」。あいかたの希望で初めて入ってみました。
表からだけでは想像できない店内の広さで、休日のランチタイムとは言え、お客さんで一杯です。幸いすぐに座れましたが、見ていると家族連れ、一人女性客、若い男性の二人連れ、おばあさんの一人客など、様々なお客さんが席を立つとまた新たに入ってきます。私は、この店の名物エビフライにご飯とスープをつけました。
あいかたは本日のランチ『和牛ミンチカツセット』です。
何の気なしに箸袋を見て驚きました。ビルの名前が「御影師範ビル」なのです。このビルは建て替えはあったのでしょうが
当地に「御影師範」があったときからのビルなのかも知れません。御影師範は大正時代、詩人の八木重吉が先生をしていました。
客の回転に合わせてホール係の女性二人もキビキビと動き、気持ちがいい。
久しぶりのエビフライはさすがの味で、たくさんの客がオーダーしているのも納得。ミンチカツも更なり!でした。
そして嬉しいのは焼きたてのパンの旨さとスープの旨さです。
神戸に住む幸せの一つにどんな洋食屋さんでもうまいパンをサーブしてくれることがあります。パンとケーキが普通の
値段でも、どこの店でも一定以上のレベルというのは神戸のありがたいところです。
☆Wikipediaから一部引用
八木 重吉(やぎ じゅうきち、1898年2月9日 - 1927年10月26日)は日本の詩人。
「東京府南多摩郡堺村(現在の東京都町田市)に生まれる。神奈川県師範学校(現・横浜国立大学)を経て、東京高等師範学校の英語科を1921年に卒業。兵庫県の御影師範学校(現・神戸大学)、次いで1925年から千葉県の柏東葛中学校(現・千葉県立東葛飾高等学校)で英語教員を務めた。
神奈川県師範学校在学時より教会に通いだすようになり、1919年には駒込基督会において富永徳磨牧師から洗礼を受けた。1921年に将来の妻となる島田とみと出会う。この頃より短歌や詩を書き始め、翌年に結婚した後は詩作に精力的に打ち込んだ。1923年のはじめから6月までにかけて、自家製の詩集を十数冊編むほどの多作ぶりであり、1925年には、刊行詩集としては初となる『秋の瞳』を刊行した。
同年、佐藤惣之助が主催する「詩之家」の同人となる。この頃から雑誌や新聞に詩を発表するようになったが、翌年には体調を崩し結核と診断される。茅ヶ崎で療養生活に入り、病臥のなかで第2詩集『貧しき信徒』を制作したものの、出版物を見ることなく、翌年、29歳で亡くなった。5年ほどの短い詩作生活の間に書かれた詩篇は、2000を優に超える。」
太陽
太陽をひとつふところへいれてゐたい
てのひらへのせてみたり
ころがしてみたり
腹がたったら投げつけたりしたい
まるくなって
あかくなって落ちてゆくのをみてゐたら
太陽がひとつほしくなった
雨
雨のおとがきこえる
雨がふっていたのだ
あのおとのようにそっと世のためにはたらいていよう
雨があがるようにしづかに死んでゆこう
表からだけでは想像できない店内の広さで、休日のランチタイムとは言え、お客さんで一杯です。幸いすぐに座れましたが、見ていると家族連れ、一人女性客、若い男性の二人連れ、おばあさんの一人客など、様々なお客さんが席を立つとまた新たに入ってきます。私は、この店の名物エビフライにご飯とスープをつけました。
あいかたは本日のランチ『和牛ミンチカツセット』です。
何の気なしに箸袋を見て驚きました。ビルの名前が「御影師範ビル」なのです。このビルは建て替えはあったのでしょうが
当地に「御影師範」があったときからのビルなのかも知れません。御影師範は大正時代、詩人の八木重吉が先生をしていました。
客の回転に合わせてホール係の女性二人もキビキビと動き、気持ちがいい。
久しぶりのエビフライはさすがの味で、たくさんの客がオーダーしているのも納得。ミンチカツも更なり!でした。
そして嬉しいのは焼きたてのパンの旨さとスープの旨さです。
神戸に住む幸せの一つにどんな洋食屋さんでもうまいパンをサーブしてくれることがあります。パンとケーキが普通の
値段でも、どこの店でも一定以上のレベルというのは神戸のありがたいところです。
☆Wikipediaから一部引用
八木 重吉(やぎ じゅうきち、1898年2月9日 - 1927年10月26日)は日本の詩人。
「東京府南多摩郡堺村(現在の東京都町田市)に生まれる。神奈川県師範学校(現・横浜国立大学)を経て、東京高等師範学校の英語科を1921年に卒業。兵庫県の御影師範学校(現・神戸大学)、次いで1925年から千葉県の柏東葛中学校(現・千葉県立東葛飾高等学校)で英語教員を務めた。
神奈川県師範学校在学時より教会に通いだすようになり、1919年には駒込基督会において富永徳磨牧師から洗礼を受けた。1921年に将来の妻となる島田とみと出会う。この頃より短歌や詩を書き始め、翌年に結婚した後は詩作に精力的に打ち込んだ。1923年のはじめから6月までにかけて、自家製の詩集を十数冊編むほどの多作ぶりであり、1925年には、刊行詩集としては初となる『秋の瞳』を刊行した。
同年、佐藤惣之助が主催する「詩之家」の同人となる。この頃から雑誌や新聞に詩を発表するようになったが、翌年には体調を崩し結核と診断される。茅ヶ崎で療養生活に入り、病臥のなかで第2詩集『貧しき信徒』を制作したものの、出版物を見ることなく、翌年、29歳で亡くなった。5年ほどの短い詩作生活の間に書かれた詩篇は、2000を優に超える。」
太陽
太陽をひとつふところへいれてゐたい
てのひらへのせてみたり
ころがしてみたり
腹がたったら投げつけたりしたい
まるくなって
あかくなって落ちてゆくのをみてゐたら
太陽がひとつほしくなった
雨
雨のおとがきこえる
雨がふっていたのだ
あのおとのようにそっと世のためにはたらいていよう
雨があがるようにしづかに死んでゆこう