阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

新開地の「トシヤ」でいつもの黒い「そば焼」と赤だしを

2014年02月13日 | 食べる飲む
湊川神社から足を伸ばして、新開地へ。ここまで来ると50年ほど前に知った「トシヤ」の[そば焼]を食べたくなる。



帰りは高速神戸駅まで地下道を歩きました。地下街の両側の見慣れた店舗が大幅になくなっていて驚きました。激しく入れ替えがあったようです。
高速神戸駅の大阪梅田方面のホームは左側から阪急電車が、右側から阪神電車が発車して、大阪まで山側と海側のルートに別れて
走ります。神戸大阪間はその真ん中をJRが走るという、公共輸送機関としては日本でも贅沢な構えになっています。

テレビ番組の「ケンミンショー」に登場した「トシヤ」

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湊川神社に遅ればせながら初詣

2014年02月13日 | 神戸あちこち
明治政府が明治5年に創建した湊川神社。アメリカ空軍の焼夷弾空爆で焼失したが、いまはこのように再建されています。


神社の沿革
 楠木正成は、延元元年(1336年)5月25日、湊川の地で足利尊氏と戦い殉節した(湊川の戦い)。その墓は長らく荒廃していたが、元禄5年(1692年)になり徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立した。以来、水戸学者らによって楠木正成は理想の勤皇家として崇敬された。幕末には維新志士らによって祭祀されるようになり、彼らの熱烈な崇敬心は国家による楠社創建を求めるに至った。1867年(慶応3年)に尾張藩主徳川慶勝により楠社創立の建白がなされ、明治元年(1868年)、それを受けて明治天皇は大楠公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するよう命じ、明治2年(1869年)、墓所・殉節地を含む7,232坪(現在約7,680坪)を境内地と定め、明治5年(1872年)5月24日、湊川神社が創建された。

 幕末、維新志士たちは、武家政権を倒し天皇親政を実現しようとした南朝の忠臣らを自らに重ね、彼らを理想とした。特に楠木正成はその忠臣の筆頭に挙げられ、多くの維新志士が彼の崇拝者となり、その祭祀を行った。明治維新の意義は、公的には神武創業に回帰するという意味が岩倉具視らの強い主張により与えられたが、実際の倒幕運動は神武創業というよりはむしろ建武の新政を理想として行われたものであった。それは江戸時代に儒学の興隆によって興った南朝正統論に起源するものである。
明治維新が実現すると、楠木正成は、皇室に忠義を尽くした第一の功臣として顕彰され、神社が建てられることとなった。神社の創建には薩摩藩、尾張藩、水戸藩などが主導権を争ったが、最終的に神社は国家が祀るものとして、政府が主導して建てられた。
湊川神社の創建は、これに続く南朝関連の人物を祀る神社創建の嚆矢となり、別格官幣社に代表される、功績のあった人物を神社に祀る風習のさきがけとなるなど、近代神社史上、無視できない重要な位置を占めることとなる。
また、楠木正成のエピソードに基づく「七生報国」の語は戦時中のスローガンとなった。戦災で社殿を焼失したが、戦後復興している。(Wikipediaから部分引用)
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新しい鍋敷き(Pot Stand)登場。

2014年02月13日 | 身辺あれこれ
見慣れない鍋敷きが出ていたので聞くと、20年以上前のものが棚の奥から出てきたとのこと。国産だと思うが可愛いデザインだ。
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