Kさん夫妻の台湾東海岸紀行の最終回です。
⇒知本駅の売店で弁当を探したが見当たらない。店員のお爺さんが「弁当あるよ」と声をかけアイスBoxを開けてくれた。
これで昼食にありついた。
車窓から
次の目的地金崙駅で下車したが一時間ほどホームで過ごした。
ホームからの海の眺めが素晴らしいというが、木々の間から少ししか見えなかった。海を見たり電車の写真を撮ったりしてのんびり過ごした。
この駅から4Kmほど離れた山里に金崙温泉がある、タクシーはいないので宿に送迎をお願いするしか無いようだ。秘湯温泉だ。
高雄行の電車に乗った時には温泉帰りと思われる客が50人くらい乗り込んだ。
金崙から電車で1時間ほど進むとトンネルを抜け両側に果樹園が続いている。木には白い袋がかかっていた。ここは台湾マンゴーの一大産地坊山地区だ。
あと1ケ月もすれば美味しいマンゴーの収穫時期だ。
高雄駅には5時前に着いて駅前のホテルにチェックイン。
最後の夜はMRTで3駅目の瑞豊夜市へ向かった。日本人団体旅行客は六合夜市に連れていかれるが、瑞豊夜市は地元の人の夜市でごった返していた。
小さな広場に狭い路地が縦横無尽にあり、この両側には屋台、雑貨売り場、遊技場(射的、輪投げ等)が連なっている。
土曜日の夜だったので多くの親子ずれもいた。
ここでは3件の店でネギ餅揚げ、火鍋、牡蠣とホタテの炭火焼きを食べた。目的の牡蠣オムレツが無かったのは残念だった。
今回の旅行で気が付いたこと、思ったこと
1)台湾は緑が多い
2)小さな村、街で一番立派な建物は学校である
3)警察官派出所の数が多い
4)電車、バイキング食事代の子供料金は年齢ではなく身長で決まる
5)台湾人は穏やかで親切である
6)食事は日本人の口に合う、美味い、とにかく安い
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Kさんから掲載のお礼メールが来ましたが、その中から。
⇒今朝NHKのニュースを見ていたら「中国は蔡政権への嫌がらせで台湾への渡航制限を
始めた。観光地九分では土産物屋、民泊などに影響が出ている」とのことだった。
確かに九分では5年前より人通りが少なかった。
今回は比較的ゆっくりしたスケジュールだったのでのんびり歩いた。
歩くことにより、朝の九分の全景、将軍府、91歳の老人、猿との遭遇等の出会いがあり
刺激を受けました。最近日本で刺激を受ける事が無いような気がする。
旅行から帰ったら、先日我が家にホームステイした台湾の修学旅行の子から礼状と贈り物(パイナップルとマンゴーの
ドライフルーツ)が届いていました。美味しく頂きました。
話は変わりますが12日夕方花蓮の街角で投函した絵葉書が16日昼に着きました。速さに驚きです。
☆Kさん、今回もいい旅をしましたね。
台湾は本当に""豊かな国""になったと感じます。もしかすると個人の幸せ度では日本を越えている。
大陸は貧富の差が激しいし都市と地方の差もまだまだあるようですが、台湾はなべて民度が高いような気がします。
昭和50年代に何回も行った高雄に地下鉄が出来ているのは知りませんでした。
阿智胡地亭の「海外あちこち記」から。
その16 台湾/高雄篇
1、台北ー高雄
台北から台湾南部の工業・港湾都市の高雄には汽車(中国語では火車)もありますが、時間がかかるので高雄の「中国鋼鉄公司」へ行くときは飛行機に乗って移動しました。
離陸しすぐ上昇し、水平飛行なしですぐに下降するくらいの感じの飛行です。
ある出張の一週間前、好きな小説家の向田邦子さんがこのルートで飛び、飛行機の空中分解で満員の乗客とともに亡くなりました。後で上昇、下降のくり返しから来る機体の金属疲労が原因ではないかと新聞に出ました。一緒に行った人が今回は汽車で行こうと言いましたが、今まで一週間後に同じ飛行機事故は統計的に起こってないから、飛行機で大丈夫と言いましたが彼は汽車、僕は飛行機と別れて乗りました。当時日ごろは、どのフライトもチケットが取れるかどうかいつも満席で大変な頃でしたが、乗ったDC10は乗客が全部で5人か6人でした。大丈夫とは思うものの着陸するまではさすがに落ち着きませんでした。 「父の詫び状」や「あ、うん」など、毎年恒例の正月の向田さん原作のテレビドラマは欠かさず見ます。
2、もう一つ高雄で。
港湾クレーンの件で高雄港に行った帰りに乗ったタクシーが、この国のいつものように飛ばしていました、小雨がパラついてきて嫌な予感がしました。向こうから鋼材を積んだ大型トラックがこれまた、飛ばしてくるのが見え、ウインカーを出さずに、タクシーの前で急に曲がりました。ウンチャンが「アイヤー」と言って、ブレーキを踏みましたが、港への引込線なのか、車輪が濡れたレールの上を走っていたので、タクシーはスリップしてゆっくりと回転しながらトラックの後ろにはみ出た鋼材の方に近寄りました。ああこれでオシマイと目をつぶったとき、鼻の先をトラックが走り抜けました。 反対方向を向いて停まったタクシーのウンチャンはさすがに青い顔をして荒い息をしていましたが、暫くして車をまわしてホテルに向かいました。ああいう時は床に伏せることも出来ず、ただ迫ってくる激突の瞬間をスローモーションのように待っているだけでした。今は台湾でも車があんなスピードで走っていないと思いますが日本でも神風タクシーと言われた時代があったように、モータリゼーションの初期の国はどこも交通ルールはあってないみたいなもので、結構交通事故にあった日本人も多かったです。
⇒知本駅の売店で弁当を探したが見当たらない。店員のお爺さんが「弁当あるよ」と声をかけアイスBoxを開けてくれた。
これで昼食にありついた。
車窓から
次の目的地金崙駅で下車したが一時間ほどホームで過ごした。
ホームからの海の眺めが素晴らしいというが、木々の間から少ししか見えなかった。海を見たり電車の写真を撮ったりしてのんびり過ごした。
この駅から4Kmほど離れた山里に金崙温泉がある、タクシーはいないので宿に送迎をお願いするしか無いようだ。秘湯温泉だ。
高雄行の電車に乗った時には温泉帰りと思われる客が50人くらい乗り込んだ。
金崙から電車で1時間ほど進むとトンネルを抜け両側に果樹園が続いている。木には白い袋がかかっていた。ここは台湾マンゴーの一大産地坊山地区だ。
あと1ケ月もすれば美味しいマンゴーの収穫時期だ。
高雄駅には5時前に着いて駅前のホテルにチェックイン。
最後の夜はMRTで3駅目の瑞豊夜市へ向かった。日本人団体旅行客は六合夜市に連れていかれるが、瑞豊夜市は地元の人の夜市でごった返していた。
小さな広場に狭い路地が縦横無尽にあり、この両側には屋台、雑貨売り場、遊技場(射的、輪投げ等)が連なっている。
土曜日の夜だったので多くの親子ずれもいた。
ここでは3件の店でネギ餅揚げ、火鍋、牡蠣とホタテの炭火焼きを食べた。目的の牡蠣オムレツが無かったのは残念だった。
今回の旅行で気が付いたこと、思ったこと
1)台湾は緑が多い
2)小さな村、街で一番立派な建物は学校である
3)警察官派出所の数が多い
4)電車、バイキング食事代の子供料金は年齢ではなく身長で決まる
5)台湾人は穏やかで親切である
6)食事は日本人の口に合う、美味い、とにかく安い
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Kさんから掲載のお礼メールが来ましたが、その中から。
⇒今朝NHKのニュースを見ていたら「中国は蔡政権への嫌がらせで台湾への渡航制限を
始めた。観光地九分では土産物屋、民泊などに影響が出ている」とのことだった。
確かに九分では5年前より人通りが少なかった。
今回は比較的ゆっくりしたスケジュールだったのでのんびり歩いた。
歩くことにより、朝の九分の全景、将軍府、91歳の老人、猿との遭遇等の出会いがあり
刺激を受けました。最近日本で刺激を受ける事が無いような気がする。
旅行から帰ったら、先日我が家にホームステイした台湾の修学旅行の子から礼状と贈り物(パイナップルとマンゴーの
ドライフルーツ)が届いていました。美味しく頂きました。
話は変わりますが12日夕方花蓮の街角で投函した絵葉書が16日昼に着きました。速さに驚きです。
☆Kさん、今回もいい旅をしましたね。
台湾は本当に""豊かな国""になったと感じます。もしかすると個人の幸せ度では日本を越えている。
大陸は貧富の差が激しいし都市と地方の差もまだまだあるようですが、台湾はなべて民度が高いような気がします。
昭和50年代に何回も行った高雄に地下鉄が出来ているのは知りませんでした。
阿智胡地亭の「海外あちこち記」から。
その16 台湾/高雄篇
1、台北ー高雄
台北から台湾南部の工業・港湾都市の高雄には汽車(中国語では火車)もありますが、時間がかかるので高雄の「中国鋼鉄公司」へ行くときは飛行機に乗って移動しました。
離陸しすぐ上昇し、水平飛行なしですぐに下降するくらいの感じの飛行です。
ある出張の一週間前、好きな小説家の向田邦子さんがこのルートで飛び、飛行機の空中分解で満員の乗客とともに亡くなりました。後で上昇、下降のくり返しから来る機体の金属疲労が原因ではないかと新聞に出ました。一緒に行った人が今回は汽車で行こうと言いましたが、今まで一週間後に同じ飛行機事故は統計的に起こってないから、飛行機で大丈夫と言いましたが彼は汽車、僕は飛行機と別れて乗りました。当時日ごろは、どのフライトもチケットが取れるかどうかいつも満席で大変な頃でしたが、乗ったDC10は乗客が全部で5人か6人でした。大丈夫とは思うものの着陸するまではさすがに落ち着きませんでした。 「父の詫び状」や「あ、うん」など、毎年恒例の正月の向田さん原作のテレビドラマは欠かさず見ます。
2、もう一つ高雄で。
港湾クレーンの件で高雄港に行った帰りに乗ったタクシーが、この国のいつものように飛ばしていました、小雨がパラついてきて嫌な予感がしました。向こうから鋼材を積んだ大型トラックがこれまた、飛ばしてくるのが見え、ウインカーを出さずに、タクシーの前で急に曲がりました。ウンチャンが「アイヤー」と言って、ブレーキを踏みましたが、港への引込線なのか、車輪が濡れたレールの上を走っていたので、タクシーはスリップしてゆっくりと回転しながらトラックの後ろにはみ出た鋼材の方に近寄りました。ああこれでオシマイと目をつぶったとき、鼻の先をトラックが走り抜けました。 反対方向を向いて停まったタクシーのウンチャンはさすがに青い顔をして荒い息をしていましたが、暫くして車をまわしてホテルに向かいました。ああいう時は床に伏せることも出来ず、ただ迫ってくる激突の瞬間をスローモーションのように待っているだけでした。今は台湾でも車があんなスピードで走っていないと思いますが日本でも神風タクシーと言われた時代があったように、モータリゼーションの初期の国はどこも交通ルールはあってないみたいなもので、結構交通事故にあった日本人も多かったです。