江戸時代。西洋や中国への唯一の窓口だった長崎。今、多くの観光客が訪れる出島のオランダ商館や唐人屋敷跡は華やかな国際貿易の拠点だった。
その陰で、すぐ近くの浦上村では、国策だった禁教令下でも潜伏キリシタンが生き抜いていた。
近年の日本史研究で、キリシタンと非キリシタンは共生し、長崎奉行所もキリシタンの存在を黙認していたことが分かってきた。
浦上では、村民たちが対立を抱えながらも、国家の論理を何とかかわしてぎりぎりの共生を図っていた。
原爆投下から79年目の2024年8月9日。
長崎市は、パレスチナ自治区ガザを攻撃するイスラエルを平和祈念式典に招待しなかった。
23年5月、戦争被爆地・広島で初めて開かれた先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)で、核なき世界への理想を共有し
「結束」したはずの米英両国などは長崎市の対応に反発し、長崎の平和祈念式典への大使不参加を決めた。
人類史に刻まれた惨禍である原爆の犠牲になった人たちを追悼する式典を巡って、改めて浮かび上がった戦争被爆国と原爆投下国との深い溝。
地獄の猛火に焼き殺された犠牲者のことなど考えもしないかのように、国家の論理が、79年後も露骨に打ち出される結果となった。
爆心地・浦上の先人たちの「異教徒共生の歴史」を歩いて探訪し、ウクライナや中東で戦争が起きている現在の国際情勢に投げかける意義を探った。
(共同通信長崎支局長=下江祐成) ▽福山雅治さんが曲にした被爆クスノキ
JR長崎駅のすぐ近く、長崎市西坂町から始まる浦上街道は歴史の宝庫だ。
いきなり見えるのが、豊臣秀吉のキリシタン弾圧で、処刑された西坂の二十六聖人最期の地だ。
少し向こうには、江戸時代、浦上地区の潜伏キリシタンの檀那寺となっていた聖徳寺が見える。
お寺の次は、長崎市出身の歌手・福山雅治さんが曲の題材にした被爆クスノキがある山王神社に着く。
山王神社は、キリシタン農民ら約3万人が蜂起した日本史上最大の農民一揆「島原天草の一揆」を鎮圧した江戸幕府の老中、
松平伊豆守信綱が島原半島からの帰途、建立を提案したことでも知られている。
▽近代化で村社会の共生関係が崩壊 3カ所に共通するのは「受難と再生、祈り」を繰り返してきた浦上キリシタンの歴史だ。
幕末から明治初期の大弾圧「浦上四番崩れ」が象徴的な事件だ。約3千4百人が浦上から西日本各地に流刑され、厳しい拷問で6百人超が亡くなった。
実は、それ以前にも禁教令を破っていると疑われた事件はあった。だが、長崎奉行所は「警戒すべき宗教活動だが、キリシタンではない」と穏便に事件を処理していた。
村社会の秩序維持のため、キリシタンが信仰を表明しない限り黙認し、共生していたと考えられている。
早稲田大教育・総合科学学術院の大橋幸泰教授(近世宗教史)によると、当時は宗教の掛け持ちが当たり前だった。キリシタンも村民としての意識が強く
、寺や神社の活動にも参加していた。 村社会が結束していた宗教混在の共存関係が崩れたのは、開国が迫っていた幕末の頃からだ。
江戸幕府を倒した明治政府は近代化を進め、国家神道を第一とする天皇中心の秩序による新国家建設を推進した。
神仏分離政策や廃仏毀釈に見て取れる一神教的な価値観が広がった時代背景下、キリストを唯一の神とあがめる人たちへの大弾圧が行われた。
▽人類史に刻まれた地獄の猛火 キリスト教徒が各地に流刑となり、厳しい拷問で6百人以上の犠牲者を出した浦上四番崩れの後。
「受難の旅」から帰郷した信徒たちはようやく信教の自由を得て、かつて絵踏みを行っていた、小高い丘の上の庄屋屋敷跡に、30年もかけて浦上天主堂を完成させた。
だが人類史に刻まれる惨禍はこれからだった。宗教も職業も年齢も民族も関係なく、全てを焼き尽くし吹き飛ばした無差別大量虐殺が行われた。
1945年8月9日。米国は広島に続き、浦上の上空で原爆をさく裂させた。初のプルトニウム型原爆の投下だった。
浦上ではカトリック教徒約1万2千人のうち、約8千5百人が犠牲になった。浦上天主堂も倒壊した。
長崎への原爆投下で、45年末までに死者は約7万4千人、重軽傷者は約7万5千人に上ったと推計されている。
79年後の今になっても死者数さえも確定できていない。一人一人の人間の命や尊厳など一顧だにされない地獄の惨禍が、本当に起きてしまった。
数々の迫害や絶対に許されない虐殺。それを無抵抗で耐え忍び、再び生きようと祈り続けているのが爆心地・浦上を中心とした長崎の歴史だと言える。
強烈な爆風と熱線で枝葉が吹き飛び、幹も折れ黒焦げになった山王神社の被爆クスノキは、被爆後、新芽を吹き返し、今も青い空へと枝葉を広げている。
幹に巨大な傷跡が残る2本のクスノキを見に行くと、神社の敷地内にある保育園の子どもたちの元気な遊び声が聞こえたり、
原爆の惨禍を学ぼうと遠くから来てくれている外国人に出会えたりする。2本のクスノキは、数百年もの間、人々の生と死を黙って見守り続けている。
「長崎を最後の被爆地に」。地獄の猛火に焼かれた原爆犠牲者たちのせめてもの願いと祈りが、宗教や民族、国籍に関係なく、世界中に広がっていってほしいと思う。
▽共生と祈りの浦上が、分断と敵対の世界に投げかける意義とは… 今、世界中で分断と敵対が深まり、戦争も起きている。
原爆犠牲者たちのせめてもの願いを踏みにじるかのように、核戦力は増強されており、核兵器使用の威嚇もある。受難と再生、祈りの地である浦上は、
近代化前の江戸時代、キリシタンと非キリシタンが時に対立を抱えながらも何とか共生してきた村だった。
潜伏キリシタンの子孫に、その原点や教えを守ってきた要因、現在の国際情勢をどう思うか聞いてみた。
昨年夏。台風一過の炎天下、浦上にある「ベアトス様」の墓を訪ねた。
キリスト教が禁じられていた江戸時代の初期、自分と家族を捕らえに来た役人に新米を炊いてもてなした後、静かに火刑に処されたと伝えられている村民の墓だ。
キリストがはりつけにされたゴルゴタの丘に似ているという「十字架山」に登った後、浦上天主堂を見学した。
原爆で約1300人の児童が犠牲になった山里小学校の原爆資料室に立ち寄ると、案内をしていた森内浩二郎さん(71)に偶然、出会えた。
森内さんは、フランス人神父に信仰を伝えた1865年の「信徒発見」の主人公の一人、森内テルの5代目の子孫だ。
▽潜伏の村に残る亡命キリシタン武士たちの足跡 森内さんを10カ月ぶりに訪ね、浦上の歴史について語ってもらった。
森内さんが父親から聞いた話では、浦上村の最前線の位置にあった森内家は武士の出身だ。原爆で何もかも吹き飛ばされたが、家には刀があったという。
先祖のルーツは、姓のことか出身の土地のことなのか分からないが「きくち」と聞いた。浦上には他にも、先祖は武士という人がいたという。
森内さんは、約250年間も教えを守ることができたのは、戦闘集団だったキリシタンの元武士たちが、同じ信仰を持つ農民の中に入り込み、
統率の取れた強固なネットワークを構築したからではないかと考えている。 農民として暮らしながら秘かに忍術を伝えてきた伊賀や甲賀の村のようなイメージが浮かぶ。
森内さんの案内で、浦上キリシタンの指導者である「帳方」の屋敷跡に立つと、江戸時代には絵踏みが行われていた庄屋屋敷跡に立つ、浦上天主堂がすぐ近くに見えた。
「潜伏の拠点」だったはずの帳方屋敷跡は、権力者側とされる庄屋の屋敷からすぐ見える場所で、見晴らしのいい丘の上の一等地にあった。
森内さんは、帳方が、浦上の要所要所に元武士たちを配置し、教えを後世に伝えていったと考えている。
▽原爆で亡くなった庄屋の子孫が永井博士に話したこと 権力者側とされる庄屋についても考察したい。
浦上で代々、庄屋を務めた高谷家は、元々「菊地」姓の武士だった。豊後(大分県)のキリシタン大名・大友家に仕えていた菊地氏は
、大友家の領地が豊臣秀吉により没収されたため、自身の家臣団を連れて、かつてイエズス会に寄進されキリシタンの土地だった浦上に亡命してきたと考えられている。
原爆で被爆しながらも救護に当たった医師の永井隆博士は、2人の子どもへの遺訓とした著書で、高谷家に関して興味深い記述を残した。
博士は、役人や隣人が迫害者側に立ったという文献から離れる必要があると指摘。長崎という土地の人情を考えると「役人や市民は、
キリシタンをかばう気持ちが強かったと認めたい」と記した。
博士は、高谷家の子孫で原爆で亡くなった兄弟から直接聞いた浦上の平和を維持するための庄屋の苦労話や、生前の兄弟の人柄を紹介した上で
「先祖代々、きっと善い人であったであろう」「迫害者の柄ではない」と書き残した。
博士の妻は、 キリシタン指導者「帳方」の子孫に当たり、博士の病室兼書斎があった場所こそが、帳方の屋敷跡だ。
江戸時代初期の苛烈な弾圧後、キリシタンと非キリシタンは共生していたことが、近年の日本史研究でようやく分かってきた。
実際に現場を歩いてみると、「潜伏」という地下に隠れるような暗い言葉のイメージとは異なり、村全体が組織化され結束していたという印象が残った。
キリシタンを厳しく取り締まっていたはずの長崎奉行所も、浦上村の近くにあった。
体制側の役人も、仏教徒の村民も、隣人が幕府の解釈では違法な存在であるキリシタンだと分かっていながら、共生していたのだと感じた。
浦上村の歴史を調べてみると、現在のどの社会でもありがちな対立や相互不信、時に密告さえもありながらも、隣人同士がぎりぎりの妥協点や均衡を模索し
、苦労しながらも共生してきた先人たちの姿が目に浮かんだ。 ▽原爆犠牲者は天国にいる。でも…… 1945年8月9日。
人類史に刻まれる惨禍の地となってしまった浦上…。森内さんに、受難の地・浦上の先祖たちの生きざまについて聞いた。
森内さんは「江戸時代初期のベアトス様のように、抵抗せずに迫害をただただ受け入れて、祈り続けるのが浦上だ。
浦上の人たちは代々、小さいときから母親の膝の上で祈りを聞いてきた。教えを守ってこられたのは、強い女性の力が大きかったのだと思う。
信徒発見で、危険を冒してでも神父がいる大浦天主堂に行こうと言い出したのは女性だった」と話した。
現在の国際情勢に目を向けると、米中両国の覇権争いやウクライナでの戦争など、世界中で対立と分断が深まり、人々は争いに明け暮れている。
宗教を口実とした土地の奪い合いや殺し合いが頻繁に起こる中東では、迫害を受け続けてきたイスラエルの人たちが、今は、弱い立場のパレスチナ人に暴力を振るっている。
森内さんに見解を尋ねた。 「浦上は、イスラエルとは違います。苦しい時も嬉しい時も、ただ祈り、神に委ねます。イスラエルの人たちは、
自分たちのお父さんやお母さん、おじいちゃん、おばあちゃんが受けてきた迫害と同じようなことを、なぜ今、弱い立場の人たちにするのでしょうか?」
浦上の上空でさく裂した原爆の犠牲者たちのことを尋ねると、森内さんは力を込めて即答した。
「カトリックであろうとなかろうと、みんな天国に行っていることを確信しています」 だが、どうしても、割り切れない思いが残る。
「なぜ、浦上だけ苦しみを受け続けないといけなかいのかなと思う。もしかしたら、神様が浦上の歴史を通して、人類に何かを教えようとしているのかもしれない……」
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