阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
1942年生まれが江戸川区から。

村上春樹が世に出た小説『風の歌を聴け』を今頃初めて読んだ。  何だ、このちゃらちゃらした文章はと思ったが・・しかし最後まで読んでしまった。

2024年07月08日 | 乱読は楽しい

村上春樹のエッセイは週刊朝日に連載当時 毎週面白く読んでいた。

しかし小説は「ノルウェイの森」を 当時同じ職場の吉田さんに勧められて借りて読んでも 最後まで面白いと思わず返却した。

 それ以来 彼の社会に対するいろんな発言は逃さずキャッチしてきたが小説には手がでなかった。

村上春樹という小説家が 高校を卒業するまで暮らした空間は「西宮・芦屋・東神戸のいわゆる❝阪神間❞」で

自分が高校、大学時代を暮らした空間であることは知っていた。

その村上春樹が世に出た作品が「風の歌を聴け」で、小説の場がその❝阪神間❞であることを知って どんな本か急に興味が出て図書館から借り出して読み始めた。

 

 最初の数ページでああこらあかんヮと感じた。著者は日本の文学書ではなく 若い時から英米の小説をずっと沢山読んできた人だと思った。

そのせいか、翻訳本の匂いのする自分にはなじめない文体の本だった。表現に洒落た比喩や例えが多すぎて すぐには内容に入っていけない。

 しかし文章は読んだことのない気持ちのいいテンポですすみそのまま読み進めた。

特に自分も高校生時代によく聞いた日本で最初の「ラジオ神戸の電リク」らしきものが 出てきて小説の骨の一つに使われてるのも面白く思った。

 村上春樹が過ごした阪神間での月日とは7年の違いもあるが、同じ阪神間で過ごしても 彼の五感が感じて作った世界と自分のそれは当然ながら

全く違っていてまるで重なることはない。(彼が通った芦屋市立の中学や 兵庫県立高校は自分も暮らした阪神間にあった) 

 80歳を過ぎている自分にはまことに不思議な内容の1997年7月発行の本だったが、村上春樹が処女作に(自分の1970年の夏を描いた世界)にいつのまにか

じわっと入り込んいた。次はどう展開するかが読めないし予定調和はないのがいい。彼の本をもう一冊図書館で借りて読んでみようという気になって読み終えた。

 

群像新人文学賞受賞 サイトから引用:

  1970年夏、あの日の風は、ものうく、ほろ苦く通りすぎていった。僕たちの夢は、もう戻りはしない──。

青春の生のかけらを、乾いた都会的な感覚で捉えた、新鋭、爽やかなデビュー!

──吉行淳之介の評価

この新人の作品は、近来の収穫である。これまでわが国の若者の文学では、「20歳(とか、17歳)の周囲」というような作品がたびたび書かれてきたが、

そのようなものとして読んでみれば、出色である。乾いた軽快な感じの底に、内面に向ける眼があり

主人公はそういう眼をすぐに外にむけてノンシャランな態度を取ってみせる。

そこのところを厭味にならずに伝えているのは、したたかな芸である。しかし、ただ芸だけではなく、そこには作者の芯のある人間性も加わってきているようにおもえる。

そこを私は評価する。

◎印南 敦史さんの読後感 こちら

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【ラジオ深夜放送の時代(1)】ラジオ関西『電話リクエスト』編①

◎電話でリクエスト?若い人は「何のこと?」とお思いでしょうが、インターネットも携帯電話もなかった時代、ラジオが若者たちの情報伝達手段でした。

メールなどという便利なモノがなかった時代、オッチャンたちは(オバチャンたちも)、心に秘めた淡い思いを、『電リク』のメッセージに託したものです。

 日本で最初の『電話リクエスト(通称・電リク)』は、ラジオ神戸(現ラジオ関西)が開局した昭和27年のクリスマス・イヴに、オン・エアーされました。

初代のディスクジョッキーは小山美智子さん。2005年発行の「天満人」第4号で、小山美智子さんに当時のお話を伺いました。

小山さんは、大正9年のお生まれで、ラジオ神戸の第一期アナウンサーでした。

 日本で最初の『電話リクエスト』

小山美智子 ラジオ神戸は、開局の年(昭和27年)に、民放ではじめて『プロ野球中継』を放送しています。旺文社の『大学受験講座』もスタートさせました。

他に『クラシック登龍門』やラジオドラマの『少年ターザンは行く』など、人気番組が次々と誕生しました。

そして、クリスマス・イヴには、ラジオ神戸を代表する看板番組の『電話リクエスト』がはじまったんです。

『電話リクエスト』(通称・電リク)は、ラジオ神戸が日本で最初にはじめたのよ。

 

電話リクエストは、当時のアメリカで人気のあった番組でした。それをラジオ神戸でもやろうと提言なさったのは高橋太一郎とおっしゃる方でした。

高橋さんは犬を連れて役員室の中を歩くような、とてもユニークな方でしたが、アメリカ帰りだったんです。その高橋さんの提言に役員が賛同したわけね。

その後、末広光夫さんが加わって番組がはじまることになりました。末広さんはジャズ評論家の油井正一さんに師事をして、ジャズ、ポピュラーには詳しかったんです。

初代のディスクジョッキーは私がやることになりました。

 電話リクエストの第一回放送は、昭和27年(1952)の12月24日。「クリスマス・テレホンリクエスト」のタイトルで、

深夜の午前1時から5時までの4時間放送することが決まりました。

アメリカで人気があるとは言っても、日本では始めての試みで、しかも深夜のの放送でしたから、番組がスタートしてもリクエストの電話がかかってくるかどうか、

とても心配でした。電話がなかった時のことを考えて、レコードを5、6枚用意して、オンエアーの瞬間を迎えました。

 日本で最初の『電リク』の記念すべき第一曲目は、

 ロイ・エルドリッチの『スターダスト』でした。

番組がはじまれば、心配どころやなかったですね。電話は鳴りっ放しで、リクエスト曲を整理するのに、局中がてんてこ舞いになりました。

結局、深夜の生放送であるにもかかわらず、リクエストは2000通を超えたんです。番組は大成功でした。

ラストナンバーに、レス・バクスター楽団の『恋人よさようなら』が流れて、日本初の『電話リクエスト』は無事に終了しました。

第1回目の放送で流れた1曲目の『スターダスト』と、ラストの『恋人よさようなら』は、結局、その後の『電リク』のオープニングとエンディングのテーマ曲になりました。

『恋人よさようなら』で番組が終り、すがすがしい気分で帰途についた時に、早朝のパン屋さんの店先に香っていたパンを焼く匂いが、今でも忘れられません。

クリスマス・イヴの放送が大成功したので、一週間後の大晦日の深夜に第2回の「テレホンリクエスト」をやることが決まりました。

年が明けると『電リク』は毎週土曜日の深夜番組としてレギュラー化することになりました。一躍、“電リクのラジオ神戸”と言われるほどの看板番組になっちゃったんです。

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【冒頭30分】浜崎洋介×與那覇潤「日本人にとって村上春樹とは何か」

 


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