映像:国宝瑞巌寺境内にある松尾芭蕉の碑・句碑群(今日は松尾芭蕉祭が開催されていた)
松尾芭蕉は「奥の細道」で松島のことを「扶桑第一の好風にして、几洞庭、西湖を恥ず」
と記し松島の風光を称えている。しかし、奥の細道の道中の松島では一句も発しなかった
とか。この芭蕉句碑(真ん中)は文字が読み取れないが後日松島を詠んだものと推量する。
碑文:(推量)
『 島々や 千々に砕きて 夏の海 』 ( 芭蕉 )
解釈:夏のキラキラした波間に八百島の散らばるさまはなんと美しいことよ
考察:有名な「 松島や ああ松島や 松島や 」の句は後世人が、芭蕉の絶句した心境を
パロディ風に詠んだ物とされているのが通説。しかし同じく絶景の象潟では発句。
因みに同行した弟子の曽良が一句詠んでいる「松島や 鶴に身をかれ ほととぎす」
(句意:松島は今泣いているホトトギスを鶴に変えたいほどの絶景美観である事よ)
参照#松尾芭蕉(奥の細道)探訪紀行
紅葉の暗門の滝を観たくて訪れた。この碑のある地域は世界遺産白神山地核心地域の
先端地である。この碑の前で白神山地トレッキングの体制を整えて入山する。筆者の
知っているかぎりでは、日本の世界自然遺産の中で文学碑があるのはここだけだろう。
碑文:大瀑(おおばく)の 底まで見えぬ 紅葉(もみじ)かな
解説:暗門の滝は手前から第三、第二、第一と三つあるが、この歌は最深部の第一の
滝を詠んだものである。 真っ赤な紅葉が滝つぼに広がった光景が目に浮かぶ。
参照:①世界自然遺産白神山地核心地域にある暗門の滝( 第一滝)
②世界自然遺産白神山地隣接地秋田県にある菅江真澄歌碑
歌碑・句碑 :大町桂月(ひとしおの・・・黒石温泉郷中野もみじ山) 2018.11.07
紅葉の名所として知られる黒石温泉郷( 温湯・ 落合・ 板留 )の山沿いにある中野もみじ山。
猫の額ほどの空間なのだが小さな渓流と小さな丘山の紅葉が人々を惹きつける。出湯で
上気した肌を鎮めるには丁度いい散策コースかも知れない。大町桂月翁も立寄っている。
碑文:ひとしほの 木の葉は散りて 散り残る
楓の山の 美しきかな ( 桂月 )
鑑賞:散残る楓の紅に感応した短歌。酒仙と謂われた大町桂月も流石に自然の為す藝術
には歌をしたためずに居られなかったのだろう。酒と湯が大好きな桂月翁の才能
が発露した瞬間。しかし近年、中野紅葉山の紅葉が色褪せているのが気がかりだ。
参照:① 大町桂月(酔仙人)探訪紀行
② 黒石温泉郷筆者お気に入りの温湯温泉「鶴の湯」
絶品湯植木温泉旅館平山の湯殿に種田山頭火俳句壁画があった。
温泉地と文人をサブテーマにして来た筆者にとってなによりの
俳句壁画。山頭火は熊本県では日奈久温泉に多く句を残してる。
壁句: 『 分け入っても 分け入っても 青い山 』(山頭火)
解釈: どこまで行ってもただただ深い山が続くのみ・・・
という自然な解釈と、それを己の人生に例えて
いくら修行しても悟りが開けない意味もとれる。
さて、皆さんはどうか?名湯に浸かり考えよう
参照#①植木温泉平山旅館 ②種田山頭火(放浪の歌人)探査紀行
参考:漂泊の俳人種田山頭火は植木町にある味取観音堂瑞泉寺
の堂守をしていた。山頭火はその翌年放浪の旅立ちをし
たのだった。毎年3月10日に山頭火を忍ぶ種田山頭火
供養祭が開催される。種田山頭火は温泉地と関わり深い。
山陽新幹線新山口駅前広場に、種田山頭火の銅像兼・句碑があった。
山頭火の句碑は九州の温泉地で多く見かけたが新幹線の駅前という
のは、初めて見た。山口県防府市が種田山頭火の生まれた地である。
碑文: 『 まったく 雲がない 笠をぬぎ 』 (山頭火)
解釈:抜ける様な青空のもとで、網代笠をとって一休みしましょうか。
参照#大分県湯平温泉にある種田山頭火句碑(しぐるるや・・・湯平温泉)
映像:山口県山口市湯田温泉の中心部にある中原中也生誕の地は「中原中也記念館」
となりエントランスに青春時代の一頁、中也の詩がプレート展示されていた。
『汚れつちまつた悲しみに・・・』このどうしようもない哀しみのフレーズから始まる
中原中也の詩に心を動かされた。多くの詩人が太陽や月や星、愛、恋、自然の感動
から言葉を紡ぐのに・・・中原中也と石川啄木は哀しみ、苦しみ、怒りから言葉を紡ぐ。
筆者も最初は淡い恋心から詩文をなぞっていた。ゲーテ、ハイネ、リルケ・・・それは
高校時代だった。やがて父の死、母の労苦、何よりも恋した女性の意外な出生事情。
白い装幀のときめきの詩集からグレー系の重々しい詩集へと、詩情が移っていった。
そういう時に中原中也詩集「山羊の詩」に遭遇。希望の無い詩にただただ共感した。
詩歌:詩集「山羊の詩」より抜粋
『汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる
・・・・・・・・・・・
汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる・・・』 (中原中也)
探求:大学時代にはこの中原中也が重要なテーマとなった。石川啄木と中原中也の
定型詩(短歌)と自由詩(現代詩)、貧困(啄木)と富裕(中也)、東(啄木)
と西(中也)、僧家(啄木)と医家(中也)・・・この違い過ぎる環境なのに、
東京、創作、夭折などの共通の終着という比較文学論を5年をかけて探求す。
・・・それは今も続いている。人には夫々、生涯のテーマが課せられている。
参照#中原中也 (ダダイズム) 探訪紀行(山口県湯田温泉:中也の街さんぽ)
参照#中原中也と似ているが、非なる石川啄木((哀しみの歌人)探訪紀行
放浪の俳人:種田山頭火はやはりこの長州の温泉場にも足跡を残していた。
九州・四国・中国そして関東甲信越まで足を延ばした山頭火も学生時代に
興味を持った俳人。結果藝術的な俳人になったが本人はその日その日暮し。
碑文:『 ほろほろと 酔うて この葉散る 』 (山頭火)
解説:俳句は通常五・七・五なのだが、山頭火は所謂自由律と称し型を破る。
この句に見られる様に、五・三・五となりより直情的に想いが伝わる。
つまり、形を破る事により表現が生き生きとしてくる。果たして種田
山頭火は破っている意識はあったろうか?自然と自由に言葉を発した。
記録:種田山頭火はこの山口県防府市の出身である。九州(日奈久温泉)で
最初にであった山頭火足跡。とうとう、その出身県に辿り着いたのだ。
参照#九州熊本県八代市での山頭火石碑(温泉は良い・・・日奈久温泉)
参照#更に極端(七・七)に自由化した句(山頭火:長崎県島原温泉)
≪ Mémoire(メモワール)歌碑句碑 :小林一茶句碑 (長野県信濃町)2008.09.02 ≫
小林一茶名著「おらが春」の中の一句が故郷の地、黒姫山を見上げる丘に建っている。
いつの時代でも貧しきなかに志を持ち、己を生かした分野で名を為す人は皆心の中に
ふるさとの山を持っている。小林一茶も、黒姫山を仰ぎ、心を鎮め、躍らし、和めた。
碑文: 九輪草(くりんそう) 四五りん草で 仕廻(しまい)けり
参照# ①筆者の「ふるさとの山・岩木山」 ②九輪草(長野県大鹿村大池で観察取材)
③岩手山背景の歌碑(歌人石川啄木故郷)
司馬遼太郎作「坂上の雲」の主役の一人:正岡子規の句碑を初めて視た。
松山市の守り神『椿神社』の境内に鎮座していた。文武の街の文を担う
正岡子規の生まれた故郷ということを、この句碑で実感した次第である。
碑文:正岡子規(慶應三年~明治35年、35歳の生涯)
『 賽銭の ひびきに落(おつ)る 椿かな 』
解説:この椿神社は港の側にあり、湊は津、側は脇で、津脇(つばき)
とも。また、境内の森に椿が多く「椿の森」神社ともいわれた。
椿特有の花の散り方(花びらが纏まってボタっと落ちる)が、賽銭の音に
反応して落ちる様が連想されて、見事に情景を切り取っている。
参照#松山と言ったらやはり、夏目漱石も愛した「道後温泉」
丸亀城内を天守閣に登っていく途中の石垣のそばに設置された高浜虚子の歌碑。
昭和24年秋に丸亀城から丸亀平野越しに讃岐富士(飯野山)を眺めて詠んだ句歌
である。お隣の愛媛県出身の高浜虚子にとって、懐かしの景観だったのだろう。
碑文:『 稲むしろあり 飯の山あり 今昔 』
記録:丸亀城址の見返り坂を登りつめた右側に、高く聳えた扇型城壁の根元に
東面して建って居る。この場所は句碑建立時に高浜虚子が決めたという。
参照#①丸亀城(香川県丸亀市) ②高浜虚子 (花鳥諷詠 歌人) 探訪紀行
③飯野山(香川県丸亀市)
徳島城址は殆ど空襲で焼けたらしい。その中に石碑が目立っていた。
近づいて見ると。ナント野口雨情の歌碑だった。野口雨情が昭和十
一年この地で読んだ詩を80周年を記念し昨年この碑を建てたそうだ。
碑文:『 むかし忍んで 徳島城の 松に松風 絶えやせぬ 』
参照#① 徳島城( 阿波国徳島藩 )
② 赤い靴 ( 野口雨情資料館 )
③ 野口雨情( 童謡歌人)探訪紀行
法師温泉に限らず、明治時代の温泉地は当時の上流階級の遊楽の場である。
そこでこれ又上流社会の遊び歌会が開催され当時第一人者の与謝野晶子が
招かれた。その足跡がこの歌碑。この様な歌碑が全国各地の温泉地にある。
碑文:『草まくら 手枕に似じ 借らざらん
山のいでゆの 丸太のまくら』 (晶子)
歌意:旅の宿、いで湯に入れば、ついつい湯心よく木枕で寝湯する
解釈:当時法師温泉は晶子にとっては遠い山国の里、そこで歌会を
開催し投宿した。気持ち良い湯殿で疲れもあり用意された丸
太状の木枕に寝込んでしまった。現代でいうトド寝である。
参照#📚湯原温泉与謝野晶子歌碑 📚洞爺湖温泉与謝野夫妻歌碑
📚与謝野晶子(官能・情熱歌人)探訪紀行
若山牧水は秘湯白骨温泉に、好んで滞在したという。胃腸が弱く一か月余りも
滞在したという記録もある。この時代お腹(身体)を暖めるのはなによりの静養。
碑文:『 秋山に 立つむらさきぞ なつかしき
墨焼く煙む かつ峰にみゆ 』
歌意:紅葉の乗鞍岳の麓には炭焼きの煙が立ち昇り遠い故郷の里山にいるみたい
松尾芭蕉は奥の細道を平泉中尊寺を目指して歩いて来た。と言っても過言ではないだろう。
金色堂を観て何を感じたのだろうか? その手掛かりが金色堂そばの松尾芭蕉句碑である。
句文: 「五月雨(さみだれ)の 降(ふり)残してや 光堂(ひかりどう)」
句意:年月が経ち風雨で朽ち果た伽藍には光堂は往時の輝きを保ち此処だけは五月雨を
弾き飛ばし時が止まっている。
感動:松尾芭蕉翁は奥の細道の先々で名句を詠んでいるが句碑そのものは苔生していて
も、名句は色褪せない。この句も雨と光堂の対比が17文字で巧に表現されている。
参照#中尊寺金色堂(岩手県平泉)
映像:中尊寺、東物見台から眺めた平泉の桜の景観を詠った歌碑
西行という人物は都の宮廷武官(北面の武士)であった。その武官が
身分を捨て、諸国行脚の旅僧となり、道の奥平泉まで足を延ばした。
都を彷彿とさせる平泉の地で、西行は何を観て何を考えたのだろうか。
歌碑:『きゝもせず 束稲やまの
さくら花
よし野のほかに かゝるべしとは』 (西行)
歌意:道の奥の名もない山(束稲やま)の艶やかな桜の景色は桜の名
所吉野山の桜にも負けないほど見事なもので、おどろくものだ。
考察:西行は嘗て宮廷でエリート武官であったが、複雑な人間模様に
世の無常を感じて出家し北行した。極楽浄土のような平泉の地
に感無量。祖を辿れば藤原一族も源氏の流れ西行の遠い一族だ。
参照:金峯山寺から眺望した「吉野山山中」