お湯の国 日本

美しい日本の温泉地中心の旅記録(おんせん鑑定士:監修) 【記事・映像は著作権、人権保護法等により無断使用を禁じます】

松尾芭蕉(象潟や・・・蚶満寺)

2016年08月20日 |   ✑歌碑句碑 紀行

émoire:松尾芭蕉像・句碑(蚶満寺んまんじ)  2016.8.20≫

奥の細道
で有名な蚶満寺松尾芭蕉はこの寺の裏手の象潟(きさかた)を
太平洋の松島海岸と対比して鑑賞し、句歌を詠んでいる。しかし松島では
その景勝に発句をせず象潟では句を成している。一体どちらが絶景なのか。

句碑 『 象潟や 雨に西施が ねぶの花(奥の細道)
解釈: 象潟の風雅は雨に濡れた合歓の花、まるで越国の美女と
    言われた西施が憂いに沈んで眠っているようだ・・・。

参照#①象潟の景観(春うらら田植え時期) 蚶満寺

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北原白秋(我つひに・・・水郷の街柳川)

2015年07月29日 |   ✑歌碑句碑 紀行

水郷の堀割水路に白壁の倉庫・・・・水郷の街ならでは景観。
その一隅に。歌人北原白秋の歌碑が建っていた。白壁
柳川藩立花家別邸「お花」の倉周辺、白秋の郷愁の景観

碑文:『我つひに 還り来にけり 倉下や 
     揺るる水照の  影はありつつ
 (白秋)

解釈:夢にみた故郷柳川に帰ってきた。忘れ時の光景
   どんこ船が行き交う柳川下りの水路。水面に浮
   かぶ白壁の蔵屋の影々はなんと懐かしいことか

解説:北原白秋は故郷を離れ東京で文壇活躍し北海道
   九州まで旅して歩いたがなかなか郷里には帰る
   機会がなく、20年ぶりに帰った時の作品である。

感想:ここで筆者が北の歌人として敬愛する石川啄木
   と対比すると興味深い。村を追いだされた寺の
   息子と裕福な商家の白秋。悲哀がちがい過ぎる

参照#① 同じく望郷の歌 石川啄木碑 (渋民公園)
   ② 北原白秋(自然派詩人/童謡歌人)探訪紀行

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斉藤茂吉(うつせみの・・・古湯温泉)

2015年07月18日 |   ✑歌碑句碑 紀行

映像:筆者が探査した鶴霊泉の中庭にひっそりと建つ斉藤茂吉歌碑

鶴霊泉で知られる古湯温泉は佐賀県で唯一の国民保養温泉地である。
その温泉地にも歌人:斉藤茂吉の足跡が標されていた。斉藤茂吉は
山形県を中心に温泉保養をしたが長崎医学専門学校教授として滞在。

歌碑:碑文(斉藤茂吉)
   うつせみの 病やしなふ
    寂しさは
    川上川の  みなもとどころ


歌意:如何に高名であろうが、現実の私の心身は些末な事柄で疲れ
   て、病んでしまった。なんとも切なく哀しいことだろう。今
   は、川添の温泉宿で水の流れに任せるように安らぐのみだよ

解説:斉藤茂吉はここ古湯温泉で療養していた。その頃の歌である。
   斉藤茂吉も又悲劇の歌人であった。妻との不和や文学仲間の
   自殺(芥川龍之介)、激しい癇癪持ちなど心の病も垣間見える
推察:鶴霊泉は源泉温泉36度という霊泉である事を考えればここで
   療養するのは心身を整る必要のある病と推測される。しかも、
   斉藤茂吉は有能な医学者であり皮膚病や腰痛・関節痛などの
   理学的療養であれば、高温・重曹泉の嬉野温泉を選んだろう。 

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石川啄木 (やはらかに・・・渋民公園歌碑)

2015年07月01日 |   ✑歌碑句碑 紀行

映像:美しい雪形を表す岩手山を望む北上川沿い、渋民公園の短歌碑

石川啄木の歌碑は北日本の各地にあるが、筆者が最も啄木を感じるの
この地の歌碑である。石川啄木の心の情景として感じられる歌碑だ。

碑歌:「やはらかに 柳あをめる
        北上の 岸辺目に見ゆ
                                        泣けとごとくに
」 (啄木  一握の砂

解説:この時の啄木はどん底に近い状況だった。時代は幸せ人はより
   幸せに、不幸人はとことん不幸と容赦のない格差の時代、啄木
   はこの歌で反骨を示した。啄木時代は格差というより差別かも。

参照#石川啄木(哀しみの歌人)探訪記紀行


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石川啄木(子を負ひて・・・JR小樽駅)

2014年11月13日 |   ✑歌碑句碑 紀行

 小樽運河周辺を観光散策してJR小樽駅にたどり着く。運河界隈の人の流れも又駅に向かう。
 北海道の100万都市札幌からの観光客が多い事を物語っている。駅の片隅にひっそり建つ。
 石川啄木の歌碑である。若き啄木は職を求め、失意のままここ小樽にも足跡を残していた。

 碑文:『子を負ひて 雪の吹き入る
     停車場に
     われ見送りし 妻の眉かな』(啄木)

 解釈:冬の雪が容赦なく母子に吹きかかり今、あてのない仕事を探しに駅から旅立つ
    私を見送る妻の悲しげな顔に心が痛む別れの日だ。

 感想:なんと悲しくも、切ない短歌であろうかこの頃の啄木は小説家を目指していた。
    しかし家の没落で職さえない。気丈夫に見送る妻を「妻の眉」と表現しているが
    己が妻に寄添いたかったに違いない。豊かな現代ではこの様な歌は創られない。

 参考#①石川啄木(哀惜の歌人)探訪紀行 ②JR北海道小樽駅エントランス

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菅江真澄(ふる雪か・・・峨瓏の滝)

2014年09月26日 |   ✑歌碑句碑 紀行

映像:世界遺産隣接区域の「峨瓏の滝」手前にわが尊敬する温泉紀行家菅江真澄の歌碑

世界遺産白神山地青森県と秋田県にまたがっている。その秋田県藤里町と八峰町が
白神山地南側の入山基地だ。なかでも藤里町は環境省のビジターセンターが設置され
青森県へ回遊するルートでもある。同町で簡単に白神を味わえるのがこの峨瓏の滝だ。

碑文:ふる雪か 花かあらぬか  山風に
        さそわれてちる  滝のしら泡  (菅江真澄) 

解釈:深閑とした森に、流れ落ちる大滝の真っ白な泡沫は白神の大地を吹き抜く風で
   、冬は雪舞の様でもあり春には散りゆく桜吹雪の様でもあり、趣き深いものだ。

菅江真澄:江戸後期の紀行家、植物学者、民俗学者、地誌家、歌人など多様な顔を持
   ち、当初は津軽藩のお抱え学者となり、津軽の民俗、薬草、地理などを調査を
   し後半は佐竹藩のお抱えとなった。特に温泉観光の分野では優れた紀行文を残
   す。筆者の尊敬する温泉観光の祖。ひょっとしたら白神を詠んだ最初の歌人か。

参照恐らく菅江真澄が訪問時にも湧いていたであろう湯の沢温泉郷のユトリア藤里

               2014.夏 白神山地紀行 完

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与謝野晶子(かじか鳴き・・・湯原温泉)

2014年08月20日 |   ✑歌碑句碑 紀行

与謝野晶子は美作三湯の湯原温泉にも足跡を残している。
この方の旺盛な芸術旅は全国にまたがり筆者の行く先々
こうした石碑を発見する事になる。後を追うかの如くに。

碑文かじか鳴き 夕月映り いくたりが 岩湯にあるも みな高田川 (晶子)

解釈:清流に月影が揺れてあちらこちらの岩に潜むカジカ蛙の鳴き声が趣き深い

参考:他に湯原温泉で呼んだ歌がある。夫妻の掛け合い歌は昭和8年夏、温泉街
   に架かる「鼓橋」を詠んだ
  「鼓橋を わがのる乗合自動車 渡りゆけば 礼する娘あり いで湯の街」…鉄幹
  「鼓橋 湯山の橋を渡るなり 奧美作の夏の夕暮れ」…晶子

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木下杢太郎(仕事をえ・・・三朝温泉)

2014年08月08日 |   ✑歌碑句碑 紀行

映像:木下杢太郎の歌碑

三朝温泉露天風呂:川原の湯に浸かったら火照った体を散策で冷やすのもいいだろう。
三徳川の土手つたいに文学の道がある。三朝を訪れた歌人・文人の歌碑が立っている。
小道は苔むして、枝葉が垂れ、雑草が生え宿泊客が散策している様子もなく、寂しい。

碑文仕事をえ つかれいたわる 百姓
    あたまをならべ 外湯にはいる


解説:仕事帰りの百姓が疲れをいやすため川原の湯に頭を並べて
   はいり、よもやま談義をしている様が目に浮かぶようだ。

木下杢太郎:医師、文学者として昭和初期から終戦まで活躍、森鴎外への師事パンの会
   主宰作家としては地味であるが、与謝野鉄幹らとの親交もありその縁で三朝温泉
   にも足跡・歌碑がのこされていると推察。寧ろ皮膚医学界の権威として知られる。

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野口雨情 (ないてわかれりゃ・・三朝温泉)

2014年08月06日 |   ✑歌碑句碑 紀行

三朝温泉には多くの文人歌人が訪れた。その中でも有名な三朝音頭の歌人
野口雨情が挙げられる。後に、彼の作った歌詞を題材に映画「三朝音頭」
が上映された。そのワンシーンを切り取ったのが、三朝橋の袂にある像だ。

歌碑:ないてわかれりや 空までくもる
      くもりや 三朝が雨となる

歌意:愛する二人、当時温泉場は男女の出会い、別れの場所であった。切ない歌だ。

解説:当時、野口雨情と中山晋平の売れっ子コンビのいまでいうニューミュージックだ。
   この2人が実際に三朝温泉を訪れ歌会を開いたのだ。温泉地はなにも娯楽の無い
   時代にあって社交界最大のイベント、交流の場であった。銅像はそのモニュメント

山陰三朝温泉は丹後城之崎温泉、伊豆湯河原温泉、上州草津温泉と並ぶ多くの文人が訪れた。
旅館に長期滞在し小説をとか舞台になった温泉地は全国にある。津軽海峡下風呂温泉の井上
靖(海峡)、越後湯沢温泉の川端康成(雪国)、別府温泉の織田作之助(雪の夜)、湯村温泉の早
坂暁(夢千代日記)など、この三朝温泉も叉著名な文人が来訪、与謝野鉄幹・晶子、野口雨情、
志賀直哉、斎藤茂吉、島崎藤村等。温泉は文学者の心象をもピュアに引き出す地球の恵みだ。

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与謝野晶子(かまくらや・・・鎌倉大仏)

2013年08月16日 |   ✑歌碑句碑 紀行

鎌倉大仏境内の裏手にひっそりと歌碑が立っている。
与謝野晶子による直筆石文は紫陽花に守られている。
彼の地を訪れた人々を、代表する思いを詠んでいる。

碑文:『かまくらや みほとけなれど 
    釈迦牟尼は 
    美男におわす 夏木立かな
』(晶子)

解説:与謝野晶子は好男子与謝野鉄幹を略奪愛で前妻
   から奪った強者。その晶子をして美男子として
   歌わせた鎌倉の大仏・・・なる程美男子だった。

参照美男の鎌倉大仏(高徳院)

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小林一茶(湯けむりに・・・草津温泉)

2013年07月07日 |   ✑歌碑句碑 紀行

光泉寺は草津温泉とともに歩んできたといってよいだろう。
境内の入浴逝者之塔は、その代表的な史蹟だが境内に設置
されているこの句碑は信州の俳人:小林一茶のものである。

碑文:『湯けむりに ふすぼりもせぬ 月の貌
               (小林一茶;草津道の記)

句意:温泉に入り、お月様の様な曇りのない健康そうな顔だ
 (久し振りに草津の友人を訪ねた時に詠んだと推測される)

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若山牧水(一夜寝て・・・花敷温泉)

2013年06月21日 |   ✑歌碑句碑 紀行

同行した温泉評論家I氏の案内で辿りついたのが花敷温泉だ。嘗ての温泉地の風情がない
のだが名残りとして共同浴場と温泉宿が一軒そしてゆかりの歌人若山牧水の歌碑があった。
源頼朝が発見入浴して「山桜夕日に映える花敷て、谷間に煙る湯にぞ入る山」と詠んだ事
から花敷温泉と呼ばれた鎌倉時代からの名湯とされる。尻焼温泉からおよそ800mの距離。


歌碑:若山牧水(大正11年11月19日)
    『一夜寝て わが立居ずる 山蔭の
                 温泉の村に 雪降りにける


【DATA】含食塩ー石膏泉 43℃ PH7.9 200ℓ/m 源泉:元の湯(花敷共有泉)

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種田山頭火(みちのくは・・・湯田川温泉)

2012年07月21日 |   ✑歌碑句碑 紀行

  放浪の俳人:種田山頭火の歌碑が湯田川温泉梅林公園にあった。種田山頭火は
  主に九州で放浪・活動しているのだが東北までの足跡は信州国の俳人一茶、
  の細道の芭蕉等が彼を惹きつけた
のだろう。

  歌碑:二首(種田山頭火) 

     『 みちのくは ガザさいて秋 兎死うたふ 』

     朝蝉   夕蝉   なぜ  あなたは  来ない

  解説:第一の歌の「兎死」とは鶴岡の歌人和田光利の雅号であり、解釈すると
    「ガザの花(タニウツギ)が咲く秋の日友が歌を詠む」くらいかな。また、第
     二の歌はこれぞ山頭火という究極の歌だ。「真夏の暑い蝉しぐれ誰もい
     ない
」と筆者は彼の孤独を読み取った。「あなた」は友でも心の人でも、
     家族でもいい山形の猛暑にただセミだけがなく空間に圧倒された歌だっ
     た。因みにこの歌は平泉から鶴岡市湯田川温泉へ放浪した時の歌である。

  参照放浪の歌人『種田山頭火』探訪紀行

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斉藤茂吉(みづうみの・・・鳴子温泉郷)

2012年07月05日 |   ✑歌碑句碑 紀行

エメラルド色の潟沼の傍らに歌人斉藤茂吉の碑が建っている。
茂吉は歌人であり、精神科医であった。そして山形県の出身
鳴子温泉は山形県境に。そんな関係で茂吉も訪れたのだろう。

     『みづうみの
         岸のせまりて
         硫黄ふく
      けむりのたつは
        一ところならず』 茂吉

歌意:潟沼の急斜面に硫黄が吹き上げている
   それもあちらこちらから激しく吹き上げる
感想:斉藤茂吉は美人弟子(永井ふさこ)と禁断の恋に落ちた
   それも俳人;正岡子規の従妹という才女。この歌は心が
   表現されていないのはむしろ不思議、拡大解釈をすれば
   エメラルドの様な美しい恋人を潟沼に譬え、激しく吹く
   硫黄は茂吉自身の切ない感情だろう。28歳も若い美人弟
   子に夢中であった斉藤茂吉の心中を察して余りあるのだ。

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斉藤茂吉(千年の・・・川渡温泉)

2012年06月23日 |   ✑歌碑句碑 紀行

鳴子温泉郷川渡温泉の藤島旅館裏庭に石碑がある。
川渡温泉発祥の地温泉石神社の境内に建っている
碑はこの地を訪れた歌人:斉藤茂吉の歌碑である。

『千年の 慶をほこる 川渡の
   いでゆの夕なる 杜の湯』 斉藤茂吉

歌意:名湯川渡温泉を千年の慶びと讃えている。

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