映像:津軽の遅い春は漸く桜を飾る頃、海岸公園片隅に石川啄木碑が陽光を浴びる。
碑文:船に酔いて やさしくなれる いもうとの 眼見ゆ津軽の 海を思えば
解説:石川啄木は故郷を追われ、青森港から青函連絡船で北海道函館に渡った。生涯
苦労の歌人の目にむつ湾は決して美しくは映らなかっただろう。石碑の向こうに津軽
の海は穏やかに波打つ、海は哀しみさえ受け入れる。群青の海は啄木の瞳色の様に深
く淋しく切ない。・・・とうとう啄木に春は来ない対岸の函館立待岬に天才歌人は永眠す。
映像:立待岬石碑から一段下がった所に与謝野鉄幹・晶子の歌碑が
鉄幹・晶子夫婦は全国を歌会行脚するオシドリ歌人。そのほとんど
が温泉地であるが、ここ函館立待岬には天才歌人石川啄木に哀悼の
意を込めて立ち寄る。近くにはやはり、湯の里、温の川温泉がある。
「浜菊を郁雨が引きて根に添ふる 立待岬の岩かげの土」(鉄幹)
「啄木の草稿 岡田先生の顔も忘れじ はこだてのこと」(晶子)
歌碑にはこの様に刻まれ云わば弟子同然だった石川啄木の死を同じ
歌人として、その不遇と夭折した天才の石川啄木を偲ぶ歌であった。
参照#与謝野晶子(官能情熱歌人)探訪紀行
映像:栄華を極めた平泉文化の象徴『大泉が池』を眺める側道に芭蕉の句碑。
大泉が池の南、松尾芭蕉の自筆を刻したもので、地元の方は、これを芭蕉塚と
呼ぶ。 芭蕉の旅路「奥の細道」は元禄文化が平泉文化の様に衰退する事を検証
する旅でもあった、松尾芭蕉にとって、ここ平泉が最北最大の目的地であった。
碑文:「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」…松尾芭蕉
イーハトーブの歌人宮沢賢治が中学生の時に大泉が池に佇んで詠んだ歌がある。
「桃青の 夏草の碑は みな月の 青き反射の なかにねむりき」…宮沢賢治
※桃青とは松尾芭蕉の雅号、ここでは芭蕉のことをさす。
解釈:句心、詩心があれば多くは語るまい。五・七・五で平泉の情景を見事に
切り取った天才的な芭蕉の言葉使いに、若き宮沢賢治は感動し、芭蕉塚を変わ
る事の無い大泉が池の水面に封印。そう、水は永遠に変わぬ命の源そして地球
のエネルギーを得、温泉になり、命を養い育む。今年は「命の水」で締めくくる。
参照#松尾芭蕉(奥の細道)探訪紀行
映像:尿前の関所の真向い、杉木立の小さな祠の側に芭蕉翁の句碑があった。
松尾芭蕉の奥の細道は中高等学校で誰もが一度は読んでいる日本紀行文の名著。
月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也…。今しみじみとその意味を理解
する。松尾芭蕉46歳人生の意味を深く味わい記した。句碑には次のように記す。
『 蚤虱 馬の尿(バリ)する枕もと 』
解釈:元禄時代の旅は厳しいものだっただろう、特に、鳴子渓谷からの山越えは
厳しい。この歌の内容が実際、枕もとで起こった事とは信じがたいが「尿前の関」
に掛けて当時を客観的に表現したものと思われその意味で芭蕉も又一流の作者だ。
映像:蕨温泉の手前の道路沿いに無造作におかれた小林一茶の歌碑
碑文: 『今年米 親という字越 おがみ家リ』
句意:今年はお米も豊作、親よりも大切なお米に感謝し家に帰る。(かな)
記録:小林一茶の数多い石碑の中で七番目のふるさだという、高山村
の指定文化財ともなっている。高山温泉郷は小林一茶の第二の
故郷とも言われ、晩年は頻繁に訪れていたという。
映像:長野信州の山田温泉共同浴場前広場にある種田山頭火の歌碑
『つかれも なやみも あつい湯にずんぶり』(種田山頭火)
種田山頭火という人はよくよく温泉が好きな人だ。字足らず自由な
俳句は温泉のもつ効能をキチンと言いあてている。現代風に訳せば
「お湯に入ることで、心と体を癒し、活力を得る」万座温泉での作。
この歌碑のほかに大湯上の薬師堂にもう一つ歌碑がある。
『霧のそこにて 啼くは 筒鳥」(種田山頭火)
歌意:夏の霧深い山里でカッコーがポーポーとなくほど寂しい。
映像:一茶記念館俳諧寺にある一茶の節目の句碑
小林一茶は山頭火同様放浪の俳人であった。違いは貧しい農民と豪商の出。
一茶のふるさと回帰は農民という大地に生きる民ゆえの結末。一方山頭火
は根なし草で、根っからの放浪の民(行商人)。この二人の対比がきわだつ
碑文:『 是(これ)が まあついの栖(すみか) 雪五尺 』 (一茶)
解説:一茶は50歳にして、35年の放浪の生活に終止符を打つ。この後三回
も結婚して、4人の子どもを得る。15年で旅立ち、15年の老後を過ごす。
この句は帰郷時の心象を詠んだもの。雪五尺とは人の背丈ほどの積雪を現わ
し、これまでの歩みの重さ、古里の厚み、雪解けの春…様々な思いが凝縮。
参照:種田山頭火句碑(大分県湯平温泉)
映像:一茶記念館内、俳諧寺を背に種田山頭火の石碑(二首掲示)が。
一茶記念館には多くの文人石碑が建つ。その中に放浪の俳人種田山頭火
の石碑を見つけた。江戸時代中国・四国を紀行した一茶との接点は俳句
だけではなく旅をし土地の光を観て風を感じ一句詠むという姿勢だろう。
碑文:一茶翁遺跡めぐり
『ぐるりと まはってきて こぼれ菜の花(土蔵)』
『若葉かぶさる 折からの 蛙なく (墓所)』 山頭火
解説:山頭火は一茶の晩年の寓居(土蔵)を見学しこの一茶記念館俳諧寺
に立ち寄ったのだろう。若葉、蛙は季語、一茶を偲ぶ基語とも推量。
この一茶記念館(俳諧寺)には蕨温泉でゆるりと汗を流しての到着。
参照#種田山頭火 (放浪の歌人)探訪紀行
映像:長野県信濃町俳諧寺前にある一茶の銅像と句碑
一茶記念館一帯が小丸山公園となっており、さしずめ一茶公園だ。園
内には俳諧寺、句碑などがあり一茶を体現できる。一茶を偲んで訪れ
た文人の句碑群も面白い。画面、右の句碑には次の様に記されている。
『 初夢に 故郷を見て 涙かな 』 一茶
解説:一茶は15歳で江戸の商家に丁稚奉公にだされたという。30歳に
して俳人として認められるまでの苦労はいかばかりか。その間に
詠んだと思われる。石川啄木の「故郷は遠きにありて思うもの…」
を思い起こす。いつの世も、苦しみの中の『故郷』は格別な存在。
参照#①小林一茶(牧歌田園歌人) 探訪紀行 ②石川啄木( 哀惜の歌人)探訪紀行
映像:与謝野晶子の歌碑がある温泉井戸から海辺の温泉街を望む
碑文:『温泉は いみじき瀧の
いきほいを 天に示して さかしまに飛ぶ 』
解説:与謝野晶子は昭和12年にこの地を訪れ噴湯、赤松、日本海
を材題に短歌を45首詠んでいる。この歌は、日本でも珍しい
噴泉井戸の瀬波温泉の本質をそのまま読み込んだものである。
その他:45首中、小生が好きな歌を三首。
『大空へ 煙の馬を 走せしむと 白き噴湯の 望まるる山』
『いろじろく 瀬波に春の 陽炎の立つと 噴き湯をとりなしてまし』
『越の田の 雪解け初めてなまめかし 青鈍色に 泥のにじむは』
参照:瀬波温泉貸切露天風呂らく湯(一時間3000円、10人程度)
秋田県側の白神山地。その山里の小さな温泉郷。湯の沢の地名が現わす通りお湯が渓谷から
滲み出していたに違いない。紀行家菅江真澄はそんな湯の里を好んで訪れていた。津軽から
佐竹藩に来てもそれは変わらない。この碑はそんな菅江真澄が湯の沢奥地の銚子の滝を詠う。
碑文:
『 巌かつら くり返し見る いわがねに かかるも高き 滝のしらいと』
( 菅江真澄 )
記録:銚子の滝落差18m、米代川水系藤琴川
山田温泉の公共駐車場で一夜を明かし、夜霧もすっかり
失せた共同浴場広場薬師堂横に昨晩見逃した、石碑を発
見した。放浪の歌人、種田山頭火の二つ目の石碑を発見。
碑文:『霧の底にて 啼なくは 筒鳥(つつどり)』
参考:筒鳥はカッコウの仲間、別名ぽんぽん鳥で托卵の
生態。おそらく、筒鳥に孤独な自分を置き換えて
遠く家族を思う心情を重ね合わせたものと解釈す。
山田温泉大湯前の広場に鎮座するのが小林一茶の歌碑。
大湯温泉という村の最大の交流拠点に立つ歌碑は堂々
としている。タイトルはズバリ山田猿湯となっている。
碑文:
『春風に 猿もおや子の 湯治哉 』
解説:その昔、恐らく湯小屋の佇まいの山田温泉には
人が途絶えた刻に野猿の親子も湯浴みをして寒
さを凌いだのだろう。情景を切り取った一句だ。
長野県高山村の石造文化財(高山村有形文化財)が小林一茶の句碑。
全国およそ300基ある小林一茶の句碑で四番目に古いものだそうだ。
句碑は風化が進み、刻まれた句文字も判別が難しくなってきている。
碑文:梅が香よ 湯の香よさては 三日の月
歌意;梅も、お湯も香しいのに、今宵は月さえ
綺麗な三日月でなんとも情緒な山田温泉
記録:分政元年「七番日記」収録 高2.2m 幅0.8m
小林一茶という俳人は中々の苦労人。結婚は52歳が初婚である。信州の出は江戸で
は必ずしも持てたとも思われない。やはり、女性に縁遠かったのだろう。その奥手
が結婚の途端旺盛な性の営みだというのも面白い。その絶頂52歳の時の句作である。
句碑:俳諧寺に数基ある歌碑の一つ
『 おらが世や そこらの草も 餅になる 』 (一茶)
解釈:52歳まで苦労して、ようやく俳諧師という頂点に立ち、財産相続も一段落し、
何よりも28歳という24歳も若い妻を娶り草さえ餅に変える程の幸せの絶頂期。
なんともめでたい句である。将に一茶にとって「おらが春」を歌った句である。