R45号線は三陸町を過ぎ、吉浜についた。ここの海岸には石川啄木が修学旅行で
訪問した事を記念して歌碑が建立されている。津波当日はこの歌碑も飲み込まれた
のだろうが幸いにも無事だ。 石川啄木の石碑は無言のまま、海に対峙している。
碑文:潮かをる 北の浜辺の 砂山の かの浜薔薇よ 今年も咲けや
解説:筆者は.3.11東日本大震災取材で三陸沿岸を訪問した時にこの歌碑に遭遇
映像:南八甲田山中に位置する蔦温泉、足元源泉泉響の湯中庭にある大町桂月歌碑
大町桂月は風流人であった。青森県内の名勝奇勝をくまなく旅し、疲れて帰るのが
蔦温泉であった。そんな雅興人を持て成す宿の亭主も素晴らしい。そして何よりも
桂月を癒したのが滾々とわく温泉と蔦沼周辺の自然の景観であった。それを語る句。
『沼に舟うけ 姫鱒釣って 風呂で 月見る 山の中』 (桂月)
所感:日中、自然豊かな蔦沼に小舟を浮かべて晩酌の肴を釣り、宿に帰れば、温か
い温泉が待っている。湯船に小盆を浮かべ月見酒のなんて風流だろう。この
場面は現代に引継がれ、吉田拓郎の歌詞をこの旅館で書いたのが岡本おさみ。
参考:吉田拓郎作曲、岡本おさみ詞 「旅の宿」
♬浴衣の君は尾花(すすき)かんざし
熱燗徳利の首をつまんで
もういっぱいいかがなんて
みょうに色っぽいね
・・・・・・・・・・
上弦の月だったっけ
ひさしぶりだね
月みるなんて
・・・・・・・・・・♬
※岡本おさみは新婚旅行できた蔦温泉でこの歌詞を綴ったのだという。
那須温泉郷那須神社境内にある松尾芭蕉の句碑。松尾芭蕉もこの地の奇勝
・殺生石を見物した史実がある。屹度その日は鹿の湯に浸かったのだろう。
碑文: 湯をむすぶ 誓いも同じ 石清水
句釈:那須温泉神社は那須与一も武運を念じたお社、時代が違うが温泉健
康祈願をする己と同じお社で感慨深いことだ。
説明:岩清水とは滾々と湧く泉の事だが、かたや武運の神様:岩清水八幡
宮の略称、与一と自分を重ね合わせた名句で季語は夏である。
別句: いしの香や なつ草あかく 露あつし
解釈:硫黄を放つ岩は、その毒気により、蜂や蝶の屍骸が折り重なり、草
木が育つこともできない。夏草あかくは虫の屍骸を指し、露厚しは
‥・露(虫の屍骸)、厚し(折り重なる)
参照#栃木県 温泉地 データ・ベース
映像:吾妻岳を歌った野口雨情の詩碑。残雪の山容から導かれた歌。
あづま山から
兎がはねて
ぴょんとここまで
こえばよい
解説碑文にはこの詩は、大正十五年四月女流歌手第一号といわれた天童市出身の佐藤千夜子、
作曲家中山晋平と共に来県した当時、文学青年の集まり「あづま詩社」の招きで米沢を訪れ
た折りの作品である。昨年大河ドラマ天地人の影響でここ米沢城も沢山の観光客で賑わった。
映像:北海道JR旧新内駅に設置された白樺をモチーフの啄木歌碑
『忘れ来し 煙草思ふ
ゆけどゆけど 山なほ遠き 雪の野の汽車』
『遠くより 笛ながながと
ひびかせて 汽車今とある 森林に入る』
解説:石川啄木は小樽から釧路へ向いこの地を車窓から眺めている。当時の汽車はゆっくり、
狩勝トンネルを抜けやっと車窓が明るくなった時、眼前に十勝の大地が開ける。途方もない
人生の疲労感、重苦しい喪失感を背負いながらの漂白の旅は詩人石川啄木を更に研ぎ澄ます。
そして、その思いをこのように書き留める
『何事も 思うことなく
日一日 汽車のひびきに 心まかせぬ』 (一握の砂:石川啄木より)
映像:あつみ川沿いに設置された与謝野晶子の歌碑
『さみだれの
出羽の谷間の朝市に
傘して売るはおほむね女』
あつみ温泉は今から 1000年以上前の開湯、庄内藩公の湯
役所が設けられて、近郊の湯治場として栄えた温泉地。松
尾芭蕉、与謝野晶子、横光利一等多くの文人が訪れている
参照#与謝野晶子(情熱の歌人)探訪紀行
釧路市の発展の始まりの地となった米町界隈。米町公園の石川啄木の歌碑の手前、
2001年に建立された句碑。高浜虚子もまた釧路の地に立ち寂しき句をなしている。
碑文: 燈台は 低く霧笛は 峙(そばだ)てり
参照#① 高浜虚子 (花鳥諷詠 歌人) 探訪紀行 ② 同じ公園にある石川啄木歌碑
映像:湯涌温泉の高台、薬師寺境内に苔生した竹久夢二の歌碑。
大正浪漫の騎手竹久夢二の愛の足跡。愛人の美大生
笠井彦乃(19歳)と知り合いおよそ3週間、湯涌温泉
に恋の逃避行をしている。その頃の作品と思われる
碑文:『湯涌なる 山ふところの 小春日に
目閉じ死なむと きみのいふなり』
彦乃は、この後、結核で短い生涯を散らしたが、
夢二が、いかに彼女を愛していたのかが伺える。
竹久夢二が彦乃を慕い歌ったと思われる歌4首
『なつかしき娘とばかり思ひしをいつしか哀しき恋人となる』
解釈:妹の様に可愛いと思っていたがいつしか愛してしまった
『かたはらにしづかにあるもものいふもいはぬもよけれわが妻なれば』
解釈:ただ側にいるだけでいいのです。愛しい人だから
『つつましくかしこき命いたわりて好き日を見んと手をとりて泣く』
解釈:尊い貴方との幸せな日々を夢見て華奢な手を握り涙を流す
『心の中へぽかんと大きな穴があき、そこから寂寞湧いてくるなり』
解釈:貴方を失い何も考える事ができない。哀しみだけが心に充ちる
人を愛する時、好きで好きで堪らない時、失う恐怖が付きまとう。彦乃
は当時では不治の病結核であった。その事を知っての同棲‣逃避行。竹久
夢二の切なく物悲しい美人画の画風原点は彦乃や彼が愛した女性にある。
映像:白山信仰の霊所那谷寺に立ち寄った一人旅の芭蕉が詠んだ句碑
『石山の 石より白し 秋の風』 (芭蕉)
句意:境内の白い石山の岩肌を吹きわたる秋風は、この石山の石より
白々として、底知れぬ物悲しさを帯びていることよ…
解釈:奥の細道の終盤、弟子曽良と別れた松尾芭蕉にはもう、迷いは
ないが。深い緑の中の白岩石に、一人旅の寂しさを改めて実感。
参照#那谷寺三重塔(那谷寺 境内)
映像:山中温泉高台、医王寺にある日本でも一、二の古さの松尾芭蕉句碑。
碑文:山中や 菊は手折らし 湯の匂い(芭蕉)
句意:山中温泉の湯に浴せば、中国の菊茲童が集めた不老長寿の菊の露を飲むま
でもなく薬効があるだろう。
解説:奥の細道の中で、芭蕉&曾良にとって最大の出来事が、二人の別れである。
芭蕉はこの句で宿の主人に山中温泉を『良き薬効』があると世辞句を述べ
たのだが、愛弟子曾良の体調が思わしくなく、心中はいかばかりか察する。
加賀温泉郷山中温泉は日本を代表する紀行文『奥の細道』作者松尾芭蕉の歴史的
逗留地であり一級の温泉文化地として今後も繁栄が期待されるいで湯の里である。
諸君、人生は旅である…銘泉と景勝と歴史をこの温泉地でゆっくり体現されたい。
参照:山中温泉 菊の湯(石川県加賀温泉郷)
映像:山中温泉景勝の地、鶴仙渓にある芭蕉の句碑
句碑文:『 漁火や 河鹿(かじか)や波の 下むせび 』 (芭蕉)
解説:「かがり火を焚き鰍を獲る渓流、さやさや谷川のせせらぎ。鰍が捕まるのを
怖れて、浪間で啼く声であろうか」…句間に漂う深い哀しみは何だろう。一
週間程山中温泉に滞在、芭蕉は此の地で苦楽を共にした弟子、曽良と別れる。
曽良は体調を崩し、泣く泣く師芭蕉を置き先に縁故先を目指し旅立ったのだ。
この句の物悲しさは、旅の道連れ愛弟子曽良との別れにあると見るのだが・・・。
宮城県から山形県へ抜ける歴史街道。いまでは紅葉の鳴子峡として観光地化されている
が山頭火が通った時代はまだまだ道は険しい山道だったのに違いない。筆者が確認した
山頭火の足跡はこの地が最北だった。九州を中心に放浪した山頭火にはここがギリギリ。
「湯あがりの あてもない雑草
つつじまっかに咲いて こんなにたまり」(山頭火)
解釈:三頭火の世界は、所詮、山頭火しか分からない💦、しかし、筆者的に感じる事は
『目的のない旅は、松尾芭蕉の奥の細道を辿り、湯処鳴子の湯で体を整えた。
そんな自分だけど、お湯処のツツジの花は花盛り、まるで私を歓迎してる』
映像:山代温泉源泉公園内に設置された与謝野鉄幹の歌碑
『山代の泉に
遊ぶたのしさを
たとへて云えば
古九谷の青』 (与謝野 鉄幹)
解説:ひさびさに温泉の歌で感動した。与謝野鉄幹・晶子夫妻は無類の温泉好きで
あることは、全国の温泉地に足跡を残したことでも理解できる。しかし、こ
の句はこれまで小生が遭遇した歌とは趣が違う。山代温泉の癒しと九谷焼の
透明な美との調和・共生が見事に歌い込まれている。温泉って素晴らしい!
映像:安宅の関、海側に建立された与謝野晶子の歌碑
歌人与謝野晶子が夫:鉄幹と安宅住吉神社に参拝、
勧進帳の義経に思いを馳せ短歌を残したとされる。
「松たてる 安宅の砂丘
その中に 清きは文治三年の関」 (与謝野晶子)
解説:文治三年の関とは史書『吾妻鏡』に文治三年に奥州の義経問題で
頻繁な幕府・朝廷間の交渉が行われたとの記述を指す。吾妻鏡の信憑性
はともかく、与謝野晶子は義経・弁慶の主従の絆の素晴らしさを想った。
参照:① 与謝野晶子(情熱の歌人)探訪紀行
② 安宅の関勧進帳銅像(加賀の国安宅関史跡)
映像:日立燈台のある公園の片隅にある石川啄木の歌碑。
石川啄木の歌碑は全国125ケ所(沖縄から~北海道)に点在する。しかし実際、啄木の足跡は
東京以北と思われ、常陸に来たかは不明。古房地公園から太平洋を眺めた気分が丁度、歌意
に合うのが設置理由かも知れない。灯台越の望洋の光景はまさしくこの歌にぴったりの景観。
碑文:
『何事も 思うことなく いそがしく
暮らせし一日を 忘れじと思う』 (啄木「一握の砂」より)