孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

ミャンマーと日本の深い関係

2007-07-02 14:12:42 | 国際情勢


写真は今年正月のミャンマー旅行のときの日本語ガイド「ウィーさん」の“おじいさん”。
日本占領下で日本語を覚えられたとのことで、その後も日本語を現地の方に教える活動をしてきたこともあって、ご高齢の今も驚くほど明瞭な日本語を話されます。
同年代の日本人よりも聞き取りやすい日本語のように思えました。
当時のことなどいろいろお聞きしました。
「なかにはいい人もいましたよ。どこでも悪い人もいい人もいますから。」とのこと。
http://4travel.jp/traveler/azianokaze/album/10117522/

昨日に続きミャンマーの話。
周知のように、ミャンマーと日本との間には深いつながりがあります。

第二次大戦中イギリス領だったミャンマーから脱出した、その後の「建国の父」となるアウンサン(スーチーの父親)や軍事政権を樹立したネウィンらを含む30名の青年に、日本は海南島で軍事訓練を行い彼らを支援しました。
日本軍がビルマに侵攻すると、彼らは「ビルマ独立義勇軍」を組織して(日本軍のコントロール下にありましたが)、日本軍とともにイギリスとの戦闘にはいりました。
その後、日本の傀儡「ビルマ国」の建国。
日本が敗色濃厚となる時期には、アウンサン等は今度はイギリス側について日本軍と戦闘。
・・・・というように、現在の国家体制樹立に人的つながりを含め日本は深くかかわっています。
ミャンマー国軍は今でも旧日本軍の名残が強く残っている軍隊であるとも言われています。

また日本軍はビルマ戦役をこの地で展開、“白骨街道”とも言われる悲惨な結果となったインパール作戦など、多大の犠牲者を出しました。
そのような経緯で、この地に深い愛着を感じている日本人も大勢存在します。
なお、ミャンマーの各地には旧日本軍の犠牲者の慰霊碑が建てられています。
写真はザガインの丘に立つ慰霊碑。



http://4travel.jp/traveler/azianokaze/album/10118893/

独立後も日本との深いつながりを背景に積極的な経済支援が行われ、ミャンマーの二国間援助総額の80%を日本が占めるほどだったようです。
88年の民主化弾圧で一次凍結された日本からのODAも、継続案件分や技術援助・緊急人道援助はすぐに再開し、また、NGOなどによる草の根無償援助も行われています。
額的には88年までのネウィン時代の四分の一程度に小さくなっていますが、中国以外の諸外国が援助を控えるなかで日本の援助は突出しており、民主化活動家から「日本は軍政を支援している」と批判されることもあるようです。

日本政府側の言い方では、経済制裁という強硬なやり方ではなく、相手のメンツをつぶさない「友情ある説得」を続け民主化の進展・経済改革を迫っている・・・ということです。
「北風」ではなく「太陽」政策とのこと。
また、民主化を求めるスーチーのNDLともパイプを保っているとのことで、実際02年には当時の川口外相はスーチーとの会談を行っています。
軍政とNDLの両方にパイプを持つ世界唯一の国だそうです。

今年5月末には、麻生外相はミャンマーのニャンウィン外相と会談し、「スーチー軟禁はミャンマーの印象を悪くしている。軍事政権で経済発展を遂げた国はない。」とスーチー解放、民主化促進を求めましたが、ニャンウィン外相は「国家の安定なくしては民主化はできない」と語ったそうです。
残念ながら日本政府の「太陽」政策は今までのところ明確な成果を出していないようです。

長くなってきたので、ミャンマー旅行時の印象などはまた別の機会に。




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