明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



たとえば作中殺された女の死体があったとして、それが腐敗していると書いてあったら腐敗させなければならないだろうか。 三島由紀夫へのオマージュで神風連の乱での自決のシーンを制作した時。これはそもそも、様々な状態で死んでいる所を作ったら三島は喜ぶだろうというのが発想である。当人の“趣味”からしたら、『憂国』の撮影時のように、もっと内臓と血を!というところであろう。三島にならって豚のモツを使ってみたものの、つい自己規制してしまった。こんなことを描いていてさえ、手段が写真となると生々しくなってしまう。
今日は家で鍋をつつきながら大映映画など観ることにした。買い物をして、ちょっとK本に寄り、最近のブログはつまらないなどといわれて帰る。(ご近所向けブログではないのである) 市川雷蔵主演の『眠狂四郎』シリーズ。 歩いていると夫の仇討ちを果たそうとしている中村玉緒。雷蔵に助太刀を頼むが、関係ないと断る。しかし玉緒の「何でもお望みの物を」の一言で気が変わる現金な雷蔵。約束を果たしてもらおうと待ち合わせ場所に行くと、襖の奥に、すでに布団が用意されているのが見える。「床急ぎか。手回しのいいことだ」(一度はいってみたいセリフにランクイン)しかしそう見せかけておいて、約束したのにかかわらず卑怯千万?な玉緒。短刀で雷蔵に襲いかかる。当然やり返され「約束は果たしていただこう。女を犯すことは慣れている男だと観念されるがいい。」「お前のような女を見ると俺のひねくれた無頼の欲情がそそられる」。「愛撫のさなかに殺すつもりなら俺が先に殺す。明日になればお前には興味がない。明日は他人だ」。しかしたった今短刀を振り回していたのに、何故か雷蔵の肩にしがみつく玉緒。こんなシーンは子供に大いに謎と誤解を与えたものである。いや未だに謎のままであるけれども。

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