明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



ピクトリアリズムというものがある。絵画主義、芸術写真ともいわれる写真の話である。私はHPを立ち上げた目的の一つが当時個展で発表していたオイルプリントの技法の紹介であった。前年の個展で、これはなんだ?という来廊者の質問に答えるのに閉口した、ということもある。HPを見て下さいといえば済む。なので初期のトップページにはピクトリアリストの、と名乗っていたものだが、今だったらともかく、当時は通じそうもないので後にはずした。ピクトリアリズムは写真の先輩である絵画の影響を受けたもので、当時でいえば印象派ということになる。イギリス、フランスなどで特に発展したが、ソフトフォーカスレンズの使用などは影響の最たるものであろう。 国内の作家でいえば、私が手掛けるきっかけになった野島康三もそうだが、後にリアリズムを追求する若い作家らに、絵画の模倣をする古臭い技法とみなされ廃れる結果になったが、当初は海外の最新情報を取り入れる、先端をいくモダンな人達であった。しかし以前から気になっていることがある。明治時代に岡倉天心が提唱し、横山大観、菱田春草らにより試みられた明確な輪郭を排した絵画技法“朦朧体”である。まさにソフトフォーカスな手法である。当初必ずしも受け入れられたとはいいがたい。日本画の持ち味ともいえる伝統的な線描を否定しているのであるから当然であろう。しかしこれが結果的に日本画に近代化をもたらすことになる。そう思って眺めると、国内に残されるの絵画主義写真作品は、むしろ朦朧体の延長線上にあるように思えてくるのである。この辺を研究すると面白いだろう。 ところでこの朦朧体は怪奇幻想の表現にはぴったりである。私は以前から泉鏡花の世界はピクトリアリズムにとって最適なモチーフであろうと考えていたが、そう思うと、私がこれから作ろうとしている海外作家は、これもまたぴったりなのである。なにしろ国内に話し相手がいないので参加した、海外のピクトリアリズムのサイトは、そのモチーフが、あまりに懐かしの故郷や『ゴシック調古城』的な作品ばかりで、いい加減にしろ、と呆れかえって出入りを止めたくらいなのであるから。

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父から戦争の話を聞いたことはほとんどない。霞ヶ浦の航空隊の近くに育った父は、兵隊のあまりに過酷な扱いに、なんでこんな所にあこがれ全国から集まってくるのか、と呆れた。という話くらいである。昭和二年生まれの父はぎりぎり戦争に行かずにすんだ。小学生の私はある日戦争に関する本を読んでいて、父と同い年で兵隊に行っている人がいたことを知るや、椅子を蹴立てて父の前に仁王立ちし「何で戦争に行かなかったんだよ!」これだから子供は嫌である。後年、親戚の前で父にそのエピソードをばらされ、忘れたふりしてとぼけたが『やっぱり覚えていたかー』赤面した私である。 10日といえば、東京大空襲である。(その日だけではないが)東京の下町育ちの母からは度々聞いている。延焼を避けるため、家を半分壊されたそうだが戦中は疎開はせず、進駐軍を恐れ、疎開したのは戦後だったそうである。アメリカ資本で立てられた聖路加病院のすぐ近くだったせいで空襲は免れた。事前に米軍はその旨を知らせるビラを撒いたそうだが、それを信じたからかどうかは知らないが、そこにとどまり無事であった。むしろ木場方面から飛んで来る材木が燃えた火の粉を消す事が大変だったという。翌日燃えた倉庫から燃え残りの米をみんなで広いにいったそうである。姉と二人、永代橋を渡り、江東区側を見にいったが、その光景が目に焼き付き、以前は私の住む永代通り沿いはあまり来たくないといっていた。朝の連続テレビ小説『ごちそうさん』はあんなもんじゃなかった、としょっちゅう文句をいっている。 11日 東北の震災から三年が経つ。あの時は、たまたま実家に帰っており、知人に勧められて、生まれて始めてマッサージに行き、これは良い、と翌日もでかけ、その最中に地震は来た。従業員の指示で頑丈なマッサージ台の下に隠れたが、マニュアルにあるのだろう。女性従業員こそ台の下に隠れたが、男性従業員は全員、出口の確保などにあたっていたのは、床に這いつくばりながら妙に感心した。当然営業は中止で、外に出てみると、ほとんどの人が携帯電話をかけていたのが印象的であった。実家に帰ると母がヘルメットを被っていた。そして悪夢のようなヘリからの中継映像を目にすることになる。そのカメラは、走る車が津波に飲み込まれる瞬間を映さないよう、意識して避けているように見えた。その後、一般人の撮影した映像も次々アップされている。本日でさえ、当時報道では知らされなかった現実を知ることになった。

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早朝都内某所。展示のことで担当責任者H島さんに会う。当初はそこまで考えていなかったが、スペース的には充分だし、このあたりで被写体として、写る部分しか作らず、作りっぱなしにしてきた作品を作りなおして、全作品展示したらどうか。そんなことを考えていた。しかし一昨日、某文学館より人形6体と写真作品の出品依頼が来て、全作品という訳には行かなくなった。点数的に充分とはいえ、どうしたものか。とりあえずH島さんに会ってから、と思ったら、H島さんは急遽別施設に異動になるという。聞いてないよ。という話である。H島さんが担当をはずれるなら話は違ってくる。するとH島さん曰く、一年待って異動先でやりますか? 内心即座に『そっちが良い!』。そう顔に出し、あからさまにいうわけにはいかなかったが、そちらの方がはるかに奇麗だし収まりが良い。そもそも、こちらはセキュリテイーに不安があった。となれば当面、文学館の6体について考えればよく、覚悟していた、『三島由紀夫へのオマージュ展 男の死』から昨年の『貝の穴に河童の居る事』制作時のように寝床に本を敷いて、寝心地悪くして睡眠時間を削る必用もなくなる。そもそも美人ばかりのクリニックに通うはめになったのはあれのせいである。最低な状態ではあったが、とはいえ快感物質溢れ出るあの状態を待ち望む私である。子供の頃に夢に見た、どこかの王様に幽閉され、“算数や宿題しないで良いから、ここで好きなことをしておれ”はまさにあの状態なのである。 とりあえず今日のところはひとまず。帰りに古書店を覗くと、作る作るといいながら、まだ手をつけていない海外作家の本があった。薔薇十字社刊。妙に安く、買う。そういえば誰を作るのか、いずれクイズにして、などと調子の良いことをいっていたら、すでに2人の正解者が出てしまった。まだ作り始めていないのに。実にカッコが悪い。しかし展示が延びるようであれば作り始められるわけである。

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本日、午前中野暮用を済ませ、昼食後部屋を片付けようと、まずこの辺りから。いったいここに何があり、どういう手順で始めようか、とあれやこれやとおよそ20分ほど経ったろうか。久しぶりに“劇聖”九代目團十郎の首をみたが、記憶していた物より大きかった。何か大事なことを忘れているような気がしてパソコンの前に座る。いや大事なことなど何もなかった。片付けようと思ったことが肝心であり、今日のところは團十郎の首が大きかった。ということでこの辺にしておこう。 今まで撮影用に制作したものを、7月にすべて展示できるよう作りなおし、そんな展示が可能かどうか、日曜日に打ち合わせしようと思っていたら、某文学館から人形6体と写真作品の展示の依頼がきた。約半年という期間なので7月に全作品とはいかなくなったが、それならそれで良い。 6体のうち4体は『中央公論Adagio』中からで、こちらからまず作ることが決まった。その中の夏目漱石は全身作ってあるのでそのままで良い。制作当時、写真に残る漱石の鼻筋に、写真師の修正の疑いを感じていた私は危険を回避するため漱石に正面を向かせた。昔腕の良い写真師は、修正用の鉛筆一本で食べていけたといわれている。この号が配布される直後に、江戸東京博物館で漱石展がある。私の見たことがない写真が出品され、あんな鼻筋でないことが判ったら恥をかくのは私である。いってみるとそんな写真はなかったが、デスマスクが展示してあり、見事なかぎ鼻であった。展示品の中に、映画の宣伝用に馬鹿な制作費をかけて作られた漱石像があったが、写真にだまされ、まっすぐな鼻筋であったので、ザマアミロと腹の中で。帰宅後、記憶が鮮明なうちに鼻を修正したのはいうまでもない。写真師がかってに鼻筋を修正したとは思えない。当然漱石が依頼したに違いなく、その鼻筋にコンプレックスを抱いていたと私は思う。側面からの写真は見たことがない。 この話は当時何度か書いた。展示するときもまた書くであろう。漱石の鼻筋に騙されている人からすれば私が間違っていることになるからである。

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日曜日に7月の展示に関する打ち合わせがあるのだが、それによって、隔月で4年続いた『中央公論Adagio』以降の、撮影用として、写る部分しか作っていない人物像を作り直し、展示するかどうかが決まるであろう。 写る部分は作ってあるから、そこに付け足せば良いというわけではなく、身体部分は始めから作らなければならないので、これはかなりの覚悟を要する。ちょっとした戦争状態に入らざるを得ないであろう。そう思うと思いついては見たものの。という気もする。しかし、そうなれば一気に20人以上の被写体を得ることになり、人形とカメラを片手づつ持ち街中を撮り歩く、かつての撮影法をとることもできる。『中央公論Adagio』では背景が都営地下鉄駅の周囲という制限があるので、それがなければ、こんな背景じゃ撮らない、ということが多かった。私ほど作った人物に煙草をくわえさせてきた人形作家もいないだろうが、酒も煙草も不可だったので、吉田茂もトレードマークの葉巻は、後ろ手に持っていることにした。幼なじみのTに、“小学校に、あんなスカした野郎が転校してきたらボコボコだったよな”といわれてしまった太宰治は、確かに充分鬱憤を蓄積させてくれたので、例えばK本の常連席に座らせ、女将さんに「あんた飲み過ぎだよ」と出禁を言い渡してもらう事も可能であろう。 冗談はさておき。やるとなったら幼い頃、どこかの王様に城に幽閉され、宿題や算数などやらないでよいから、ここで好きことをやっておれ、という状態を夢見た私としては、閉じこもっての不眠不休の戦争は望む所ではあるが、思いついては見たものの、と私に躊躇させるのは、現在、部屋が戦場にはふさわしくないことである。一番の問題は、部屋を片付けようと思ったとほぼ同時に、抗しがたい制作欲や読書欲が溢れ出て来てしまう私の体質とどう戦うか、ということになりそうである。

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昨年亡くなられた森下賢一さんの奥さんから、森下さんの膨大な蔵書についてうかがった。私の参考になるような本があれば、といっていただいたのだが。 随分前になるが、当時はタバコを吸っていたこともあり、メインの本棚を両開きの扉のついた古い物にそろえた。一つの扉のガラスは、今は見ることもなくなったグリーンのダイヤガラスで、一つには扉の内側に日除けのグリーンの布が張られていたので、もう一つもグリーン系の布を張って揃えた。他にも棚を導入し、一旦はすべて収まり、そこまでは良かった。本というものは棚に立てに収まっているうちである。積むようになってはいけない。気を利かしたつもりの扉がアダとなった。積んだ本がじゃまで扉が開かない。扉の布は外光から本を守るというより、私から本を守っている。これでは棚状の壁がただ部屋を狭くしているだけである。 古今東西、博覧強記の森下さんの蔵書となれば散逸させずに、どこか区内の図書館に収蔵してもらう等の手だてはないものだろうか、などと思っていたが、室内の手直しをする必用もあり、面識のある古書店に処分を依頼することにしたと伺った。昔は空き地に打ち捨てられた湿ったエロ雑誌のような臭いに満ちていたが、改装したとたんモダンジャズが流れる古書店である。店主は明日来るので、その前に必用な本があればどうぞ、という有り難いお申し出だったので、お言葉に甘え、マンションに伺った。 果たしてその蔵書は思った以上に広範囲に及んでいた。伺う前から決めていたことがある。私の部屋が前述の状態であるので、面白そう、読んでみたいでは切りがない。制作に直接的に結びつく本に限ることにした。すでに段ボールに収まっている本をしばらく眺めていると、当たり前ではあるが、雑多なようで、やはり森下さん的セレクトであることが判ってくる。酒、旅、料理、魚、歴史、俳句。ところどころ目に入る“放浪”の文字。私はどうしても、幼い頃から愛好する人物伝的な物を選んでしまうが、戴いた本の中で私にとって危険なのは、図版も豊富な厚い洋書『Hemingway』であろう。今年に入ってのことだったろう。ある編集者にヘミングウエイなんてどうですか?といわれ、冗談じゃない。だけどカジキマグロを調達してくれるんならやりますよ。と笑ったばかりだったからである。奥さんから森下さんが人形作ってる人と話すのが好きだ、といっておられたことを伺い、嬉しい気持ちのまま有り難く本をいただいて帰った。

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私は作ってしまった作品に対して冷たいところがある。私の好奇心は、頭に浮かんだイメージを目の前に形として表して、やはり私の中に本当に在ったな。と確認すると満足してしまう。さらにほとんどが作品の被写体として作るので、撮影してイメージを確保した時点でもう役目は終わった、という気分になってしまうのである。それを増長しているのは、最近、写る部分しか作らなくなっていることであろう。前々回書いたように、背景に合わせて撮影用に造形するためと、かけられる時間に制限がある場合、その時間の多くを限界まで頭部の制作にかけるせいである。私からすると身体は頭部のために。その表情を生かすために作る物である。 先月のことであるが、玄関の下駄箱(最近はおそらくそう呼ばないだろう)は扉を外し、自転車用のスパナやその他の道具箱に近い状態になっているのだが、そこからある人物の頭部がでてきた。撮影の多くは屋上で外光をやその反射光を使っておこなうが、撮影を終え、玄関に引き上げて来た時には、すでに画を作ることに頭がいってしまっており、使い道のない胴体から首を引き抜き、ついそこに置いてしまって、すでに出来上がり、主役を待つばかりの背景データの入ったパソコンの前にとっとと座ったのであろう。以前オークションで落札したギターが届いた時、その惨憺たる状態を見て、私が今までないがしろにしてきたギターが化けて出て来たかのように思ったことを書いたが、下駄箱から出て来た首を見た時も、ちょっとそれに近い気分になった。七月頃に展示の企画があるのだが、その際、すべて生き返らせて展示したらどうだろう、と思ったのはその時である。予定と違ってしまうし、そもそもすべて作ることが可能かどうかさえ判らないのだが。 いつかやろうと思いながら実現していないことに、ビートルズのサージャントペパーズのジャケットのように、今まで制作した作品を、同一画面に配することである。そう簡単にいかないのは、それぞれの作品の撮影時の光線状態がまちまちだからである。それではただ合成しても同じ場所にいるようには見えない。それを実現するには、すべて完成させた時点で、それぞれ同じ条件で撮影してしまうことであろう。その際、作者の私がその人達にかこまれてにやけよう、などという了見はまったくない。

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『人形劇団ひとみ座』森下文センター レクホール。 最前には床に大勢の親子が座っている。後ろのパイプ椅子もほぼ満席。入った途端蘇ったのは、私が幼稚園児の時に観た木馬座の着ぐるみによる舞台である。舞台が終わった後、演者が舞台から降りて来て子供達と交わるという趣向であったが、おそらく悪役として登場し、懲らしめられて終わったであろう狼に、頭を撫でられた私は狼が慌てるほど大泣きしたらしい。私はトラウマということが話題になると、真っ先に頭に浮かぶのがこのことである。記憶としてはこちらに近づいて来る狼の姿で途切れている。 舞台と客席の境がないような寺山演劇は、私がもっとも避けなければならない危険な舞台であったし、たとえ浅草に演芸を観にいっても、舞台上の芸人に絶対いじられないような席に座る。『リング』でテレビから貞子が這い出して来るシーンが、私にどれだけ嫌な気分を与えたか制作者には判るまい。 終演後、最後列の“最も安全な”席に座っていた私は、出口に近く、エレベーターには最初に数人とともに乗ったのだが、鬼太郎その他の演者がエレベーターを見送ることになっていたらしく、ドアが閉まりかけにようやく間に合い、「有難う御座いました」と見送られた。さすがに早くドアを閉めてくれ、とは思わなかったが、いいよそこまでしてくれなくても。とは思ったのであった。 先日、いつもの美人ばかりのクリニックへいったのだが、それまで順調に下がっていた数値が初の横ばいであった。歩いて帰ることにした。私が病的な方向音痴であることは度々書いてきた。生まれつき持って生まれた物は、私には一切責任がない。よっていくら書いても恥ずかしくないのである。間違いの元は、この道は見覚えがある、と思うとそちらへいってしまうことである。そしてそこそこ歩いたところで気がつく。この記憶は来るときだったか帰るときだったか。道ばたの地図を、極力頭をかしげないように注意しながら見ると、たいてい方向が逆なのである。歩くのが目的なのだから距離が伸びたのは良しとしよう。 ある店の前を通り過ぎようとすると、先ほど鬼太郎で騒いでいたような幼稚園児らしき男の子が、店の壁によりかかり、口をあんぐりと開けっ放して空を見上げている。冷たい曇天がその瞳に映っているのを見てドキリとした。店内にはショーケースを眺める両親と思しきカップルの後ろ姿。この子を放っておくと私みたいになってしまう危険があるぞ。注意してあげたい衝動に駆られるが、まあ生れつきならしかたがない。

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