明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



父から戦争の話を聞いたことはほとんどない。霞ヶ浦の航空隊の近くに育った父は、兵隊のあまりに過酷な扱いに、なんでこんな所にあこがれ全国から集まってくるのか、と呆れた。という話くらいである。昭和二年生まれの父はぎりぎり戦争に行かずにすんだ。小学生の私はある日戦争に関する本を読んでいて、父と同い年で兵隊に行っている人がいたことを知るや、椅子を蹴立てて父の前に仁王立ちし「何で戦争に行かなかったんだよ!」これだから子供は嫌である。後年、親戚の前で父にそのエピソードをばらされ、忘れたふりしてとぼけたが『やっぱり覚えていたかー』赤面した私である。 10日といえば、東京大空襲である。(その日だけではないが)東京の下町育ちの母からは度々聞いている。延焼を避けるため、家を半分壊されたそうだが戦中は疎開はせず、進駐軍を恐れ、疎開したのは戦後だったそうである。アメリカ資本で立てられた聖路加病院のすぐ近くだったせいで空襲は免れた。事前に米軍はその旨を知らせるビラを撒いたそうだが、それを信じたからかどうかは知らないが、そこにとどまり無事であった。むしろ木場方面から飛んで来る材木が燃えた火の粉を消す事が大変だったという。翌日燃えた倉庫から燃え残りの米をみんなで広いにいったそうである。姉と二人、永代橋を渡り、江東区側を見にいったが、その光景が目に焼き付き、以前は私の住む永代通り沿いはあまり来たくないといっていた。朝の連続テレビ小説『ごちそうさん』はあんなもんじゃなかった、としょっちゅう文句をいっている。 11日 東北の震災から三年が経つ。あの時は、たまたま実家に帰っており、知人に勧められて、生まれて始めてマッサージに行き、これは良い、と翌日もでかけ、その最中に地震は来た。従業員の指示で頑丈なマッサージ台の下に隠れたが、マニュアルにあるのだろう。女性従業員こそ台の下に隠れたが、男性従業員は全員、出口の確保などにあたっていたのは、床に這いつくばりながら妙に感心した。当然営業は中止で、外に出てみると、ほとんどの人が携帯電話をかけていたのが印象的であった。実家に帰ると母がヘルメットを被っていた。そして悪夢のようなヘリからの中継映像を目にすることになる。そのカメラは、走る車が津波に飲み込まれる瞬間を映さないよう、意識して避けているように見えた。その後、一般人の撮影した映像も次々アップされている。本日でさえ、当時報道では知らされなかった現実を知ることになった。

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