16日㈯12時から、山家歴史の会(有道大作会長)の主催による「鮎茶屋懇話会」に出席した。私は子どもの頃から歴史が好きで、特に綾部の郷土史には関心が深いので、2ヶ月ほど前に有道会長のお誘いで山家歴史の会に入会した。
山家地区は上林川と由良川の合流点に位置しており、ここで獲れる鮎は美食家、北大路魯山人が「日本一の鮎」と絶賛したとして知られている。
毎年、やな漁も行われてきたが、災害とコロナの影響で今年もやな漁は行われていないが、この三連休に鮎茶屋がオープンし、鮎の塩焼きなどが販売されている。
山家歴史の会では山家城址が国指定史跡になるように働きかけや取り組みを進めておられ、今日はそのための学術的な支援をしていただいている亀岡生涯学習市民大学の黒川孝宏学長(元亀岡市文化資料館長)と龍谷大学大学院の文学研究科長である國下多美樹文学部教授にもお越しいただいた。
綾部市の山崎善也市長、綾部市教育委員会の村上元良教育長らもお越しになっていた。
山家城は江戸時代初期に山家藩1万石の初代藩主、谷衛友公が築いた城で、幕末まで谷氏の居城であった。近年、石垣や井戸が発掘されて整備されるなど研究が進んでいる。
城がハードなら、城主はソフト。「谷の殿様」はもっと綾部市民が知って広める価値のある大名であると思う。なぜなら、綾部市域の多くは谷氏の領地だったからだ。
そういった話を黒川先生や國下教授と話している時、隣りに村上教育長がおられ、「教育長の出身地の志賀郷の内久井は山家谷氏の分家である十倉谷氏の領地だったと思いますよ」と話した。内久井、金河内、坊口、仁和などの方々で守っておられる阿須須伎神社は毎年2月3日の茗荷祭で占った稲の吉凶を十倉谷氏に報告していた。坊口や仁和は兵庫県柏原の織田藩領だったようなので、それはどうだったのか分からないが…。
2019年12月11日に発行した「げんたろう新聞」135号のコラム由良川にも、山家の谷氏について下記のように書いていた。
山家城址での「もみじ見物」を兼ねて「山家郷土歴史資料館」を見学した▼案内いただいた有道大作さんから「山家藩領の村々と石高について」という資料をいただいて気がついた。現在の綾部市域の半分以上は山家藩主・谷氏が領有していた▼九鬼氏の綾部藩は「綾部」を名乗っているので、綾部市のほとんどは綾部藩だと考えがちだが、実は分家も含めた山家藩の支配は、現在の山家地区だけでなく、口上林(十倉)、西八田、東八田、吉美、志賀郷、豊里(位田)、中上林(五泉)、奥上林(光野、老富、小仲)と実に市域の半分以上に及んでいる▼山家藩の初代藩主・谷衛友は美濃国(岐阜県)の生まれ。信長、秀吉、家康に仕え、天正10年(1582年)に山家に移封された。数々の武功を上げ、秀吉の九州征伐では味方の草履を引っ張り、倒してまで一番乗りの功名を立て、秀吉に勇敢さを称賛された▼関ヶ原では西軍につき、田辺(舞鶴)城の細川幽斎を攻めたが、攻撃では空砲(谷の空鉄砲)を撃ち、家康に所領を安堵された▼加藤清正に「バカ」と罵られたと勘違いし、清正の膝を足で押さえて、その脇差に手をかけ、清正を恫喝したという豪快な逸話も残されている▼来年のNHK大河ドラマには「谷の殿様」が登場しないかも注視したい。
清流の流れる音を聞きながら、炭火であぶられ、パリッと焼かれた美味しい鮎を食べながら、歴史談議に花を咲かせた楽しいひと時だった。