視察二日目。福島市の東にある飯舘村に入った。
この村は《計画的避難区域》に指定されており、昼間は自宅へ戻ることはできるが、全村民が順次、避難を求められており、人気がほとんどなかった。
30キロ圏内のさらに外側にあるにも関わらず、風の流れの影響か、放射線量が高い数値を示すために、こういう措置がとられている。
本来なら、今ごろ多くの稲が育っているだろう田んぼには草しか生えていなかった。
飯舘村を抜けると南相馬市に入った。南相馬市でも、田畑は全く作付けがなされていなかった。
南相馬市役所を訪ねて、村田崇副市長さんと市長公室長さんにお話を聞かせていただいた。
村田副市長は後で調べたら、まだ36歳だった。
総務省の出身で、京都府の黒瀬総務部長の後輩になるため、今回も忙しいなか、時間を割いていただいた。
南相馬市は小高町、原町市、鹿島町が合併してできた市で、今回、旧小高町が原発から20キロ圏内、旧原町市が30キロ圏内、旧鹿島町がその外側にある。
市内でそれぞれに対応が違うことから、市ではいろいろと苦慮しておられるということだった。
約7万人の市民のうち半数が今も市外に避難しておられるそうで、市外の避難者の状況把握や連絡が大変難しいとおっしゃっていた。
市役所を後にして、南相馬市にある立入禁止20キロ圏内との境にある検問所まで行った。
また沿岸部の港は、ほぼ全てが津波で破壊されている。その港を福島県港湾事務所の業務次長さんのご案内で、回らせていただいた。
沿岸部の津波被害は想像を超えるものだった。
復興までの道のりは遠いが、しかし、これは国をあげて何とかしなければいけないという思いに駆られた。
復興財源のためには、増税もやむを得ないと感じた。これは国民全体で費用負担しなければできる話ではない。
原発災害でも、国が方針や復興予算を明確にしないことで、不安や悲嘆が広がっている。
菅政権でも総理ご本人や閣僚、党幹部は被災地を訪れているはずだ。
あれを見れば、国の対策を急ごうというつもりにはならない方がおかしいと思う。
京都府の支援に関しては、いろんな方から感謝の意を表していただいた。
昼ご飯を食べた食堂の奥さんは、家族で京都へ避難されたそうだ。
府の受け入れ第一陣で避難され、「京都の皆さんには本当にお世話になった。ありがとうございます、ありがとうございます。京都に帰られたら、皆さんによろしくよろしくお伝え下さい」と涙を流さんばかりに何度も何度も丁寧に御礼をおっしゃられて本当に恐縮した。
どこを訪ねても感じたが、東北の皆さんは情が深く、義理堅い。
街角には「自衛隊さんありがとう、ボランティアさんありがとう」という横断幕があちこちに飾られ、全国からの支援に本当に感謝しておられるのがよく分かった。
立ち上がろうとしておられる東北の皆さんに今、元気を出してもらうためには、国がしっかりした復興方針と財源を確立することだと思う。
綾部市も、もし何かが起これば、全く他人事ではない。
何かがあった時のことも想定して、もっともっと私たちが安心できる法整備や施策を考えていかなければならないと強く強く感じた。
大きな“ショック”を受けた視察でもあった。
いろいろな情報を整理して、これからの議員活動に活かしていきたい。