10日㈪、10時から正暦寺名誉住職、第十九世正信住職の葬儀を行った。福知山の観音寺の小藪實英住職に導師をお世話になり、たくさんの僧侶の方々にお参りいただいた。
昨夜の通夜も含め、ほとんど雨に降られず、無事に終わってホッとした。多くの檀信徒、住職のご友人などの大きな助けに心から感謝申し上げます。
葬儀では筆頭総代として、弔辞を読み上げた。
弔辞
正暦寺前住職、故玉川正信様のご霊前に、正暦寺檀信徒を代表して、謹んでお別れの言葉を捧げます。
今年の一月、不動明王大祭を数年ぶりに元の形に戻して催行しました。その様子を家の中から見ておられた御姿を遠くから拝見したのが最後になってしまったこと、本当に残念でなりません。
おじゅっさん、八年前に住職を退かれてもなお、私にとって、おじゅっさんと言えば、前住職でございました。私の祖父と父も正暦寺の筆頭総代を務め、長年にわたり、本当にお世話になりましたし、私も物心つく前からかわいがっていただきました。檀信徒の皆様もおそらく同じ気持ちではないかと思います。先週の日曜日には、今日のための草刈りを前日の急な呼びかけにもかかわらず、多くの皆さんに蒸し暑い中、作業をしていただきました。一昨日朝からの会場準備にも、たくさんの方にお越しいただきました。それも、おじゅっさんの人徳あればこそだと感じました。
玉川正信前住職は昭和13年6月に長崎県平戸市にある阿弥陀寺の住職であった玉川光月(こうげつ)、歌香(うたか)夫妻の次男として誕生。高校三年で神戸の大龍寺に弟子入りされ、高野山高校、高野山大学を卒業した後は教師として、大阪の履正社高校にお勤めであったとお聞きしております。
昭和38年、25才の時に正暦寺の先々代住職の娘さんである滋子夫人と結婚され、この正暦寺に来られました。三男一女の四人のお子さんを育てるため、結婚後も教師の仕事を続けられ、網野高校、福知山高校、綾部高校で53才まで教鞭を執られました。
昭和52年、39才で正暦寺第十九世住職にご就任され、平成27年に引退されるまでの38年間、正暦寺の護持・発展に尽くしていただきました。その間には、不動堂、水子堂、水子地蔵、位牌堂、大師堂、庫裏、地蔵堂の建立や改修を進められ、その功績には大なるものがあります。
前住職は旅行が大好きで、国内はもとより、中国や東南アジアの仏教史跡を中心に、海外にもよく行かれていました。私も檀信徒の親睦団体である真和会の旅行で昼神温泉にご一緒したり、吉野・高野・熊野を訪ねる旅では高野山の松長有慶管長の法話を一緒に聴かせていただくなど、共に旅した楽しい思い出がたくさんあります。
特に印象に残っているのは、前住職の故郷、長崎県平戸市の阿弥陀寺を訪ねた旅です。阿弥陀寺は平戸島の南端に位置し、弘法大師もここから中国に渡ったと伝わる最果ての地でした。
行きの新幹線の中で自分の生い立ちを語ってくださいました。前住職はわずか4才でお父様を亡くされたそうです。昭和17年、数十名の檀家さんと戦勝祈願に向かわれた際、船長の不手際で船が転覆し、多くの方が犠牲になられました。お父様は一緒に乗っていた奥様や数名の檀家の方々を助けた後、死んでお詫びを、と思われたのか、自ら海に沈み、帰らぬ人となられたそうです。
たった4才で父親を亡くした前住職のご苦労は想像に難くありません。戦中・戦後の厳しい時代、お兄様と二人、お母様を支えて阿弥陀寺を守られ、中学生の頃には一人で葬儀のお勤めをこなされていたそうです。お兄様が学校を卒業して寺に戻られると、自らは神戸の寺に修行に出る道を選ばれました。
それを私に話した後、「だから、僕は説法をしないんや」と口をへの字に結んでおっしゃいました。お父様が責任をとって自ら命を絶ったこと、生きていてほしかった、その死の意味がどうしても自分の心の中で整理がつかなかった、そのままで何もかも分かったように他人に説法できないという意味だと私は感じました。
どんなことがあっても生きる、そして生きている今を楽しむ、それがおじゅっさんの人生をかけた説法だったのではないかと今、感じています。
おじゅっさんは喜怒哀楽を表に出される方でした。檀信徒の前でも、喜び、怒り、楽しむ、そうした姿を隠されませんでした。しかし、喜怒哀楽の「哀」、私がおじゅっさんの哀しみを見たのは、この話をされた時だけでした。
数日前、弘信住職と二人、横たわるおじゅっさんの傍らで話をしました。「亡くなられたことは悲しいけれども、正暦寺のためにも、自分や家族のためにも、やり尽くして生き抜かれた。もう何も思い残すことはないでしょう。まさに天寿を全うされたと思います」と声をかけました。
住職は「何年か前、萩まつりで親父の趣味の日本酒ラベルコレクションを展示したんやけど、親父は住職の時には絶対展示せんかったんや。酒飲みやと檀家さんに思われたくないからと。そんなんバレとるのにね」とおっしゃっていました。親子はよく率直に物を言い合っておられて、口論になることもあり、私たちは傍でどうしていいか戸惑うことがありましたが、互いの長所短所をわきまえ、互いに尊敬していることがよく分かる親子関係、師弟関係であったと思います。
また、大好きだったカラオケでおじゅっさんがよく歌っておられたのは五木ひろしの「由良川慕情」でした。正暦寺の眼下を流れる由良川を思い、また故郷・平戸への思いも重ねておられたのかもしれません。「由良川慕情」にこんな一節があります。
里山の茶畑掠め
渡る風 飛ぶつばめ
丹波綾部の 山坂越えて
どこまで旅する 倖せ求め
由良川に 願い托して
笹舟浮かべ 祈るひと
泣くんじゃないよ 我慢しな
どこの誰やら 我慢しな
これからはツバメのように自由な身となり、どこにでも行くことができるでしょう。平戸の阿弥陀寺にも、ここ正暦寺にも、高野山にも。
おじゅっさんは私と話をすると、いつも決まって「弘と一緒に正暦寺を盛り立てていって下さいね」とおっしゃいました。
それはもちろん、お約束いたします。3年後に迫る33年に一度の御本尊の御開帳に合わせた本堂の屋根修理に今、取り組んでいる最中でもあり、今後もお寺の護持に務めると共に、弘信住職が目指されている「困った時に頼れるお寺」「悲しみ事だけでなく、楽しい事でも集まれるお寺」になるよう、私も努力いたします。
おじゅっさん、後のことはご心配なく、どうか安らかにお眠りください。そして、いつも何も言わず、おじゅっさんを信じて支えられた最愛の奥様、ご家族、そして正暦寺のことを守ってください。
長い間、正暦寺のために働いて下さり、本当にありがとうございました。そして、本当にお疲れさまでした。
ここに、正暦寺第十九世、正信住職のご冥福をお祈りし、弔辞とさせていただきます。
令和五年七月十日
正暦寺 筆頭総代 四方源太郎
(写真は阿弥陀寺を訪ねた旅にて)
葬儀の後は中澤勝司総代と共に斎場まで行き、最後のお別れをさせてもらった。
(写真は晋山退山式の様子)
準備、通夜、葬儀共に大雨の予報だったが、ほとんど雨が降らず、出棺の時に急に雨が降ってきた。それは、おじゅっさんの「演出」のような気がした。
また、一昨日、小源太が財布を落としたと言ってきたそうで、お金はもちろん、マイナンバーカードや保険証やキャッシュカードやいろいろなものが入っていて、なくすと再発行になるので、妻が「この忙しい時に!」と嘆いていた。
東京でどこで落としたのかも分からず、当然、返ってこないだろうと諦めていたところ、葬儀の直前に小源太から「警視庁から電話があって、お金も中身もそのまま入っていた」という連絡があった。これもおじゅっさんが探して戻してくれたのかもしれないなと思った。