靖国神社の戦死者は大日本帝国国家によって必然として用意されていた「犠牲」であり、それを「尊い犠牲」と形容するインチキ

2021-08-16 10:21:31 | 政治
 今週はブログを休むつもりでいたが、8月15日が近づいて、閣僚の靖国参拝だ、詭弁家の言いくるめ名人加藤勝信の官房長官談話だ、自民党声明だ、安倍晋三の靖国参拝だ、相変わらず戦争美化を内側に置いた終戦記念日恒例の行事を目の当たりにして見過ごすことができず、かと言って、殆どが今まで書いてきたことの繰り返しになって、役にもた立たないのだが、取り敢えずはブログにしてみることにした。

 経済再生相の西村康稔が2021年8月13日午前8時頃、東京九段の靖国神社に参拝した。「NHK NEWS WEB」記事に参拝後記者団に私費で玉串料を納め「衆議院議員 西村康稔」と記帳した旨説明したと出ている。

 西村康稔は戦争を引き起こした、戦没者にとって「祖国」とした大日本帝国国家に対する歴史認識上の思いと記憶を前にして単なる一国会議員として立ち、手を合わせることができただろうか。時の政府の一大臣が追悼の手を合わせているのであって、一般人が手を合わせているのとは格と価値に違いがあるという虚栄心に駆られることはなかっただろうか。思いは一大臣として参拝したのであって、外交配慮上、「衆議院議員 西村康稔」という形式にしたということではなかったろうか。

 西村康稔「祖国を思い、家族を案じつつ犠牲となられた英霊の安寧を心からお祈りした。二度と戦争の惨禍を起こさず、日本が戦後歩んできた平和国家の道をさらに進めることを改めてお誓い申し上げた」

 西村康稔は去年は「終戦の日」の翌日に参拝したと記事は紹介している。

 確かに大日本帝国軍隊兵士は天皇陛下と大日本帝国国家のために身を捧げるべく「祖国を思い、家族を案じつつ犠牲」となった。と言えば、聞こえはいいが、「犠牲」は大日本帝国国家によって必然として用意されていたものだった。決して戦争遂行上の止むを得ない状況下の犠牲というわけではなかった。

 このことはあとで証明する。用意されていたとは気づかずに「祖国を思い、家族を案じつつ犠牲」となるという行為は兵士には知らされていないこととは言え、逆説に満ちることになる。この逆説は国家に騙されてというカラクリを備えていることになる。要するに国家に騙されて、「祖国を思い、家族を案じつつ犠牲」となった。

 当然、そのような犠牲者を「英霊」と最大限に価値づけ、その「霊の安寧を心からお祈りする」参拝者側の精神行為は偽善の装いを纏いつかせていることになる。このことに気づかないのは大日本帝国国家によって引き起こされた戦争を検証も総括もしていない幸運に恵まれているかっらだろう。

 「二度と戦争の惨禍を起こさず、日本が戦後歩んできた平和国家の道をさらに進めることを改めてお誓い申し上げた」と言っているが、大日本帝国国家の「戦争の惨禍」を検証も総括も経ずに「二度と戦争の惨禍を起こさず」と誓うのは戦争開始と敗戦までの様々な事実経緯を表面的な事象として捉えて眺めるだけの「戦争の惨禍」となって、「起こさず」の誓いは言葉で言うだけの形式になりかねない。検証し、総括して、8月15日が巡ってくるたびにその検証と総括を眺め返し、噛み締めつつ「二度と戦争の惨禍を起こさず」とすることこそが誓としての価値を持つことになる。

 大体が検証と総括を経た「二度と戦争の惨禍を起こさず」の誓と経ない誓いとではその質に違いがあるのは論を俟たないはずだ。

 安倍晋三の実弟、防衛相の岸信夫が西村康稔と同じ8月13日に靖国神社を参拝しほたとマスコミが報道していた。西村康稔が玉串料を私費で納め、「衆議院議員 西村康稔」と記帳したように岸信夫も玉串料は私費、「衆院議員 岸信夫」と記帳したというが、大日本帝国国家に対する歴史認識上の思いと記憶を前にして参拝する以上、西村康稔と同様に一国会議員のとしての参拝とするのは外交上の配慮でしかなく、内心では防衛大臣岸信夫として大日本帝国国家と対峙したはずである。

 岸信夫「国民のために戦って命を落とされた方々に対して尊崇の念を表するとともに、哀悼の誠を捧げた。また不戦の誓い、国民の命と平和な暮らしを守り抜くという決意を新たにした」(asahi.com)

 「国民のために戦って命を落とされた」犠牲が大日本帝国国家によって必然として用意されていたもので、いわば騙される形で見舞われたことならら、その戦死者に対して「尊崇の念を表する」ことは滑稽な儀式となる。自分の利益を得るために人をおだてて何かをさせながら、腹の中では「このバカが」と嘲るのとさして違いのない精神の働きを示していることになるが、勿論、岸信夫は戦死者や国民の犠牲が大日本帝国国家によって必然として用意されていたものだとは思っていない。戦死の背景をなした大日本帝国国家を否定はしていないからだ。「不戦の誓い」も、大日本帝国国家の戦争を検証と総括を経たているかいないかによって、意味合いも違ってくる。

 記事は、岸信夫は〈例年、終戦の日である8月15日前後に靖国神社や地元・山口の護国神社を参拝。防衛政務官時代の09年8月や、外務副大臣だった13年10月にも靖国神社を参拝している。〉と解説している。大日本帝国国家の有り様を肯定的な歴史認識の一部としているから、例年の参拝が可能となる。否定していたなら、遺族に引き渡すことができなかった遺骨を安置している国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑の参拝で済ませているだろう。

 また、西村康稔の「二度と戦争の惨禍を起こさず、日本が戦後歩んできた平和国家の道をさらに進めることを改めてお誓い申し上げた」にしても、岸信夫の「不戦の誓い、国民の命と平和な暮らしを守り抜くという決意を新たにした」にしても、大日本帝国国家は国民の人権を認めなかった天皇独裁・国家主義国家であって、その戦前国家と戦後の民主国家を断絶して捉えた上での『戦後』でなければならないはずだが、断絶を明示する文言はどこにもなく、戦前との連続性の上に戦後民主国家日本を考えている発想の発言ということになる。

 「終戦記念日にあたって 自民党声明」(自民党/2021年8月15日)
  
本日、76回目の終戦記念日を迎えるにあたり、先の大戦で犠牲となられた人々に対し、衷心より哀悼の誠を捧げます。

私たちが今日享受している平和と繁栄は、あの戦争によって命を落とされた多くの方々の尊い犠牲の上に築かれていることを胸に刻み、二度と戦争の惨禍が繰り返されぬよう、改めて不戦の決意をいたします。

日本は戦後一貫して平和国家としての歩みを続け、歴史と謙虚に向き合い、戦争の悲劇と被爆の実相を語り継いでまいりました。この歩みをこれからも変えることなく、今後も国際社会の先頭に立ち、恒久平和の実現に貢献していくことこそが、わが国の使命であります。

近年、国際情勢は複雑に変化し、日本を取り巻く安全保障環境も厳しさを増しています。
私ども自由民主党は、多くの国や地域との協力関係をさらに深化させ、インド太平洋並びにアジア諸国、そして世界の平和と安定のため、不断の努力を続けていくことが何よりも大切であると考えます。

これからも自由民主党は平和と自由を希求する国民政党として、平和国家日本を次世代に引き継いでいくとともに、世界から一層高い信頼を得られるよう全力を尽くしてまいります。

 〈私たちが今日享受している平和と繁栄は、あの戦争によって命を落とされた多くの方々の尊い犠牲の上に築かれていることを胸に刻み、二度と戦争の惨禍が繰り返されぬよう、改めて不戦の決意をいたします。〉

 今日の「平和と繁栄」が戦死者の「尊い犠牲の上に築かれている」とする慣用句となっている認識は大日本帝国国家及びその戦争を肯定的に捉えていることによって成り立つ。戦略的に勝算を間違えた戦争での戦死を「騙された犠牲」とすることはできても、「尊い犠牲」としたなら、即、戦前の大日本帝国国家を肯定しているか、擁護していることになるからだ。にも関わらず、「二度と戦争の惨禍が繰り返されぬよう」と言っていることは、前者の肯定性に対する後者の否定性となって、相互矛盾することになる。

 では、兵士の「犠牲」が大日本帝国国家によって必然として用意されていたものであったことを説明しよう。

 「総力戦研究所設置ニ関スル件」(国立国会図書館/更新日:2012年12月20日)
  
昭和15年8月16日 閣議決定

近代戦ハ武力戦ノ外思想、政略、経済等ノ各分野ニ亘ル全面的国家総力戦ニシテ第二次欧州大戦ハ本特質ヲ如実ニ展開シ支那事変ノ現段階モ亦カカル様相ヲ呈シツツアリ皇国力有史以来ノ歴史的一大転機ニ際会シ庶政百般ニ亘リ根本的刷新ヲ加ヘ万難ヲ排シテ国防国家体制ヲ確立センカ為ニハ総力戦ニ関スル基本的研究ヲ行フト共ニ之カ実施ノ衝ニ当ルベキ者ノ教育訓練ヲ行フコト必要ニシテ此ノ事タルヤ延テ政戦両略ノ一致並ニ官吏再訓練ニ貢献スルコト少カラスト認メラル依テ左記要領ニヨリ総力戦研究所ヲ設置シ総力戦態勢整備ノ礎石タラシムルコト現下喫緊ノ要務タリ


一、総力戦研究所ハ国家総力戦ニ関スル基本的調査研究ヲ行フト共ニ総力戦実施ノ衝ニ当ルベキ者ノ教育訓練ヲ行フヲ以テ目的トスルコト
二、総力戦研究所ハ内閣総理大臣ノ監督ニ属スルモノトスルコト
三、総力戦研究所ハ所長(陸海軍将官又ハ勅任文官)並ニ所員若干名ヲ以テ構成シ各庁並ニ民間ニ於ケル優秀ナル人材ヲ簡抜スルコト
四、研究員ハ差当リ文武間及民間ヨリ簡抜シタル者若干名ヲ以テ之ニ充テ其ノ教育期間ハ概ネ一年トスルコト
五、研究所ハ至急之ヲ開設シ先ヅ所員ヲ以テ総力戦ニ関スル基本的調査研究ヲ行ヒ昭和十六年度ヨリ研究員ノ教育訓練ヲ実施スルモノト予定スルコト
六、本件ニ関スル経費ニ付テハ適当ナル措置ヲ講スルモノトスルコト

  最初に総力戦研究所設置の目的を麗々しく掲げている。「近代戦はヨーロッパでのドイツ及びその連合国とイギリスやフランスを相手とした欧州戦線は勿論、支那事変も同じ様相を呈しつつあるが、武力戦のほか、思想、政治上の戦略、資源や生産を含めた経済等の各分野全てを駆使した全面的国家総力戦へと戦争の質を変容しつつあるから、我が皇国の有史以来の歴史的一大転機となることから政治全般に亘って根本的刷新を加え、万難を排して国防国家体制を確立するためには総力戦に関する基本的研究を行うと共に総力戦実施の役割を担う者の教育訓練を行うことが必要であり、こういったことは政治と戦争の両略の一致と官吏の再訓練に貢献すること少なくないと認められるゆえに総力戦研究所を設置し、総力戦態勢整備の礎石とすることを現下に於ける喫緊の要務とすると謳っている。

 そして総力戦研究所の具体的役割として、国家総力戦に関する基本的調査研究を行うことと総力戦実施の重要な役割を担うべき者の教育訓練を掲げた。

 要するに昭和15年(1940年)8月16日を起点に近代戦に必要な国家総力戦を可能とする政治と軍事の両体制の確立を目指すことになった。総力戦研究所の実際の設立は昭和15年9月30日付け施行の勅令第648号(総力戦研究所官制)によった。以下、「Wikipedia―総力戦研究所」から。

 総力戦研究所は国家総力戦に関する基本的な調査研究と同時に総力戦体制に向けた教育と訓練を設立目的とし、研究生は各官庁・軍・民間などから選抜された若手エリートたちであると先ずは説明している。

 昭和16年(1941年)12月8日の日米開戦約5カ月前の昭和16年7月12日、飯村総力戦研究所長から研究生に対して日米戦争を想定した、研究生を閣僚とした演習用の青国(日本)模擬内閣実施の第1回総力戦机上演習(シミュレーション)計画が発表された。

 東條英機が1941年(昭和16年)10月18日に首相就任する3カ月前で、当時は陸軍大臣の地位にあった。

 〈模擬内閣閣僚となった研究生たちは1941年7月から8月にかけて研究所側から出される想定情況と課題に応じて軍事・外交・経済の各局面での具体的な事項(兵器増産の見通しや食糧・燃料の自給度や運送経路、同盟国との連携など)について各種データを基に分析し、日米戦争の展開を研究予測した。

 その結果は、「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担に青国(日本)の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられない。ゆえに戦争は不可能」という「日本必敗」の結論を導き出した。

 これは現実の日米戦争における(真珠湾攻撃と原爆投下以外の)戦局推移とほぼ合致するものであった。

 この机上演習の研究結果と講評は8月27・28日両日に首相官邸で開催された『第一回総力戦机上演習総合研究会』において当時の近衛文麿首相や東條英機陸相以下、政府・統帥部関係者の前で報告された。

 研究会の最後に東條陸相は、参列者の意見として以下のように述べたという。

 東條英機「諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戦争といふものは、君達が考へているやうな物では無いのであります。

 日露戦争で、わが大日本帝國は勝てるとは思はなかつた。然し勝ったのであります。あの当時も列強による三国干渉で、止むに止まれず帝国は立ち上がつたのでありまして、勝てる戦争だからと思ってやったのではなかった。

 戦といふものは、計画通りにいかない。意外裡な事が勝利に繋がっていく。したがって、諸君の考へている事は机上の空論とまでは言はないとしても、あくまでも、その意外裡の要素といふものをば、考慮したものではないのであります。なほ、この机上演習の経緯を、諸君は軽はずみに口外してはならぬということであります」〉――

 先ず第一に陸軍大臣東條英機は1904年(明治37年)2月8日から1905年( 明治38年)9月5日までの日露戦争を戦った時代と近代戦は国家総力戦であるとしている1940年代後半の時代の戦争の質の違いを無視している。日本も日露戦争の時代から資源や生産力や経済力をバックとした技術の進歩を果たしていて、当時の日本に至っているのだろうが、アメリカの技術にしても日本とは桁違いの資源や生産力や経済力をバックとした技術の進歩を果たしていて、国家総力戦にそれぞれ影響するであろう、その両者の進歩の違いを見極める合理的な目を持っていなかった。陸軍大臣でありながら、この無能は如何と見し難い。

 また技術の進歩や自国資源の違いなどによって生じる、国民総生産は約1千億ドルと日本の10倍以上、総合的国力は約20倍の格差があったと言われていた米国の国家総力戦に注入可能な総合力を総力戦研究所の研究生によって構成された模擬内閣閣僚は当然のこと計算に入れ、机上演習(シミュレーション)した結果の「日本必敗」であり、〈現実の日米戦争における(真珠湾攻撃と原爆投下以外の)戦局推移とほぼ合致する〉精緻な実験結果だったが、陸軍大臣の東條英機は勿論、研究報告の場に列席していた近衛文麿首相やその他当時の閣僚、統帥部関係者は理解するだけの洞察力を持つことができなかったことになる。

 また東條英機は現役の軍人であり、陸軍大臣でありながら、国力や軍事力、戦術等の日米の総合力の差を計算に入れた戦略(=長期的・全体的展望に立った目的行為の準備・計画・運用の方法)を武器とするのではなく、それらを無視して、最初から「意外裡」(=計算外の要素=戦略外の偶然)に頼って、頼ること自体が精神主義に侵されていたことになるのだが、それを武器にして巨大国家アメリカに戦争を挑もうというのだから、合理性もへったくれもなかったことになる。

 最悪なのは「この机上演習の経緯を、諸君は軽はずみに口外してはならぬということであります」と、マル秘扱いの情報隠蔽を謀ったことである。大日本帝国国家のプライドとして当然のことと言えば、当然のことだが、最初から頭にあったのは「意外裡」(=計算外の要素=戦略外の偶然)以外になかったから、「日本必敗」を「日本必勝」に変える起死回生の戦略を生み出す努力もせず、生み出せるはずもなかったが、努力していたなら、東條英機自身が「日本必敗」を悟らざるを得なくなって、外交に戦術転換を図ったかも知れないのだが、「意外裡」に頼る精神主義を武器に東條英機は首相として日米開戦を
決定。日本時間昭和16年12月8日未明にハワイ真珠湾の米海軍基地を攻撃、大日本帝国国家自らが総力戦研究所の模擬内閣によって日米の国力と軍事力に関わる各種データを基に日米戦争の展開を研究予測した答が「日本必敗」とされた日米開戦の火蓋を切った。そして同日午後7時過ぎ東條英機はラジオ放送を通じて日本国民に宣戦の詔勅が渙発されたことを伝えた。

 かくして大日本帝国軍兵士は「日本必敗」を知らされずに巨大な経済国家・巨大な軍事国家アメリカとの戦争を「天皇陛下のため・お国のため」と戦わされ、多くが犠牲となった。日中・対米戦争で犠牲となった軍人・軍属・准軍属戦死者は230万人と言われていて、「犠牲者」の約6割は兵站(戦闘部隊の後方にあって、人員・兵器・食糧などの前送・補給にあたり、また、後方連絡線の確保にあたる活動機能。「goo国語辞書」)軽視による餓死だと言われている。この兵站軽視も、近代戦は全面的国家総力戦だと定義づけながら、定義づけどおりの戦略を展開する創造性も、裏付けとなる戦争遂行資源も欠如させていた証明としかならない。

 国力と軍事力の大差によって「日本必敗」とシミュレーションされた日米戦争を「意外裡」の精神主義で戦わされた「犠牲」なのだから、大日本帝国国家によって必然として用意されていた犠牲そのものであった。標高が高く、険しい山に登山の装備をせずに普段着で登頂を命令されて、命を落とすことになり、それを「尊い犠牲」とすることとたいした差はない。

 そのような「犠牲」を戦前の大日本帝国を戦後の民主国家日本と絶縁できない、安倍晋三を筆頭とする保守派の政治家・日本人は「尊い犠牲」と形容する。
インチキそのものである。

 では、詭弁家の言いくるめ名人加藤勝信の官房長官談話を見てみる。

 「内閣官房長官談話」(首相官邸/2021年8月14日)
  
 明日8月15日は、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」であります。

 政府は、日本武道館において、天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、遺族代表及び各界代表の参列の下に、先の大戦における300万余の戦没者のため、全国戦没者追悼式を挙行いたします。

 この式典を政府が主催する趣旨は、今日の我が国の平和と繁栄の陰に、先の大戦において祖国を思い、家族を案じつつ、戦禍に倒れた戦没者の方々の尊い犠牲があったことに思いを致し、全国民が深く追悼の誠を捧(ささ)げるとともに、恒久平和の確立への誓いを新たにしようとするものであります。

 明日の正午には、国民一人ひとりが、その家庭、職場等、それぞれの場所において、この式典に合わせて、戦没者をしのび、心から黙とうを捧げられるよう切望いたします。

 「今日の我が国の平和と繁栄の陰に、先の大戦において祖国を思い、家族を案じつつ、戦禍に倒れた戦没者の方々の尊い犠牲があった」

 確かに無事帰還できた兵士にしても、「祖国を思い、家族を案じつつ」戦争に臨んだはずだ。だが、大日本帝国国家によって「日本必敗」という冷徹な悪条件下で戦争に駆り出されて、犠牲となるべく犠牲となった軍関係の戦死であり、民間人の戦没である以上、大日本帝国国家によって必然として用意されていた「犠牲」という関係を取って初めて、「日本必敗」無視との整合性が取れる。

 そして加藤勝信にしても、「尊い犠牲」だと言う。ここには大日本帝国国家によって必然として用意されていた「犠牲」であることを隠し、美化するインチキがある。この美化のためのインチキには「日本必敗」を無視して、勝つための戦略を用意もせずに勝てない戦争を初めた大日本帝国国家の失態を擁護する作用が自ずと働くことになる。だからこそ、自民党の多くの政治家がそうだが、戦前の大日本帝国を戦後の民主国家日本と絶縁できないで、連続させた視野で捉えることになっている。

 その代表的な人物安倍晋三の2021年8月15日靖国参拝時の記者団に対する発言を「NHK NEWS WEB」記事から見てみる。

 安倍晋三「終戦の日にあたり、先の大戦において、愛する人を残し、祖国の行く末を案じながら散華されたご英霊に尊崇の念を表し、み霊、安かれと祈った」

 靖国神社の大日本帝国軍隊戦死者をこの上なく素晴らしい美辞麗句で飾っている。「愛する人を残し、祖国の行く末を案じながら散華された」。「散華」とは花と散るという意味を取る。例え兵士本人が自らの戦死の際に「花と散る」と美化したとしても、当時の大日本帝国国家上層部が「日本必敗」のシミュレーションに用いられた国力と軍事力の日米大差の悪条件を無視して突っ走った戦争であって、必然として用意されていた「犠牲」という性格を帯びることになるにも関わらずにこのように戦死者を美辞麗句で飾ることができる。

 「散華」した兵士が事実存在したとしても、現実には敵の攻撃に逃げ惑って殺されることになったり、ジャングルに迷い込んで、飢えで死んだり、爆弾投下や艦砲射撃で吹き飛んだりの「散華」とは無縁の多くが「犠牲」であり、本人にとって残すのは色のない世界である。だが、安倍晋三は大日本帝国国家によって必然として用意されることになった「犠牲」を「散華」と美しく形容する。このインチキは特上である。

 このような兵士の「犠牲」に対する美しい形容は直接的にも、間接的にも大日本帝国国家の戦争を擁護する働きを担う。確かに戦争で「犠牲」となった兵士の「祖国」は当時の大日本帝国国家ではあるが、当然、その「祖国の行く末を案じた」であろうが、戦後の民主国家に生きる日本人が「犠牲」となった兵士の気持ちを代弁して「祖国の行く末を案じながら」と言うとき、戦前の大日本帝国国家擁護の、あるいは大日本帝国国家肯定の意思が顔を覗かせることになる。

 もし多くの兵士の「犠牲」が大日本帝国国家によって必然として用意されていた出来事だと歴史認識することができていたなら、「国は勝利は困難だと一旦はシミュレーションされた戦争を無理矢理始めて、無理矢理戦争に臨むことになった多くの兵士の『犠牲』を生み出した。兵士はそのことを知らずに祖国の行く末を案じながら息を引き取っていった。とんでもない国家だった」と大日本帝国国家を否定的に見るだろうし、兵士に対しては憐れみの気持ちを持つことになるだろう。

 安倍晋三はこの真逆である。立ち位置を戦後の民主国家日本に置きながら、「むしろ皇室の存在は日本の伝統と文化、そのものなんですよ。まあ、これは壮大な、ま、つづれ織、タペストリーだとするとですね、真ん中の糸は皇室だと思うんですね。この糸が抜かれてしまったら、日本という国はバラバラになる」(2012年9月2日日テレ放送の「たかじんのそこまで言って委員会」)の発言に見て取れる戦前の大日本帝国国家の精神性を引き継いでいることからの大日本帝国国家擁護であり、擁護の一環としての靖国神社参拝であり、戦死者追悼にほかならない。

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