蓮舫の民進党代表選2016年8月23日記者会見発言「岡田克也代表が大好きです。ただ、1年半一緒にいて本当につまらない男だと思います」から見るハンパない自己正当化バイアス
以下、6回に亘って蓮舫が心理的傾向としている「自己正当化バイアス」を指摘する記事を連載する。但し題名の変更もありうる。途中、別の記事を挟む場合もある。
2:《蓮舫を叩く:女だからではない、参院政倫審世耕追及の「常に自分の考えは正しい」の自己正当化バイアス》
3:《蓮舫を叩く:女だからではない、都知事選立候補会見等の「常に自分の考えは正しい」の自己正当化バイアス》
4:《蓮舫を叩く:女だからではない、都知事選後の動画配信「常に自分の考えは正しい」の自己正当化バイアス1》
5:《蓮舫を叩く:女だからではない、自分だけが打たれ強いとする、自己正当化バイアスな動画配信2》
6:《蓮舫を叩く:女だからではない、SNSの誹謗中傷を病んでいると言うだけの自己正当化バイアスな動画配信3》
いくつかの事例を挙げて、当方なりの蓮舫評価の総決算を試みることにした。勿論、当方というごく個人的な見解だから、公平性を備えているかどうかは第三者の解釈次第となるが、いわゆる誹謗中傷の類いとなる安易な"蓮舫叩き"とはならないように心がけるつもりでいる。
この総決算を試みたいと思い立ったのは都知事選敗選後に元宮崎県知事でタレントの東国原英夫が蓮舫についてテレビ番組で「蓮ちゃん、生理的に嫌いな人が多いと思う」と批評したことに対して蓮舫が「携帯も知らなければ、ご飯も食べたことない人が『ちゃん』づけだよ」と反発したことをネット記事で知り、「生理的に嫌いな人」を多いとしている点の正当性に反発の焦点を当てずに「ちゃん」づけに当てた、その相変わらずの非合理性からだった。
「自己正当化バイアス」とは、〈自分の考えは常に正しいと信じ込もうとする人間心理の歪み。〉だとネットで紹介している。要するに自己中心の考えが際立っているということであろう。
誰もが多少なりとも取り憑かれている歪みではあるだろうが、この心理の歪みは物事を相対的に、あるいは合理的に捉える力=論理的思考力の欠如、あるいは素直に反省する自己省察力の欠如から生じているはずだ。蓮舫が抱える自己正当化バイアスはその非合理性や非自己省察性に依拠していて、それがハンパない状態にある。このことをおいおい証拠立てていく。
蓮舫が小池百合子と対決したのは今回の2024年7月7日投開票の都知事選のみではない。民主党後継の民進党代表だった岡田克也が2016年7月10日の参議院選挙で開戦前議席62議席から13議席減らして49議席となったものの引責辞任せず、2016年7月30日に2ヶ月後に控えた党代表選への不出馬を表明、2016年9月15日執行の民進党代表選に立候補した蓮舫が対立候補の前原誠司や玉木雄一郎を大差で破り、民進党代表に就くことになった。各マスコミの世論調査では蓮舫に「期待する」が軒並み50%を超えていた。
民進党代表として9ヶ月後に迎えた2017年7月2日の東京都議選では前年の2016年に就任した小池百合子東京都知事の与党都民ファーストの会が選挙前6議席から55議席へと大躍進、民進党は蓮舫が東京都を参議院選挙区としながら7議席から5議席に減らして、同じ女性対決でありながら、蓮舫効果をプラスに向けることができず、その敗北の責任を取って幹事長の野田佳彦が辞任、求心力の低下を招いて新体制に向けた人事に行き詰まり、2017年9月1日に1年足らずで辞任することとなった。
これが蓮舫と小池百合子との最初の対決である。
話を戻すと、岡田克也の不出馬表明後の2016年8月23日に代表戦に名乗りを挙げていた、当時代表代行だった蓮舫が日本外国特派員協会で記者会見し、代表の岡田克也を評して次のように発言している。
蓮舫「あとは民進党のイメージを思いっきり、私が代表にさせていただくことで変えたいと思います。ここが大事なので、是非編集しないで頂きたいんですが、私は岡田克也代表が大好きです。ただ、1年半一緒にいて本当につまらない男だと思います。人間はユニークが大事です。私にはそれがあると思います。是非、皆さんのご支援頂ければ、このあと是非、質疑応答で議論させてください。ありがとうございました」
要するに岡田克也の党代表としての政治行動全般に亘って見るべき価値がなかったと、その役柄を否定している。決して政治という場を離れた一個人に対する評価ではない。民進党のイメージを高めたわけでもなく、対与党政策論争、あるいは自らの政策展望等の党運営に関して非常に平凡で、見るべき独自性がなかった。だが、私が代表になったら、民進党のイメージを大きく変えることができ、全てに他にはない独自性(=ユニークさ)を発揮すると強気の発言を見せたのである。
当然、蓮舫も政治家の端くれ、"政治は結果責任"をしっかりと頭に置き、道理としていただろうから、党運営に相当に確固たる自信を持っていたはずである。
但し岡田克也が民進党代表時、蓮舫はナンバー2の代表代行を務めていて、政治がチームワークである以上、トップがチームを満足に統率できず、見るべき党運営ができなかった責任を第一に負うものの、他の成員それぞれが"結果責任"を連帯して負わなければならないはずだが、蓮舫は「本当につまらない男だ」と岡田克也一人の責任に帰した。
蓮舫はこの矛盾に何も気づいていなかったことになる。つまり公平な判断が満足に働かず、自分だけを正しい場所に置く自己中心(自己正当化バイアス)に陥っていた。
蓮舫の記者会見での発言が問題視されると蓮舫は自身のツイッターで、「岡田代表への敬意を表しました。その上で、ユーモアのない真面目さを現場で伝えたかったのです」と釈明している。
岡田克也は辞任前のまだ代表であり、蓮舫は代表代行、いわば立場の上の人間を掴まえて、「本当につまらない男」と言ったのは仕事上の能力に対する否定的評価として使った言葉ではなく、敬意を表した言葉であって、意図としては「ユーモアのない真面目さ」を指摘したと真意を説明した。
だが、どこの世界に「本当につまらない男」と言われて、俺は敬意を示されたのだと受け止める人間がいると言うのだろうか。いるはずはないのだから、「本当につまらない男」との評価を敬意表明の言葉とするには道理を無視し、自分の都合のよいように釈明する無理矢理なこじつけ、牽強付会なくして成り立たせることはできない。蓮舫にはそれが自然にできた。
勿論、牽強付会を行うについては小賢しさや狡さといった性格的要素を欠かすことはできない。小賢しさ、あるいは狡さゆえに間違ったことを言っても、素直に認めることができずに無理矢理にこじつけて、間違いを隠して正しいことに持っていってしまう。素直な感覚の持ち主なら、「失言でした。小賢しさ、あるいは自分を正しくみせる狡さが先に立ってしまいました」と素直に謝って修正するだろうが、そんな気配は見せることはなかった。
政権与党自民党の閣僚が自身の不祥事やスキャンダルで国会追及されても、あれやこれやと言葉を使い分けて自身を正当化して逃げるのと殆ど変わらない。蓮舫はそのことに気づいていない。
自身の言葉は自らの性根の現れでもあるから、言葉の正当化は自らの性根の正当化をも意味することになる。常識や妥当性を無視した言葉の正当化はその無視をそのまま背負った性根の正当化に反映されるというメカニズムを取ることになって、否応もなしに小賢しさや狡さを性根として付き纏わせることになる。
但し周囲からその小賢しさや狡さを指摘されたとしても、常識や妥当性を無視した言葉の正当化という態度自体が自己正当化バイアスの現れであるから、その心理が強過ぎると、その指摘をも悪意に取り、気持ちを安定させるために自身の正当化に一層努めることになるか、周囲から自分に味方してくれる人間を探し出して、味方の言葉を利用して自己正当化の補強を図るなどして、ますます自分は正しいんだという思いを強くすることで自己正当化バイアスの殻に閉じこもることになる。
蓮舫がそうであるかどうかを見ていくことにする。都議選敗北から約1ヶ月近く後の2017年7月27日に辞任記者を開くことになった。「産経ニュース」記事からその「発言」を見てみる。
辞任を臨時の執行役員会で了承されたことを伝えてから、辞任の理由を述べている。
蓮舫「どうすれば遠心力を求心力に変えることができるのか。力強く、私たちがしっかりと皆さんに託していただける民進党であれと国民の皆様方に思っていただけるのか。そのとき、やっぱり考えたのは、人事ではなくて、私自身をもう一度見つめ直さなければいけないと思いました」
なぜこうも抽象的で巧みな発言ができるのだろうか。民進党代表任期3年を当初50%もあった期待を裏切ることになり、約1年で退くことになった、代表としての力不足への謝罪を最初に直接的に持ってくるのではなく、巧みな言い回しでその力不足を直接的にはぼかす細工を施している。
この"ぼかし"は日本外国特派員協会の記者会見で見せた、「民進党のイメージを思いっきり変えたい」、「人間はユニークが大事です。私にはそれがあると思います」の言葉の発信に付き纏わせなければならない"政治は結果責任"を痛切に自覚していないからこそできる"ぼかし"であって、結果としてウソとなる大口を叩いたことになるが、このことの自覚も共々にないことになる。
僅かでも自覚があれば、最低限、"政治は結果責任"の文脈を用いて、「1年しか持たなかったのは恥ずかしいです」と自分から正直に謝罪し、ぼかすことのない言葉の使い方で自分の責任を語るはずである。記者からの質問で責任を話ざるを得なくなって話すのでは自覚不足は変わらず、このような無自覚は自分のどこかで自分は正しいとする自己正当化バイアスの働きなくして発生させることはできない。
蓮舫「(行政監視という攻めの部分に関しての成果を請け合った上で)ただ一方で、攻めと受け。この受けの部分に私は力を十分に出せませんでした。率直に認め、今回私が手を着けるのは人事ではない。いったん引いて、より強い『受け』になる民進党を新たな執行部に率いてもらう。これが最善の策だ。民進党のためでもない。私のためでもない。国家の民主主義のために、国民の選択肢の先である二大政党制の民進党として、それをつくり直すことが国民のためになるという判断だと、是非ご理解をいただきたいと思います」――
言ってることが最初から破綻している。第一歩として辞任は民進党のためであるとしなければならない。民進党が勢力を拡大しなければ、次の光景、民進党が目指す「国家の民主主義」も、民進党主体の「二大政党制」も実現し得ない。如何に論理的思考力を欠いているか、合理的思考力を欠いているか、自ら証明している。
新しい執行部へのバトンタッチを「民進党のイメージを思いっきり変えたい」と言ってできなかった程度のリーダーシップに反して「民進党のためでもない。私のためでもない。国家の民主主義のために」云々と美しい言葉で仕立て上げているが、政権を率いて国家を運営するわけではなく、貧弱な党を建て直すだけという話に大層な言葉遣いで高邁な話に持っていこうとする。
結局のところ、1年足らずの代表辞任という結末(=果たせなかった"政治は結果責任")を隠す大袈裟に格調を持たせた言い回しであって、最後の最後まで自分を実質以上に見せようとする虚栄心を働かせている。ここからは政治家として表に現れる行為・行動に対して正直であろうとする姿は見えてこない。
蓮舫は「攻めと受け」の"攻め"に行政監視を置いているが(実際の発言は「私たち、言えるのは、攻めの部分は、しっかりと行政監視をしてきました」)、これは狭い解釈でしかなく、実質的には政党としての対外発信力を言うはずである。代表蓮舫の統率力(リーダーシップ)のもと政府与党政治に対する自党政治の国民にとっての利益性の訴え、権力監視(一つに行政監視)の国民にとっての利益性の訴え、国民有権者に対してどのような社会階層の利益を主として代表しているのかの党の存在理由の訴えなどとそれらの訴えに基づいた各理解の獲得と、最終結果としての党支持率の獲得を目的とした諸々の情報発信活動のことであって、サッカーやラグビーの試合で言うなら、全体的な攻撃の部分に当たる。
当然、「攻めの部分は、しっかりと行政監視をしてきました」は一つの成果に過ぎず、攻めの全体の成果とするにはマヤカシそのものとなる。
"受け"は政府与党や他野党、あるいは不支持の立場にある国民の自党の存在に向けた否定的考えに対抗して改めて自らの存在理由の正当性を主張・証明する情報闘争を指すはずで、サッカーやラグビーの試合での全体的な守備の部分に当たるが、守備と言えども攻撃の側面を抱えていて、攻撃と守備がうまく噛み合わないと、勝利に向けたチームの存在(党の存在)が成り立たないから、当然、"攻め"と"受け"は相互補完的な一体性を持たせた車の両輪の関係で機能することが求められる。片方のみの機能であったなら、党の存在意義を獲得できはしない。
だが、蓮舫は"攻め"と"受け"を別個扱いとし、"受け"には力を発揮できなかったが、"攻め"にはあたかも力が発揮できたかのようなニュアンスの言葉遣いをしている。"攻め"に力を発揮できていたなら、なぜ都議選で敗北を喫することになったのだろう。
結局のところ、攻めの部分に当てている行政監視の成果は民進党の存在理由をより多くの国民に認知させる全体的な成果となる攻めとはなっていなかったということであって、だからこその1年足らずの辞任であり、蓮舫の合理的認識能力を欠いた自己正当化バイアスが言わせている部分的成果に過ぎないということであろう。
大体が蓮舫本人が自覚しているとおりに統率力が不足していたなら、"攻め"も"受け"も、満足に機能することも、機能させることもできたはずはない。その結果の一つが東京都を選挙地盤としていながらの都議選の敗北ということであるはずだ。
"攻め"の部分として国民の関心を行政監視以上に集める機会も多く、注目度が高いのは首相、あるいは閣僚の不祥事や内閣の政策自体に対する国会の場での追及であるはずだが、特に蓮舫は攻撃的な言葉で激しく追及するものの、殆を最後まで追及しきれずに、尻切れトンボの不完全燃焼で終わらせている。終わらせていなければ、安倍晋三の権力の私物化やアベノミクスが経済格差に役立ったのみで、国民の大多数を占める中低所得層の生活を苦しめることになった政治利益の偏りなどで追い詰めることができ、結果的に安倍晋三を7年8ヶ月も権力の座に居座らせることはなかったろう。
この国会追及の不完全燃焼の格好の事例として次回、2024年3月14日の参議院政倫審での世耕弘成に対する追及に関連して取り上げてみる。
要するに国会追及という"攻め"の大きな見せ場でもある権力監視の大部分を未消化のまま推移させ、満足に機能させることができなかったにも関わらず、マスコミが「厳しく追及した」と報じるのを見るだけで満足したのだろう。だが、多くの国民は騙されることも自らを騙すこともしなかったから、野党に対して「批判ばかり」というレッテルを貼るに至った。「批判ばかり」というレッテルそのものが追及の程度を物語っている。立憲民主党は「批判ばかり」がどのような能力に向けられた名付けなのか気づかず、「批判ばかりではない、政府法案に対して対案も出している、独自法案も出している」と見当違いだと気づかない答を出している。結果、追及部分に見せる批判行為だけを印象に残し、いつまで経っても「批判ばかり」と言い続けられることになる。
蓮舫の辞任記者会見での発言は代表として発揮すべき役目である"攻め"という能力でも、"受け"という能力でも、実際には統率力不足(=リーダーシップ不足)が足枷となって不発状態で推移させているのだから、そのことを言葉の上では可能な限り綺麗事化し、自己正当化バイアスの網にかけ、自身が負う傷を傷と見せない巧妙なカムフラージュを施したといったところである。このことは応分な責任負担の回避に当たるのは断るまでもない。
蓮舫の言葉の巧みさは強度な自己正当化バイアスが積み上げていくことになった、その見事な作品と言うことができるはずだ。
以下、《蓮舫を叩く:女だからではない、・・・》――は続く。
「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円) 1.イジメを含めた全活動が"可能性追求"だと自覚させる「可能性教育」 2.「厭なことやめて欲しい」で始まるロールプレイ 3. 居場所づくりと主体性教育目的の一教科専門コース導入の中学校改革 4.主体性教育目的の図書館の蔵書を参考書とする1日1時限の「自習時間」の導入 (学校は一定のルールを決めて学校内でのプロレスごっこを認める) |
以下、6回に亘って蓮舫が心理的傾向としている「自己正当化バイアス」を指摘する記事を連載する。但し題名の変更もありうる。途中、別の記事を挟む場合もある。
2:《蓮舫を叩く:女だからではない、参院政倫審世耕追及の「常に自分の考えは正しい」の自己正当化バイアス》
3:《蓮舫を叩く:女だからではない、都知事選立候補会見等の「常に自分の考えは正しい」の自己正当化バイアス》
4:《蓮舫を叩く:女だからではない、都知事選後の動画配信「常に自分の考えは正しい」の自己正当化バイアス1》
5:《蓮舫を叩く:女だからではない、自分だけが打たれ強いとする、自己正当化バイアスな動画配信2》
6:《蓮舫を叩く:女だからではない、SNSの誹謗中傷を病んでいると言うだけの自己正当化バイアスな動画配信3》
いくつかの事例を挙げて、当方なりの蓮舫評価の総決算を試みることにした。勿論、当方というごく個人的な見解だから、公平性を備えているかどうかは第三者の解釈次第となるが、いわゆる誹謗中傷の類いとなる安易な"蓮舫叩き"とはならないように心がけるつもりでいる。
この総決算を試みたいと思い立ったのは都知事選敗選後に元宮崎県知事でタレントの東国原英夫が蓮舫についてテレビ番組で「蓮ちゃん、生理的に嫌いな人が多いと思う」と批評したことに対して蓮舫が「携帯も知らなければ、ご飯も食べたことない人が『ちゃん』づけだよ」と反発したことをネット記事で知り、「生理的に嫌いな人」を多いとしている点の正当性に反発の焦点を当てずに「ちゃん」づけに当てた、その相変わらずの非合理性からだった。
「自己正当化バイアス」とは、〈自分の考えは常に正しいと信じ込もうとする人間心理の歪み。〉だとネットで紹介している。要するに自己中心の考えが際立っているということであろう。
誰もが多少なりとも取り憑かれている歪みではあるだろうが、この心理の歪みは物事を相対的に、あるいは合理的に捉える力=論理的思考力の欠如、あるいは素直に反省する自己省察力の欠如から生じているはずだ。蓮舫が抱える自己正当化バイアスはその非合理性や非自己省察性に依拠していて、それがハンパない状態にある。このことをおいおい証拠立てていく。
蓮舫が小池百合子と対決したのは今回の2024年7月7日投開票の都知事選のみではない。民主党後継の民進党代表だった岡田克也が2016年7月10日の参議院選挙で開戦前議席62議席から13議席減らして49議席となったものの引責辞任せず、2016年7月30日に2ヶ月後に控えた党代表選への不出馬を表明、2016年9月15日執行の民進党代表選に立候補した蓮舫が対立候補の前原誠司や玉木雄一郎を大差で破り、民進党代表に就くことになった。各マスコミの世論調査では蓮舫に「期待する」が軒並み50%を超えていた。
民進党代表として9ヶ月後に迎えた2017年7月2日の東京都議選では前年の2016年に就任した小池百合子東京都知事の与党都民ファーストの会が選挙前6議席から55議席へと大躍進、民進党は蓮舫が東京都を参議院選挙区としながら7議席から5議席に減らして、同じ女性対決でありながら、蓮舫効果をプラスに向けることができず、その敗北の責任を取って幹事長の野田佳彦が辞任、求心力の低下を招いて新体制に向けた人事に行き詰まり、2017年9月1日に1年足らずで辞任することとなった。
これが蓮舫と小池百合子との最初の対決である。
話を戻すと、岡田克也の不出馬表明後の2016年8月23日に代表戦に名乗りを挙げていた、当時代表代行だった蓮舫が日本外国特派員協会で記者会見し、代表の岡田克也を評して次のように発言している。
蓮舫「あとは民進党のイメージを思いっきり、私が代表にさせていただくことで変えたいと思います。ここが大事なので、是非編集しないで頂きたいんですが、私は岡田克也代表が大好きです。ただ、1年半一緒にいて本当につまらない男だと思います。人間はユニークが大事です。私にはそれがあると思います。是非、皆さんのご支援頂ければ、このあと是非、質疑応答で議論させてください。ありがとうございました」
要するに岡田克也の党代表としての政治行動全般に亘って見るべき価値がなかったと、その役柄を否定している。決して政治という場を離れた一個人に対する評価ではない。民進党のイメージを高めたわけでもなく、対与党政策論争、あるいは自らの政策展望等の党運営に関して非常に平凡で、見るべき独自性がなかった。だが、私が代表になったら、民進党のイメージを大きく変えることができ、全てに他にはない独自性(=ユニークさ)を発揮すると強気の発言を見せたのである。
当然、蓮舫も政治家の端くれ、"政治は結果責任"をしっかりと頭に置き、道理としていただろうから、党運営に相当に確固たる自信を持っていたはずである。
但し岡田克也が民進党代表時、蓮舫はナンバー2の代表代行を務めていて、政治がチームワークである以上、トップがチームを満足に統率できず、見るべき党運営ができなかった責任を第一に負うものの、他の成員それぞれが"結果責任"を連帯して負わなければならないはずだが、蓮舫は「本当につまらない男だ」と岡田克也一人の責任に帰した。
蓮舫はこの矛盾に何も気づいていなかったことになる。つまり公平な判断が満足に働かず、自分だけを正しい場所に置く自己中心(自己正当化バイアス)に陥っていた。
蓮舫の記者会見での発言が問題視されると蓮舫は自身のツイッターで、「岡田代表への敬意を表しました。その上で、ユーモアのない真面目さを現場で伝えたかったのです」と釈明している。
岡田克也は辞任前のまだ代表であり、蓮舫は代表代行、いわば立場の上の人間を掴まえて、「本当につまらない男」と言ったのは仕事上の能力に対する否定的評価として使った言葉ではなく、敬意を表した言葉であって、意図としては「ユーモアのない真面目さ」を指摘したと真意を説明した。
だが、どこの世界に「本当につまらない男」と言われて、俺は敬意を示されたのだと受け止める人間がいると言うのだろうか。いるはずはないのだから、「本当につまらない男」との評価を敬意表明の言葉とするには道理を無視し、自分の都合のよいように釈明する無理矢理なこじつけ、牽強付会なくして成り立たせることはできない。蓮舫にはそれが自然にできた。
勿論、牽強付会を行うについては小賢しさや狡さといった性格的要素を欠かすことはできない。小賢しさ、あるいは狡さゆえに間違ったことを言っても、素直に認めることができずに無理矢理にこじつけて、間違いを隠して正しいことに持っていってしまう。素直な感覚の持ち主なら、「失言でした。小賢しさ、あるいは自分を正しくみせる狡さが先に立ってしまいました」と素直に謝って修正するだろうが、そんな気配は見せることはなかった。
政権与党自民党の閣僚が自身の不祥事やスキャンダルで国会追及されても、あれやこれやと言葉を使い分けて自身を正当化して逃げるのと殆ど変わらない。蓮舫はそのことに気づいていない。
自身の言葉は自らの性根の現れでもあるから、言葉の正当化は自らの性根の正当化をも意味することになる。常識や妥当性を無視した言葉の正当化はその無視をそのまま背負った性根の正当化に反映されるというメカニズムを取ることになって、否応もなしに小賢しさや狡さを性根として付き纏わせることになる。
但し周囲からその小賢しさや狡さを指摘されたとしても、常識や妥当性を無視した言葉の正当化という態度自体が自己正当化バイアスの現れであるから、その心理が強過ぎると、その指摘をも悪意に取り、気持ちを安定させるために自身の正当化に一層努めることになるか、周囲から自分に味方してくれる人間を探し出して、味方の言葉を利用して自己正当化の補強を図るなどして、ますます自分は正しいんだという思いを強くすることで自己正当化バイアスの殻に閉じこもることになる。
蓮舫がそうであるかどうかを見ていくことにする。都議選敗北から約1ヶ月近く後の2017年7月27日に辞任記者を開くことになった。「産経ニュース」記事からその「発言」を見てみる。
辞任を臨時の執行役員会で了承されたことを伝えてから、辞任の理由を述べている。
蓮舫「どうすれば遠心力を求心力に変えることができるのか。力強く、私たちがしっかりと皆さんに託していただける民進党であれと国民の皆様方に思っていただけるのか。そのとき、やっぱり考えたのは、人事ではなくて、私自身をもう一度見つめ直さなければいけないと思いました」
なぜこうも抽象的で巧みな発言ができるのだろうか。民進党代表任期3年を当初50%もあった期待を裏切ることになり、約1年で退くことになった、代表としての力不足への謝罪を最初に直接的に持ってくるのではなく、巧みな言い回しでその力不足を直接的にはぼかす細工を施している。
この"ぼかし"は日本外国特派員協会の記者会見で見せた、「民進党のイメージを思いっきり変えたい」、「人間はユニークが大事です。私にはそれがあると思います」の言葉の発信に付き纏わせなければならない"政治は結果責任"を痛切に自覚していないからこそできる"ぼかし"であって、結果としてウソとなる大口を叩いたことになるが、このことの自覚も共々にないことになる。
僅かでも自覚があれば、最低限、"政治は結果責任"の文脈を用いて、「1年しか持たなかったのは恥ずかしいです」と自分から正直に謝罪し、ぼかすことのない言葉の使い方で自分の責任を語るはずである。記者からの質問で責任を話ざるを得なくなって話すのでは自覚不足は変わらず、このような無自覚は自分のどこかで自分は正しいとする自己正当化バイアスの働きなくして発生させることはできない。
蓮舫「(行政監視という攻めの部分に関しての成果を請け合った上で)ただ一方で、攻めと受け。この受けの部分に私は力を十分に出せませんでした。率直に認め、今回私が手を着けるのは人事ではない。いったん引いて、より強い『受け』になる民進党を新たな執行部に率いてもらう。これが最善の策だ。民進党のためでもない。私のためでもない。国家の民主主義のために、国民の選択肢の先である二大政党制の民進党として、それをつくり直すことが国民のためになるという判断だと、是非ご理解をいただきたいと思います」――
言ってることが最初から破綻している。第一歩として辞任は民進党のためであるとしなければならない。民進党が勢力を拡大しなければ、次の光景、民進党が目指す「国家の民主主義」も、民進党主体の「二大政党制」も実現し得ない。如何に論理的思考力を欠いているか、合理的思考力を欠いているか、自ら証明している。
新しい執行部へのバトンタッチを「民進党のイメージを思いっきり変えたい」と言ってできなかった程度のリーダーシップに反して「民進党のためでもない。私のためでもない。国家の民主主義のために」云々と美しい言葉で仕立て上げているが、政権を率いて国家を運営するわけではなく、貧弱な党を建て直すだけという話に大層な言葉遣いで高邁な話に持っていこうとする。
結局のところ、1年足らずの代表辞任という結末(=果たせなかった"政治は結果責任")を隠す大袈裟に格調を持たせた言い回しであって、最後の最後まで自分を実質以上に見せようとする虚栄心を働かせている。ここからは政治家として表に現れる行為・行動に対して正直であろうとする姿は見えてこない。
蓮舫は「攻めと受け」の"攻め"に行政監視を置いているが(実際の発言は「私たち、言えるのは、攻めの部分は、しっかりと行政監視をしてきました」)、これは狭い解釈でしかなく、実質的には政党としての対外発信力を言うはずである。代表蓮舫の統率力(リーダーシップ)のもと政府与党政治に対する自党政治の国民にとっての利益性の訴え、権力監視(一つに行政監視)の国民にとっての利益性の訴え、国民有権者に対してどのような社会階層の利益を主として代表しているのかの党の存在理由の訴えなどとそれらの訴えに基づいた各理解の獲得と、最終結果としての党支持率の獲得を目的とした諸々の情報発信活動のことであって、サッカーやラグビーの試合で言うなら、全体的な攻撃の部分に当たる。
当然、「攻めの部分は、しっかりと行政監視をしてきました」は一つの成果に過ぎず、攻めの全体の成果とするにはマヤカシそのものとなる。
"受け"は政府与党や他野党、あるいは不支持の立場にある国民の自党の存在に向けた否定的考えに対抗して改めて自らの存在理由の正当性を主張・証明する情報闘争を指すはずで、サッカーやラグビーの試合での全体的な守備の部分に当たるが、守備と言えども攻撃の側面を抱えていて、攻撃と守備がうまく噛み合わないと、勝利に向けたチームの存在(党の存在)が成り立たないから、当然、"攻め"と"受け"は相互補完的な一体性を持たせた車の両輪の関係で機能することが求められる。片方のみの機能であったなら、党の存在意義を獲得できはしない。
だが、蓮舫は"攻め"と"受け"を別個扱いとし、"受け"には力を発揮できなかったが、"攻め"にはあたかも力が発揮できたかのようなニュアンスの言葉遣いをしている。"攻め"に力を発揮できていたなら、なぜ都議選で敗北を喫することになったのだろう。
結局のところ、攻めの部分に当てている行政監視の成果は民進党の存在理由をより多くの国民に認知させる全体的な成果となる攻めとはなっていなかったということであって、だからこその1年足らずの辞任であり、蓮舫の合理的認識能力を欠いた自己正当化バイアスが言わせている部分的成果に過ぎないということであろう。
大体が蓮舫本人が自覚しているとおりに統率力が不足していたなら、"攻め"も"受け"も、満足に機能することも、機能させることもできたはずはない。その結果の一つが東京都を選挙地盤としていながらの都議選の敗北ということであるはずだ。
"攻め"の部分として国民の関心を行政監視以上に集める機会も多く、注目度が高いのは首相、あるいは閣僚の不祥事や内閣の政策自体に対する国会の場での追及であるはずだが、特に蓮舫は攻撃的な言葉で激しく追及するものの、殆を最後まで追及しきれずに、尻切れトンボの不完全燃焼で終わらせている。終わらせていなければ、安倍晋三の権力の私物化やアベノミクスが経済格差に役立ったのみで、国民の大多数を占める中低所得層の生活を苦しめることになった政治利益の偏りなどで追い詰めることができ、結果的に安倍晋三を7年8ヶ月も権力の座に居座らせることはなかったろう。
この国会追及の不完全燃焼の格好の事例として次回、2024年3月14日の参議院政倫審での世耕弘成に対する追及に関連して取り上げてみる。
要するに国会追及という"攻め"の大きな見せ場でもある権力監視の大部分を未消化のまま推移させ、満足に機能させることができなかったにも関わらず、マスコミが「厳しく追及した」と報じるのを見るだけで満足したのだろう。だが、多くの国民は騙されることも自らを騙すこともしなかったから、野党に対して「批判ばかり」というレッテルを貼るに至った。「批判ばかり」というレッテルそのものが追及の程度を物語っている。立憲民主党は「批判ばかり」がどのような能力に向けられた名付けなのか気づかず、「批判ばかりではない、政府法案に対して対案も出している、独自法案も出している」と見当違いだと気づかない答を出している。結果、追及部分に見せる批判行為だけを印象に残し、いつまで経っても「批判ばかり」と言い続けられることになる。
蓮舫の辞任記者会見での発言は代表として発揮すべき役目である"攻め"という能力でも、"受け"という能力でも、実際には統率力不足(=リーダーシップ不足)が足枷となって不発状態で推移させているのだから、そのことを言葉の上では可能な限り綺麗事化し、自己正当化バイアスの網にかけ、自身が負う傷を傷と見せない巧妙なカムフラージュを施したといったところである。このことは応分な責任負担の回避に当たるのは断るまでもない。
蓮舫の言葉の巧みさは強度な自己正当化バイアスが積み上げていくことになった、その見事な作品と言うことができるはずだ。
以下、《蓮舫を叩く:女だからではない、・・・》――は続く。