江戸時代の妻からの離縁状は「女性の地位」の見直しを迫る資料なのだろうか

2009-11-24 10:54:01 | Weblog

 新潟県十日町市の十日町情報館で江戸時代では珍しい妻から夫に宛てた離縁状が公開されているというニュースをNHKが流していたのでインターネット記事で調べてみた。

 《江戸時代の妻の離縁状 公開》NHK/09年11月22日 8時55分)

 1856年、江戸時代末期の安政3年に書かれた「離縁状」の写しで、〈婿養子の夫が病気になり、婿としてのつとめが果たせなくなったので、結婚と養子縁組の両方を解消することや、慰謝料として夫に金100両を渡したことが書かれ、差出人の筆頭には妻の「ふじ」という名が〉記載されているが、〈離縁状は当時、「三くだり半」とも呼ばれ、江戸時代の幕府の法律では夫が書くものと定められていて、離縁状を研究している専修大学法学部の高木侃(ただし)教授は「妻からの離縁状が見つかったのは初めてで大変貴重だ」と話してい〉るという。
 
 「十日町情報館」の高橋由美子学芸員の談話。

 「とても珍しいものだとわかり驚いている。江戸時代は男尊女卑の社会といわれるが、女性の意向も大きかったことがうかがえる有意義な史料だと思う」

 同じ事柄を扱った「YOMIURI ONLINE」記事――《江戸期史料で初 妻からの離縁状、高木・専修大教授が確認…新潟・十日町》(2009年11月17日)に離縁状を研究しているという専修大学法学部の高木侃(ただし)教授(日本法制史・家族史)の話として、〈江戸時代の幕府の法律では、離縁状は夫が書くとされ、妻本人が書いたものが見つかったのは全国初〉だと「NHK」記事と同じように伝えている。

 高木教授「男尊女卑社会と見なされた江戸時代においても、庶民の夫婦関係、家族関係は多様であったことが分かる。家族史・女性史の研究上、画期的な内容」

 「これまで青森から長崎県まで、約1200点の離縁状を見てきたが、妻が書いたものはなかった。越後は、女性が尊重されていた特殊な地域なのかもしれない

 記事自体の解説

 〈離縁状は、江戸時代、夫が妻を離縁するときに、理由を書いて渡す証明書で、俗に「三下り半」とも呼ばれた。離縁状の授受がなければ離婚は成立せず、再婚できなかった。婿養子の場合、妻の父などが書いたケースはあったが、妻本人が書いたものはなかったという。

 離縁状の形式は旧貝野村安養寺(現十日町市安養寺)の重右衛門家の娘・ふじから婿養子となっていた旧川治村(現同市川治地区)の萬平宛てとなっていて、差出人はふじ側の関係者の連名となっていて、筆頭にふじの名前記されていたという。

 次に文面だが、〈「離縁状のこと」と題され、萬平が2年前に婿養子となり、当主としての役割を務めてきたが、病気で婿養子としての役割が果たせなくなったことから関係者で協議の上、離縁した――との経緯が書かれている。

 続いて、「是迄同人取り計らい方において、いささか申し分これなく、これにより離別の験(しるし)として金子百両相渡し候」(これまで当家の婿養子としての行いは申し分なく、よくやってくれましたので、離別の慰謝料として金百両を渡しました)とある。当時は離別を申し出た方が慰謝料を払うことになっており、文面からも、妻の意向によるものであることが分かるという。〉云々――

 この全国初発見だという妻から夫に向けた離縁状(=三行半)に対して夫である萬平から妻に向けた離縁状も存在していて、セットで保管されているとのこと。この件に関する高木教授の見解。

 「法的に離婚を成立させるために、ふじの希望を受けて書いた(ものではないか)」――

 高木教授の江戸時代の女性の地位についての言及は「47NEWS」では次のように紹介している。

 「江戸期の女性の地位について見直しを迫る、画期的な内容」――

 江戸時代の〈庶民の離婚は嫁入り・婿入りを問わず夫から妻への離縁状の交付を要し、これにより両者とも再婚が可能となった〉と『日本史広辞典』(三省堂)が書いている。(一部抜粋)

 つまり妻ふじから夫萬平に向けた離縁状は法的効力を持たなかった。法的効力を持たなかったために正式な離婚に至らないことから、夫萬平からの離縁状の必要が生じた。いわば法的離婚成立の要件としての不可欠な形式だったことになる。

 ここで疑問が一つ生じる。夫である萬平から妻ふじに向けた離縁状のみで「法的」な離婚は用を足したはずだから、わざわざ妻ふじから夫萬平に向けた法的効力を持たない離縁状は必要としなかったはずで、法的効力なしにも関わらず妻ふじから夫萬平に向けた離縁状を書く手間を取ったのだろう。妻ふじが望んだ離縁である手前離別を申し出た方が慰謝料を払うことになっていたとしたとしても、100両は内々に渡せば済んだはずである。

 妻ふじから夫萬平に向けた離縁状の差出人が妻ふじを差出人筆頭者とし、ふじ側の関係者の連名となっていたということも、法的効力を持たない離縁状だという観点から言うと、この連名形式は仰々しくさえ見える。

 なぜ妻ふじから夫萬平に向けた離縁状を法的効力を備えるわけでもないのに必要としたのだろう。

 唯一考え得る答は、妻ふじから夫萬平に向けて申し立てた離縁だとする証明を必要としたからではないだろうか。法的に成立可能だとして夫である萬平を差出人とした妻ふじに向けた離縁状のみでは、法的成立は満たすことができたとしても、事情を知っている者はいざ知らず、事情を知らない世間は妻ふじが夫萬平から離縁を申し立てられた、いわば三行半を突きつけられたと取り、世間体に関わる。実際は妻ふじから夫萬平に突きつけた三行半だと世間に知らしめる証拠として残しておくために妻ふじからの離縁状を用意した。

 だから、法的効力を持たなくても、連名という仰々しい形式を必要とし、家族一同の、あるいはもっと大袈裟に一族一同の意志であることを示した。

 と言うことなら、実体は妻ふじからの離縁の申し立てだったが、夫萬平からの離縁状はあくまでも「法的に離婚を成立させるために」夫萬平に書かせた形式的離縁状だったと言うことになる。

 形式的に書かせるこの力関係と100両もの慰謝料を出すことができた資金力を併せて考えると、妻ふじの実家は相当に世間体を重んじる地域の財産家だったことが分かる。財産家ということなら、地域に於ける有力者でもあったろう。

 ここから窺えるのは両者間の力関係である。夫萬平が婿養子であったとしても、萬平の実家が妻ふじの家よりも財産家で社会的地位も高かったなら、上下の身分関係がうるさかった封建制度の江戸時代のことだから、夫がいくら「病気で婿養子としての役割が果たせなくなった」としても、妻のふじにしても、その家族にしても我慢を強いられたに違いない。

 当時は本人同士の結婚ではなく、家同士の結婚であり、家の意向が常に反映されたからだ。

 「YOMIURI ONLINE」記事が紹介している、〈婿養子の場合、妻の父などが書いたケースはあった〉〉とする高木教授の見解も家同士の結婚であることを証拠立てている。

 何よりも慰謝料として10両や20両ではない、100両もの大金を出したこと自体が、妻ふじと夫萬平との夫婦間の力関係を超えて両家の力関係(金力の差)が前者が上に位置していることを証明している。妻ふじから申し立てた離縁状を書いたこと自体も、双方の力関係の優位性がどちらにあるかを示しているはずである。

 また家と家との結婚だったことを考慮すると、江戸時代が男尊女卑の権威主義社会であったことに反して妻ふじから夫萬平に向けて離縁を申し立てることができた上位性は、事実備えていたとしても、ふじの実家が萬平の実家に持つ上位性の借り着だった可能性が生じる。実家の持つ上位性が娘のふじに反映した婿養子の満平に対する上位性だということである。

 当時の結婚が家同士の結婚であると同時に江戸時代は家長(一家の長)が家族員に対して絶対的・権威主義的な支配権を有していた社会だったのだから、妻ふじの実家が財産家で地域の有力者ということなら、家長のその絶対的・権威主義的な支配権は娘ふじに対しても相当に強く影響していたであろう。

 いわば「病気で婿養子としての役割が果たせなくなった」、離縁して新しい婿を取った方が家の利益になる、娘にもいいことだという否応もなしの“家長(=親)の意向”が働いて、それを娘の意向とさせ、「法的に離婚を成立させるために」夫萬平に離縁状を書かせる一方で、実体は妻ふじからの離縁の申し立てだと世間体を守るために妻ふじから夫萬平に差出した離縁状を書かせた。

 妻ふじから申し立てた離縁状の形式を取るために差出人の筆頭に妻ふじを据えてはいるが、以下ふじ側の関係者の連名となっているのは江戸時代の家父長制から見て2番目は家長の名前が書いてあるはずだが、この連名を用いたことは後見的意味合いからの連名ではなく、まさに家父長制度の影響を受けて家長の意向の存在を示す意味合いの連名であったと考えることができる。

 このように見てくると、例え妻ふじの意向が少しは混じっていたとしても、家にまで及んでいたその時代の封建的な権威主義を担った家長の絶対的・権威主義的支配権が娘とその婿養子に強制し、仕組んだ離縁とそれを成立させると同時に世間体を守るために妻ふじと娘婿満平にそれぞれ書かせた離縁状であって、江戸時代の男尊女卑の風習に反した女性主導の離縁ではないという解釈となる。

 この解釈からすると、「NHK」記事にあった 「十日町情報館」の高橋由美子学芸員の談話である、「江戸時代は男尊女卑の社会といわれるが、女性の意向も大きかったことがうかがえる」にしても、「YOMIURI ONLINE」記事にある、高木教授の「男尊女卑社会と見なされた江戸時代においても、庶民の夫婦関係、家族関係は多様であったことが分かる」にしても、 「越後は、女性が尊重されていた特殊な地域なのかもしれない」にしても、あるいは「47NEWS」「江戸期の女性の地位について見直しを迫る、画期的な内容」なる発言にしても、間違った解釈に貶めることになるが、専門に研究している情報館の学芸員や大学の先生だから、間違いのない分析・指摘であって、私の解釈こそが的外れなのかもしれない。

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