尾木直樹朝日新聞出張授業:イジメ被害者・加害者、不登校児童を頭に置かないイジメ問題出張授業成功の逆説

2025-01-01 10:42:36 | 教育
Kindle出版電子書籍「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

 朝日新聞社運営の本の情報サイト「好書好日」に本の著者が学校を訪ねて特別授業をする、新聞社主催の「オーサー・ビジット」を教育評論家尾木直樹が行なった記事が載せられていた。2019年2月20日の記事である。記事自体は5年以上も前のものであるが、取り上げているイジメは現在と同様、その当時にしても目の前の問題であり続けていたはずで、決して古い話題ではない。

 2019年まではイジメ認知件数は増加基調にあった。2020年のイジメ認知件数減少はコロナ禍での臨時休校や学校行事の休止、部活動の制限等、子ども同士の接触機会減少の反映とされているが、翌年から再び増加傾向に戻ったのだから、2019年の時点で不明のことだったとしても、それまでの増加基調を見据えて、イジメの抑制をどう図るかを意識に置いた授業となっていなければならない。

 果たしてそういった授業となっているかどうかはイジメの抑制に人気教育評論家として一人奮闘する人物としての期待に違わぬ活躍を子どもたちを前にして見せてくれるに違いない。

 記事ライターは岡沢香寿美氏。

 《いじめをなくす3つの「しぐさ」試してみてね 教育評論家・尾木直樹さん@神奈川・横浜市立川上北小学校》

 訪問先は横浜市立川上北小学校。体育館で行なったと言うから、断りはないが、全校生徒を集めたのだろう。最初に記事ライターが特別授業の感想を述べている。

 〈友達をなぜいじめるんだろう。「心の中に、いじめをしてしまう自分がいるの」「まずは自分の命を徹底的に大事にして」――。心を温かく包み込むような尾木ママの言葉に、子どもたちは熱心に耳を傾けていた。〉――

 尾木直樹は子どもたちから熱心に耳を傾けられた。教育者としての思い遣りを伴った言葉の発信の点で優れているからだろう。だが、子どもたちがそうできる心境にあったことを条件としている点は忘れてはならない。

 以下、記事が伝える授業内容をシナリオ風に書き改めてみる。

 尾木直樹、体育館に登場。
 子どもたち(歓声を上げる)「尾木ママー!」
 尾木直樹、例の笑顔で、「はーい!」(記事では「茶目っ気たっぷりの笑顔で」となっている)
 尾木直樹、児童たちの間に入って、「頭じゃなくて心を使って、心から心に伝えるお話をしますね」

 要するに子ども目線に立ち、子どもが理解ができて、その心に響く、つまりその場限りではない、いつまでも胸に残る思いやりある言葉の発信を約束した。子どもにその体と心の健康を願いながらクリスマスプレゼントを届けてまわるサンタさんみたいな心境を想像してみた。    

 事前のアンケートで、みんなの悩みを聞き取っていたという。友人関係、勉強、家族等の様々な悩みの中で、〈尾木さんが特に気になっていたのは「いじめ」に関するものだ。〉と解説している。

 要するに出張授業のテーマはイジメ問題と言うことになる。尾木直樹の中で学校でのイジメ問題が専門分野中の最たる専門分野だからごくごく当然なことなのだろう。

 尾木直樹、子どもたちにマイクを向けて、「いじめられちゃう、いじめちゃう、どちらの悩みもあったの。どんなときに悪口を言いたくなる?」
 男の子「むかついたとき!」
 尾木直樹「ではムカムカ、イライラ感情の正体は一体何でしょう?」
 子どもたち、一斉に「ストレス!」
 尾木直樹「いじめの原因の70%はストレスといわれています。ストレスがたまっていじめたくなるのは人間的な感情なんです」
 解説「いじめる子だけが特別なわけじゃないのだ」
 尾木直樹「心の中に、いじめをしてしまう自分がいるの。誰もがいじめたり、いじめられたりする可能性がある、全員の問題。みんなで考えなければいけないわね。
 でもそれを乗り越える智恵と賢さを、みんな持っているはずよ。ストレスをため込まないためには?」、
 子ども「ポジティブシンキング!」
 子ども「叫ぶ」
 子ども「運動する」
 子ども「ずっと笑ってる!」(大笑いが起きる)
 尾木直樹「笑いは力ね。みんなが笑っている楽しい学校になればストレスが消えて、いじめが生まれる土台がなくなるわ」
 尾木直樹、ある小学校でとり入れられている3つの「しぐさ」を紹介。 
 ①あいさつしぐさ。あいさつを交わすと、気持ちがいいでしょ。無視しちゃだめよ。
 ②仲良ししぐさ。一人でいる子には、一緒に遊ぼうと、声をかけてあげて。
 ③手伝いしぐさ。例えば、体調の悪い子がいたら、保健室に付き添ってあげるの

 解説「尾木さんの言葉がみんなの中に染み込んで行くようだ」
 尾木直樹「週に一回、友だちに言われてうれしかった言葉を学級会で発表して書き出してみて。その言葉が飛び交うような学校にしましょう。児童会で楽しいことをたくさん企画してやってみるのもいいわ。みなさん一人一人が学校の主人公。先生や保護者、地域の人たちは応援団なのよ」
 解説「でも、嫌なことをする子はいる。どうすればいいの?」
 尾木直樹「みんな、自分のことはちゃんと見ているかしら?自分の嫌なところはどこかな? その弱点をひっくり返して良いほうに捉えたらどう見えるか、1分間で考えてみましょう」

 解説によると、この課題は枠組みを変えて物事を見る“リフレーミング”という手法だそうだ。要するに良い方向へと発想の転換を試みる。

 女の子「声がでかいところが嫌だ」
 尾木直樹「あら、とっても素敵な声よ。歌手になれそう。良いほうから捉えたらどう見える?」
 女の子、笑顔になって「私の発言をみんなが聞きやすい」
 一人の子「提出物をすぐ忘れちゃう」→発想の転換→「ほかの楽しいことをたくさん考えている」
 一人の子「無口」→発想の転換→「よく考えている」
 一人の子「自分勝手」→発想の転換→「自分の意見をきちんと言える」。
 解説「みんなの短所が、キラキラ光って見える」
 男の子「すぐに人の悪口を言っちゃう」→発想の転換→「友だちのことをよく見ている」
 尾木直樹「今度は友だちの良いところを見て、ほめ言葉を贈ってあげましょうね」
 男の子、にっこりと頷く。
 最後に――

 尾木直樹「まずは自分の命を徹底的に大事にして。それと同じように、友だちの命も大事にしてくださいね。自分を大切にできないと、友だちも大切にできませんよ」(以上――)

 岡沢香寿美氏は記事の最後で、尾木直樹がみんなに伝えたかったのは自己肯定の大切さだと解説している。
 「リフレーミング」という言葉の意味自体が自己肯定の側面を抱えている。欠点を長所として発想を転換する。長所の確認は自己肯定の素材とすることができる。

 だが、事はそう簡単ではない。深刻なイジメを受けている子や登校することに激しい拒絶反応に見舞われている不登校児童は自己否定の気持ちが先に立つことになり、それを自己肯定へと転換する心の余裕はなかなか持てない。簡単に余裕を持てるようなら、イジメで不登校となることも、自殺することも減少するはずだが、現実は逆の状況にある。

 結果、イジメは常に目の前の問題であり続ける状況に変わらないことになる。教育者も教師も、この現実と正面から向き合って、イジメ問題に取り組まなければならない。

 取り組んでいるなら、尾木直樹の「オーサー・ビジット」授業自体がほのぼのとした親和的な教育空間を描き出していたとしても、何ら障害はない。但し「頭じゃなくて心を使って、心から心に伝えるお話をしますね」と言ったとおりの約束を果たすことができたとしたら、やはりそうできた条件というものを考えなければならない。無条件で成立する企てなど滅多に存在しない。

 いくら高名な上にマスコミに引っ張り凧の人気教育評論家であったとしても、子ども目線に立ち、子どもが理解ができて、その心に響く思い遣りのある言葉を届けることができたとしたら、そうできる条件を初歩的には児童側が抱えていたからからだろう。

 なぜなら、現実にイジメに苦しんでいる児童や登校したくても、登校できない児童等を尾木直樹自身の視野から除外した授業になっているからである。

 この上なく優れた教育評論家を前にして大変失礼なことかもしれないが、尾木直樹の授業からはイジメで苦しんでいる児童は、全員出席の建前となっているだろうから、そこに出席していたとしても、その姿を見据えた言葉の発信は記事からは見えてこないし、大勢の中に何人かは存在することを想定した発言にしても窺うことはできない。

 さらにその場にはいない不登校児童の姿を頭に置いた言葉にしても見当たらない授業となっている。イジメが原因で不登校になる例もあるのだから、児童の悩みを事前にアンケートで取っていて、特に気になっていたのは「いじめ」に関するものとしている以上、イジメ自体が存在し、このことに対応してイジメ問題を出張授業で取り扱う関係上、学校に対してもイジメ認知件数や不登校児童数、その事例内容等の聞き取りを行なっていはずで、イジメ被害者やイジメ加害者、不登校児童の存在までを含めた"リフレーミング"を可能とする言葉の発信が見られていいはずだが、影さえも見せていないのは聞き取りをしていなかったか、聞き取りはしてはいたが、そこまで頭が回らなかった、いずれかと見なければならない。

 何度でも言うが、イジメは常に目の前の問題であり続けていて、その現実を見据えた主張授業でなければ、解説者が言う、〈尾木さんが特に気になっていたのは「いじめ」に関するものだ。〉は表面的な態度に過ぎなくなるし、「心を温かく包み込むような尾木ママの言葉に、子どもたちは熱心に耳を傾けていた」の授業評価はイジメや不登校とは無関係の場所で成立する買いかぶりに過ぎないことになる

 もしイジメを目の前の問題としていたなら、「自分の命を徹底的に大事にして。それと同じように、友だちの命も大事にしてくださいね」は体育館に集まった児童に向けた言い諭しであると同時に中に混じっているかもしれないイジメ被害者やイジメ加害者の存在、登校したくても、登校できないでいる、体育館には出席していない不登校児童の存在にも目を向けた言い諭しであることが理解できる言葉遣いが必要だが、その影形も見えない。

 イジメ問題を授業のテーマとする以上、気づくべきその必要性に気づいていたなら、ただ単に「命を大事に」と言うだけではなく、どうすることが大事にすることになるのか、そこまで踏み込んで理解を求める言い諭しがあって然るべきだが、言うだけで終えているのはオーサー・ビジットを引き受けた責任を果たしているようで、実際は果していないことになる。

 命とは、その人なりに生きている姿のことを言い、自分が自分なりに生きている姿が自分の命であって、他者が他者なりに生きている姿が他者の命であると言うこと、他者の命を大事にするとはその人なりに生きている姿をバカにしたり、笑ったりしない、最大限、その人なりの生き方に任せる、いわばその人なりを邪魔する干渉を避けることを言い、逆に相手のその人なりの命を示す、その人なりの生き方に任せることができない最悪の干渉がイジメであり、相手の命を粗末にしていることになると言い諭すことができたろう。
 
だが、何もできていない。

 イジメの抑止を"リフレーミング"の思考訓練を用いて試みるとするなら、誰かに向かって激しい怒りの感情やバカにする感情に襲われると、自身を省みる精神的余裕を失い、このこと自体がストレスを負荷状態に持っていくことになって、これらの感情を爆発させてイジメに走ってしまうこともありうるということを前置きして、他人にぶっつけて晴らす感情の類いは負の感情と見て、他人にではなく、自身のスポーツとか、勉強とか、趣味とかにぶっつけて正の感情持っていく発想の転換の必要性を説かなければならないが、イジメ加害者や被害者、あるいは不登校児童までをも思い遣った「オーサー・ビジット」になっていないから、イジメの問題を扱いながら、彼らを除外してしまう中途半端を犯すことになる。

 例えこの学校では深刻な程度まで進んだイジメ被害の児童や不登校児童がゼロであったとしても、尾木直樹自身が「ストレスがたまっていじめたくなるのは人間的な感情なんです」と言い、「心の中に、いじめをしてしまう自分がいるの。誰もがいじめたり、いじめられたりする可能性がある、全員の問題」だと指摘している以上、軽い程度から深刻な程度へと進まない保証はどこにもないことになり、尾木直樹自身がイジメの存在自体を、あるいはイジメられている生徒の存在自体を想定した授業、あるいはイジメによって不登校を誘発する事例をも鑑みた授業となっていなければ、自らの指摘を自分で口先だけの物言いに貶めるていることになる。

 尤も八方美人的なところがあるから、自らの言葉を貶めたとしても、平気でいられるに違いない。

 大体が尾木直樹の問い掛けに積極的に手を挙げ、積極的に発言できる児童はこれといったストレスからも、イジメや不登校からも離れた場所に立っているからこそできる意思表示だろうから、そのような意思表示のみを以ってリフレーミングの思考訓練が成立した授業とするのは安易に過ぎる。

 要するに無条件で成立する企てなど滅多に存在しないと指摘したように尾木直樹の授業に熱心に耳を傾けてくれる児童が一定多数存在したという条件に恵まれていたからこそ成立したリフレーミングの思考訓練であると条件付きの解釈を施さなければならない。

 尾木直樹が勧めている、「週に一回、友だちに言われてうれしかった言葉を学級会で発表して書き出してみる」アイディアが意味を持つのは学校生活にこれといった障害もなしに日々参加できている児童という条件がつく。

 心に深刻な悩みを抱えていて、学校生活に満足に参加できていない児童には奇麗事としか映らない確率が高いからである。ましてや、「みなさん一人一人が学校の主人公。先生や保護者、地域の人たちは応援団なのよ」はイジメられている子、不登校の子には言葉としての意味を成さない空虚な響きとしか耳に届かないだろう。

 尾木直樹のこのフレーズ、「みなさん一人一人が学校の主人公」は著作や講演、インタビュー、その他その他で頻繁に発信しているようだが、いつ頃から言い出したのか不明だが、2006年初版発行の尾木直樹著《「教育再生」を考える―子どもの命を救うために》の中でも、"子ども学校主人公論"をひとくさりしているが、この「オーサー・ビジット」の2019年2月の時点でも、子どもが学校の主人公とはなっていないし、現在に至っても、学校の主人公となっているとは言えない。

 なっていたなら、イジメも不登校も、その他の問題行動も、ごく限られた事例となるはずだからだ。要するに尾木直樹の"子ども学校主人公論"は有効な言葉の発信とはならずに奇麗事で終わっていることになる。

 もし尾木直樹がイジメ問題に関わるリフレーミング授業を行い、無事成功したと思い込んでいるとしたら、その成功の正体は屈託とは無縁の条件下にある児童が主たる相手だったからだと種明かししなければならない。

 尾木直樹の問い掛けに積極的に手を挙げ、積極的に発言できた児童はイジメや不登校からは離れた場所に立っていたからこそできた意思表示だったということである。

 イジメ被害者・加害者や不登校児童を頭に置かない出張授業だったからこそ、成功したという逆説を見逃してはならない。

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