尾木直樹のニセモノの教育者であることが分かる埼玉・三郷市立新和小学校オーサー・ビジット授業

2025-01-31 06:49:33 | 教育

 尾木直樹のオーサー・ビジットでの自己経験による、"自己決定から自立へのプロセス論"は悪臭フンプン

Kindle出版電子書籍「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

 その教育思想が学校のイジメと不登校の認知件数の著しい低下に役立ち、世の学校教師や保護者から並々ならぬ感謝と称賛を受けている人気教育評論家の尾木直樹が本の著者が学校を訪ねて特別授業をする「オーサー・ビジット」を2019年12月も行っている。

 《自己決定が自立への道 教育評論家・尾木直樹さん@埼玉・三郷市立新和小学校》(朝日新聞社運営本の情報サイト「好書好日」/2020.02.23)

 先ず次のように紹介している。

 〈文・安里麻理子 写真・首藤幹夫

 本の著者が全国各地の学校で特別授業をする朝日新聞社主催の読書推進事業「オーサー・ビジット」。「尾木ママ」としてテレビやラジオでもおなじみの教育評論家・尾木直樹さんは昨年12月に三郷市立新和小学校を訪れ、5、6年生のこころと日常に寄り添った熱い授業を展開した。(このビジットはベルマーク教育助成財団との共催です)〉云々⋯。

 この"オーサー・ビジット"が5、6年生対象だということが分かる。高学年相手だから、それなりに中身の濃い、高度な言葉の伝達だったに違いない。このことは次の言葉から認めることができる。

 〈5、6年生のこころと日常に寄り添った熱い授業を展開した。〉――

 この学校に教師として赴任している訳ではないから、生徒の日常に寄り添うことなどできない。ほんのいっときの寄り添いしかできないが、5、6年生の心に深く突き刺さる、感銘を与える言葉を発信できたから、それが心にいつまでも刻み込まれて、その言葉と共に生きることになる結果、尾木直樹がその場に存在していなくても、いつまでも日常に寄り添っている状況を作り出していると予測できる。その予測可能性が、〈5、6年生のこころと日常に寄り添った熱い授業を展開した。〉という確信を持たせた表現とすることができたのだろう。

 この"オーサー・ビジット"は授業対象の児童に対して事前にアンケートを取る形式を採用しているらしい。そのアンケートには、〈「どうしてママになったの?」という質問が多く、それに答える形で授業は始まった。〉と、そのことを第一声として伝えている。

 〈発端は2009年の年末、明石家さんまさんの特別番組に、教育問題を語る専門家として出演したときだった。さんまさんに突然、「あんた、飲み屋のママに似てる。ママ、ママ~」と連呼され、当時、私立大学の教授も務めていた尾木さんは仰天。「やだ、まじめな研究者のイメージが崩れちゃう! 大学もクビになるかも」

 必死に阻止したものの、あたふたする様子がウケて、バラエティー番組から引っ張りだこに。「あのときの1秒でママになっちゃったの」

 ただ、そうして広く顔が知られたことにより、教育や子育てに関する専門的な話も、たくさんの人に聞いてもらえるようになったという。〉と、テレビ番組出演時の言葉遣いが、いわば"おネエキャラ"の発端となったイキサツを紹介している。

 このおネエキャラが関心の的となって、尾木直樹の教師長年勤務の経験に基づいた簡明にして子どもの成長に向けて役立つ教育論に触れるキッカケを提供することになり、その教育論が与える有用性の実感によって多くの小・中・高生、学校教師、保護者に歓迎される状況を作り出しているのだろうから、明石家さんまの貢献は日本の教育界に大きな足跡を残していることになる。

 尾木直樹はこの経験を財産として、「人生ってそんなふうに、いつ、どこで何が起きるかわからない。だから、そのときそのときを精いっぱい生きておくことが大切」という貴重な教訓を自ら手に入れることになり、その教訓を小・中・高生、学校教師、保護者に機会があるごとに伝えていて、今回のオーサー・ビジットでも伝えることになったということなのだろう。

 まさかおネエキャラだけが受けているという訳ではあるまい。

 記事がこの教訓を大学教員を含めて中学、高校と40年間の教員生活を通して、「教育現場に情熱を傾けてきた尾木さんの実感だ」と共感し、讃えているのは当然中の当然なのだろう。

 アンケートには「勉強しろと言われるとやる気をなくす」という悩みも多くあったとしている。

 尾木直樹「私も同じという人は?」
 ほぼ全員が手を挙げる。
 尾木直樹「では、後ろの保護者の方で、勉強しなさいと言ったことがない人は? あ~ら、1人もいない」
 子どもたちのニヤニヤが止まらない。

 尾木直樹「なぜ、やる気をなくすのか。答えは明確です。自分で決めたことではないから」

 解説、〈尾木さんによると、5、6年生といえば思春期に入る年頃。体も心も変化する。「自分でコントロールできなくて、イライラしたり、感情を爆発させたり。それが親子関係や友だち関係にも影響するの」〉

 尾木直樹「どんなとき、親に反抗する?」
 5年生「やりたいことがあるとき」
 尾木直樹「それが普通。だいたい勉強できる子って、親に言われなくてもやる。自らやる、これを自立といいます」

 解説、〈そうはいっても自ら勉強する子なら苦労しません! 保護者席からそんな心の声が聞こえてきそうだ。〉

 尾木直樹は自身の子ども時代のエピソードを披露する。

 尾木直樹のお母さん(学校から帰ると毎日)「直くん、今日はどんな予定なの?」
 尾木直樹「小学生に予定って聞かれてもねえ。遊びに行く、くらいしかないわよ!でも、それだけじゃまずいと思って、帰ったら勉強するって言っていた」

 〈言った以上、やらなくては。そうしないと大人のことも、「言っていることとやっていることが違うじゃないか」と批判できない。〉

 尾木直樹「今思えば毎日、自分の考えを問われていたようなもの。その上で、自分で決めさせていたんじゃないかな」

 ホワイトボードに「自立」「自己決定」と書く。

 尾木直樹「だから、何かしなさいと言われたら、自分で決める、というクセをつけるといいのよ」

 尾木直樹「どうしても言っておきたいことがある。今年、世界保健機関(WHO)が、スマホなどでのゲーム依存は病気で、程度によっては入院治療も必要だと正式認定しました。知ってた?」

 記事がネット依存の現状を紹介。

 〈ゲームだけではない。インターネットやSNSの利用も含め、全国の中高生約93万人がネット依存の疑いあり、という推計を厚生労働省が発表した。SNSを介して小学生が誘拐された事件もあった。〉――

 尾木直樹「そもそも日本は子どものスマホ利用に対する規制がゆる過ぎ!韓国や中国では政府が、未成年の深夜のオンラインゲームを禁止したくらいなのに」

 尾木直樹考案の「スマホルール7か条」

 記事は「スマホの使用は夜○時まで」と「使用・充電する場所は、リビング・ダイニングに限る」の2ヶ条の紹介のみで、尾木直樹の、「詳しくは、7つのルール 尾木ママで検索してみて」の言葉を紹介しているから、ネットで検索、「7か条」を挙げておく。

【ルール1】スマホは「親が買って契約し子どもに貸している物」ということを忘れません。
【ルール2】スマホの使用は、夜〇時までとします。
【ルール3】スマホを使用・充電する場所は、リビング・ダイニングに限ります。
【ルール4】食事中にスマホは使用しません。
【ルール5】スマホをいじらない時間に、家庭で楽しく過ごせることを考えましょう。
【ルール6】スマホによるトラブルが生じたら、すぐに親に相談します。
【ルール7】守れなかったときには、〇日間、親にスマホを返します。

 児童の反応。

 𠮷川晴翔(はると)くん(5年)は、「ゲームはやっていないけれど、依存の話がこわかった。スマホを使う時間を決めたい」
 大塚くるみさん(6年)「ニュースで誘拐事件を見ました。スマホを持ったら気をつけようと思う」

 尾木直樹は、〈時折、「テレビでは文化人枠だからギャラ安いの」など、オトナの事情を笑い話にして挟みながら、最後は「いじめ」〉問題を取り上げる。

 尾木直樹「人が嫌がっていることは今すぐやめてください。(「傍観しているだけで感覚はどんどん麻痺していく」と諭したうえで)友だちにムカムカしないですむ方法があるの」

 すぐ口を出してくるからムカつく。でも、そういう子は活発な子。態度がはっきりしないからムカつく。だけど、そういう子は慎重な子。

 尾木直樹「そんなふうに、誰かを否定したくなったら別の見方をしてほしい。だって、みんな違って当たり前。だからいいのよ」
 
 最後に役に立つという意味からだろう、自著の名前を挙げて、「図書館で借りて」と伝え、見送る子どもたちにもみくちゃにされながら校舎を後にしたと、その人気ぶりを伝えている。

 現状の子どもについて記者にか、学校教師や授業参観の保護者にか、次のような解説を伝えている。

 尾木直樹「今の小学生には大人が想像する以上の情報が入っています。そのため親が言いそうなことは分かっている、言われるとうるさく感じてしまう。それでもダメな子にしたいなら、過干渉な親になればいい。

 子どもを主体に、考える力を育てる、自己決定させる。それが大事じゃないかしら。今日の新和小の子たちだって、すでにみんな主体的でしたよ」――

 尾木直樹が最後の解説で、「子どもを主体に、考える力を育てる、自己決定させる」ことの重要性を訴え、途中で、「だいたい勉強できる子って、親に言われなくてもやる。自らやる、これを自立といいます」と自立できている子の例を挙げていることから、記事題名の一部を、「自己決定が自立への道」とするに至ったのだろう。

 尾木直樹自身が子どものときから自立に向かって歩むことができた事情を母親の教えだと子ども時代のエピソードを紹介した。このことを改めて取り上げてみる。

 母親が学校から帰ると毎日、その日の予定を聞く。遊びの予定ばかりでは済まないから、「帰ったら勉強する」と約束をした。約束を守らないと、大人の有言不実行を批判できないから、約束をしたことを守るようにした。思い返すと、母親は子どものすることは子どもに決めさせていたのであって、この経験が尾木直樹少年をして幼くからして自己決定力を育ませ、自立への歩みを促した。

 逆に子どもに自分のすることは自分で決めさせる自己決定力を育む機会を与えずにその能力を欠いた状態で、「勉強しろ」だ、「何々をしろ」だと頭ごなしに言いつけたとしても、却って「やる気をなくす」ことになり、5、6年生といえば思春期に入る年頃で、「自分でコントロールできなくて、イライラしたり、感情を爆発させたり。それが親子関係や友だち関係にも影響」して、却って子どもの成長の阻害要因となるから、いわば一にも二にもなく自分のすることは自分で決めさせる自己決定力を育む機会を最初に用意しなければならないといったことを主張している。

 但し尾木直樹が子どものときから自立できた自身の経験が事実そのものであり、その事実を決定的に活かすとしたら、一歩も二歩も踏み込んで、学校に対して、あるいは文部科学省に対して宿題の中止を申し込むべきだろう。

 なぜなら、宿題と予習や復習の自主学習とは自分のすることは自分で決めさせる自己決定という点で決定的に違うからである。宿題は決められた科目の決められた箇所を勉強させる一つの強制であって、予習や復習の自主学習は必ずしも強制とはならない。

 但し自主学習任せでは勉強したかどうか判断できないから、レポートを提出させなければならない。この提出は一見、強制に見えるが、何を予習するか、何を復習するかは自分で決める自己決定の余地を残す。宿題に対するその解き方、解答はほぼ決まっているが、レポートの内容は予習や復習の対象科目によって異なってくるし、自身の取り上げ方によっても、自己決定の要素の違いに大きく左右される。

 さらに学期が進むに応じて、あるいは学年が進むに応じて自主学習の成果が学校の成績に反映されてきたと見たなら、レポートの提出は廃止して、放課後の家での勉強は全て子どもたち自身に任せる。究極の自己選択となる自己決定となり、自立を強く動かす動機となるはずである。

 勿論、子どもの一般的な姿に持っていくまでの道のりは遠いだろうが、"自己決定から自立へのプロセス論"を振り回す以上、目指すべき目標としなければならないはずだ。

 尾木直樹は放課後、母親に約束していた「勉強」が宿題なのか、予習、復習の自主学習なのか明らかにしていない。宿題か、予習、復習の自主学習かでは自己決定という点で大きな違いがあることは既に述べた。

 その「勉強」がレポートの提出も義務付けられていない予習、復習といった自主学習の場合は自己決定の働きに役立つと確かに言えるが、レポートの提出を義務付けられた予習、復習の自主学習であった場合でも、自主学習の対象科目に何を選択するか、どういう学び方にするのか、レポートとしてどういう内容に纏めるのか、自己決定が要請される。

 それが宿題の類いだったなら、義務の履行という強制的な要素が大分占めることになって、十分な意味で自己決定の育みに役立ったとすることはできない。

 もし尾木直樹自身の「勉強」がレポートの提出も義務付けられていない予習、復習といった、するかしないかは全て自己決定に任された自主学習の類いだったなら、尾木直樹は子どもたちに自己決定の習慣を育み、自立ある存在へと向かわせるために宿題の中止にまで踏み込む主張をしていたはずだ。

 さらに言うと、日本の教育に未だ色濃く残っている暗記教育も教師が教える知識・情報を児童・生徒が自らの解釈を加えずにそのまま自分の知識・情報として受容する従属性によって成り立っている以上、知識・情報の習得に関しては自己決定権を持たず、他者の知識・情報から自立を果たしているとは言えず、このことは日本の小中高生が他国と比較して自己肯定感が低い状況と無関係ではなく(自分なりの知識・情報を持つことができていたなら、自己肯定感は高くなるはず)、宿題や予習、復習の自主学習が暗記教育の影響下にあるとしたら、自己決定や自立に大きく関係することになり、自己決定や自立を言うなら、暗記教育の是正にまで踏み込まなければならなかったはずだ。

 が、そこまですることはできなかった。その底の浅さは自身の自己決定の習慣づけに役立ち、それが自立の歩みの手助けになったことを自分の子どもの頃の経験に基づいた優れた出来事と印象付けて、人に伝えるための教訓としての価値を高めるために仕込んだエピソードのようにも見える。

 その教訓が、「何かしなさいと言われたら、自分で決める、というクセをつけるといい」と教える程度のことで、自己決定と自立に向けたインパクトある刺激になるとは思えない。

 なぜなら、「言われたら」何かするのは、その何かが自分で決めたことでも、何らかの従属性を纏うからであり、従属性を纏う割合に応じて主体性が損なわれるからである。自己決定と自立は極めて主体性を必要とする。

 「何かしなさい」と言われるのを待つのではなく、放課後の大まかな時間割を子どもたちそれぞれに作るように仕向ける。強制ではない。作る、作らないかは本人の主体性、自主性に任せる。時間で行動する習慣づけは計画性を養うだろうし、時間の観念の発達を促す。

 時間割を作ったらという親の指示に対して強制ではなく、本人任せとしながらも、効果を上げるためには時間で行動するよう、習慣化させる。

 例えば、「もうベッドに入りなさい、8時よ」、あるいは「もうベッドに入りなさい、9時になったでしょ」と、行動を基準に時間を付随させのではなく、「8時だから、ベッドに入る時間よ」、あるいは「9時だから、もうベッドに入りなさい」と常に時間を基準にした行動とする。あるいは時間での行動に持っていく。

 それが常態化することができたなら、放課後も、時間割での行動にさして抵抗を受けることはないだろう。

 宿題のある日はゲームとかサッカーの遊びの前にそれをするのか、遊びから帰ってからするのか。宿題のない日はその日に応じて予習・復習の自主学習を行うのか、ときには何もせずにその日は思い切り遊びのみの時間とするのか、自らの時間割の作成のもと、そういった日を設けるのも、主体性色満点の精神の解放を自ら作り出し、リフレッシュさせた自分を自ら味わうことに役立つ。

 尾木直樹が親子関係や友だち関係に悪影響を与える、ときとして爆発させてしまう、思春期特有の不安定な感情の起伏を言うんだったら、子ども自身に精神の解放日を設けさせるのも、感情の働きというものに意識を向けさせることになり、感情のコントロールの訓練ともなるだろうから、ただ思春期の精神の不安定を指摘するだけではなく、その不安定の解消はどうしたらいいかにまで踏み込むべきろう。

 放課後に何をするのかの各行動ごとの時間割を作らせることができたなら、寝る前にでも、それぞれの時間割を守れたのか、守ることができなかったのか、自己採点を求めるのもいいだろう。守ることができたなら、自信がつき、できなかったなら、反省が生まれ、自信と反省は自分のことを省みて、その善悪・是非を考える自己省察を刺激し、自己省察が自分はどんな人間なのかの存在性を少しずつ知らしめることになり、自身の存在性の把握が他者の存在性との比較、他者省察へと進み、この自分を知り、他者を知るプロセスが自分を確立していく自我確立の道へ進む基礎となる。

 このようにすることが効果があると見込めると認めるなら、学校は一斉の宿題休日を設けて、時間の活用を全て子どもに任せた放課後の時間割とすべきだろう。宿題がない代わりに自習・復習の自主学習に時間を割り振るのも自由、全て遊びの時間に割り振るのも自由、何事も自分で決めさせる。

 否でも主体性・自主性に基づいた自己決定が関わり、守れたり、守れなかったり、自信を持ったり、反省したり、その繰り返しの過程で自分という人間を考えたりする。友達はどうしているのだろうかと他者を頭に思い浮かべたり、自立の道を歩み始めることになる。

 母親が学校から帰ると毎日、その日の予定を聞いたことが自己決定の習慣づけに役立ち、自立を促したとする幼少期のエピーソードが教育評論家の教訓としての価値を高めるために仕込んだエピソードではないかという疑いは尾木直樹のスマホに関する主張からも窺うことができる。自己決定のススメを説きながら、そのススメをケロッと忘れて、「日本は子どものスマホ利用に対する規制がゆる過ぎ!韓国や中国では政府が、未成年の深夜のオンラインゲームを禁止したくらいなのに」云々と国や学校の公権力を用いて上からの規制を主張、自己決定をどこかに放り投げているからである。

 このことは当然のことと言えば、当然のことだが、尾木直樹考案の「スマホルール7か条」にも反映されている。要するにスマホの良識ある使い方をそれぞれが自ら考えて、それぞれに独自の使い方を個別決定させ、その先に自立的存在の確立を促していくのではなく、ルールを先に持ってきて、全員をそのルールに従わせて、ルール通りの子どもにはめ込もうとしている。

 決してそうはならないから、救いとなっているが、尾木直樹が言っている「何かしなさいと言われたら、自分で決める、と言うクセをつけるといいのよ」を無効とする言葉を平気で垂れ流している。

 この信用の置けない言動は、勿論、尾木直樹自身の性格の反映以外の何ものではない。オネエキャラとして用いている言葉の柔らかさ、いつも目が笑っている、その親しみの装いが目眩ましの役に立っている。

 スマホを使う時間も放課後の時間割の中に組み込ませて、自分で決めさせればいい。宿題休日時にときには放課後の全時間を使って、思う存分スマホ三昧に耽るのも、ストレスの開放に役立ち、リフレッシュして、新たな気分で通学に臨むことができるかもしれない。

 次にイジメに移る。

 「人が嫌がっていることは今すぐやめてください」
 (「傍観しているだけで感覚はどんどん麻痺していく」と諭したうえで)友だちにムカムカしないですむ方法があるの」

 要するに尾木直樹はムカムカを抑えれば、人が嫌がるイジメは避けることができると考えていることになるから、人が嫌がるイジメはムカムカが原因だと主として見ていることになる。ムカムカが原因ではない人が嫌がる、よくあるイジメについて最初に考えてみる。

 人の嫌がる様子が面白いから、からかい、それが過ぎて、イジメとなるケースがあるが、面白がっているだけで、イジメになっているとは気づかないイジメがそれに当たる。人が困る様子が面白いから、あれこれとちょっかいを出して、困らせて、面白がる、イジメているとは思いもしないイジメも多々あるはずである。

 年齢相応に成長し、自律(あるいは自立)できていないから、相手を一個の自律(あるいは自立)した個人として扱うことができない。当然、イジメも自律(あるいは自立)との関係性の中で捉えなければならない。

 だが、そうはせず、自立の必要性の中でのみ取り上げている。

 嫌がる様子、困った様子が面白いという感覚を味わうことが目的だから、"嫌がる"、"困る"は必要不可欠なステップであって、そのステップがなければ、自分、あるいは自分たちは面白がることができない。それどころか、相手が嫌がれば嫌がる程、困れば困る程、自分、あるいは自分たちは面白いという感覚を味わうことができて、満足できることになる。

 当然、こういったイジメをする相手にムカムカしないですむ方法を勧めたとしても、相手は理解できない顔をすることになるだろう。

 テレビのお笑い番組でお笑いタレントという他人が笑わせるのを眺めて面白がるのは、いくら面白いという感覚を味わうことができても、自分で作り出した面白さではないから、その番組を見ることができた程度の自己達成感しか手に入らない。

 だが、誰か友達を嫌がらせたり、困らせたりして面白がるのは自分、自分たちで作り出した面白ネタだから、面白ければ面白い程、自己達成感を手に入れることができて、自分、自分たちにとっての活躍行為となり、病みつきになるのに時間はかからない。

 病みつきになれば、人が嫌がったり、困ったりすることには無感覚となり、面白がるのがどこが悪いと、そのことだけを優先させることになる。闇バイトが他人が財産を失って困ることは考えずに自分が財産を手に入れて、オイシイ思いをすることだけを考えるようにである。

 当然、「人が嫌がっていることは今すぐやめてください」は通じない警告で終わる。

 この手のイジメに関して伝えるべき言葉は、「友達相手にしていることで、相手が面白がってもいないのに、自分、あるいは自分たちだけが面白がってしていることはないか、5分の時間を与えるから、目を閉じて、友達との間で普段していることを思い出してみて欲しい」であろう。

 5分後に、「友達相手にその友達が自分、自分たちと同じように面白がっているのでなければ、不公平なことをしていることになって、それはイジメそのものの嫌がらせ行為となる。自分、自分たちも面白がることができ、相手も面白がることができて、初めて公平な付き合いとなって、嫌がらせ行為でも、困らせ行為でもなくなる」

 この問い掛けは、この手のイジメが少なくない以上、教師が授業中に折に触れて発すべき義務事項としなければならない。こうすることが自己省察と他者省察を養う訓練となる。強がって、「面白がって、どこが悪いんだ」と反発し、殊更に面白がるために嫌がらせ行為をエスカレートさせる児童・生徒もいるだろうから、そのことを前以って予測し、「こういったことを言われて、反発し、これこれこういったことをしてしまう児童・生徒もいるかもしれないが、同じ友達付き合いをする以上、公平な付き合いとなっているか、不公平な付き合いとなっていないか、考えることだけはして欲しい」

 このように付き合いの公平・不公平を常々問い掛けることで、イジメとなっていることを自覚せずに、単に面白がるためだけのために友人に対して不公平な付き合いを強いている者をして自他を考えさせる二重三重の心理的なブレーキを掛けるよう仕向けていけば、自己省察と他者省察を作動させる可能性は捨てきれない。

 このようにお互いを考えさせることが年齢相応の成長を促し、自律(あるいは自立)への歩みを強めていく背中押しとすることができる。

 尾木直樹が「人が嫌がっていることは今すぐやめてください」と伝え、「傍観しているだけで感覚はどんどん麻痺していく」と諭し、「友だちにムカムカしないですむ方法があるの」云々の発言が示すイジメは相手に何らかの理由・原因でムカムカして、そのムカムカした感情を晴らすために相手が嫌がることをする、あるいは相手が困ることをする種類のイジメとなる。

 結果、相手にムカムカしないですむ方法の伝授ということになった。

 「すぐ口を出してくるからムカつく。でも、そういう子は活発な子。態度がはっきりしないからムカつく。だけど、そういう子は慎重な子。そんなふうに、誰かを否定したくなったら別の見方をしてほしい。だって、みんな違って当たり前。だからいいのよ」――

 言っていることは前回記事で取り上げた、尾木直樹の2019年に神奈川・横浜市立川上北小学校を訪れて行なったオーサー・ビジットでも、その効用を伝えている、物事の捉え方や枠組み(フレーム)を変えて、別の視点から見直す心理学用語だという"リフレーミング"という方法であろう。

 「誰かを否定したくなったら別の見方」への誘導は自他の省察力を刺激することになるから、自律(あるいは自立)に向かわせる有効な入口となりうる。特にちょっとしたことでムカつく人物像は他人と適度な距離を取り、自分は自分という精神の余裕が持つことが不得手な自己中心的な性格で、年相応の自律(あるいは自立)ができていないと見ることができるから、その効果は十分に予測しうる。さすが尾木大先生であると言える。

 但しムカつく原因はすぐ口を出しするとか、態度がはっきりしないということだけではなく、成績が良い、クラスの人気者だ。先生の質問に対する答をほぼ独占している。先生に気に入れられている、カネ持ちだ、いい家に住んでいる等々、他人の可能性に対する羨ましさを心理的背景として自分は逆の状況にあると見る劣等感が強いる不愉快な感情が発端であることも多いはずである。

 他人の可能性に対する羨ましさに基づいた劣等感は自身の可能性を見い出し得ていない状況下で頭をもたげやすい。可能性を見い出し得ていたなら、その可能性を伸ばすことに目を向けることになるから、他人の可能性に煩わされることは避け得る。

 となると、自身の可能性を見い出し得ていない状況下で他人の可能性に感じる羨望を見方を変えて打ち消し、受け入れることのできる可能性とするには相当に心の広さ、心の余裕が必要となるが、元々そのような心の広さ、心の余裕を見せることができたなら、他人の可能性が羨ましくなり、劣等感からムカつくなどといった負の感情を引き起こすことはないだろう。

 当然、こういった負の感情からのムカつきに対して「誰かを否定したくなったら別の見方」をする"リフレーミング"を用いたイジメの回避策よりも、目をつけるべきは学校社会に対応できる可能性の発見に力添えできる体制の構築であるはずだが、学校社会は「多様な可能性」、「可能性の多様化」等々、スローガンは立派に掲げるが、勉強の成績やスポーツの成績、文化部活動の成績等、限られた可能性にのみ光を与えて、それ以外の可能性を拾い出して光を与えることを忘れていて、学校社会で可能性を見い出し得ない子どもたちを取りこぼしている。

 だが、尾木直樹はイジメが可能性を見い出し得ているか得ていないかに深く関係することにまで踏み込むことができすに、友だちにムカムカしたら、相手に対する否定的価値観を肯定的価値観に変えなさいと、公式を当てはめさえすれば解答できる、簡単な数式の問題であるかのように片付けている。この安易さは引く手あまたの人気教育評論家にふさわしい。

 以上、三郷市立新和小学校訪問のオーサービジット授業を裁判の判決ふうに評価してみる。
 
 裁判長「判決主文、尾木直樹をニセモノの教育者だと確定する」

 尾木直樹は最後に5、6年生に自分の本を図書館から借りて読むように勧めたが、ニセモノの教育者の本を読んで役に立つとしたしたら、反面教師的な読み方ができる生徒に限るが、5、6年生でそういった読み方ができる子どもはどれ程にいるだろうか。逆に頭から信じて、考える力を麻痺させてしまったら、恐ろしいことになる。

 記事が紹介している尾木直樹の最後の発言。

 「子どもを主体に、考える力を育てる、自己決定させる。それが大事じゃないかしら。今日の新和小の子たちだって、すでにみんな主体的でしたよ」

 「すでに」の意味は、もうその状態になっていることを表し、「十分に主体的である」という意味を取る。

 だとすると、最後の発言の前段と後段を逆転させると、矛盾が浮き出てくる。「今日の新和小の子たちだって、すでにみんな主体的でしたよ。子どもを主体に、考える力を育てる、自己決定させる。それが大事じゃないかしら」

 十分に主体的であるなら、学校が主体性(自己表現、積極的な行動、自己決定力)を育む教えに取り組んでいることの成果としてあるのだから、「子どもを主体に、考える力を育てる、自己決定させる」教えが"大事だ"と指摘することは学校が既に取り組んでいることを取り組むべきだと勧めることになるからである。

 この矛盾を解消させるには次のような発言としなければならない。

 「今日の新和小の子たちは、既にみんな主体的でしたよ。子どもを主体に、考える力を育てる、自己決定させる教えが成果を上げているようね」

 大体が十分に主体的であるなら、それぞれが自分なりの意志を持って行動していることになり、その意志は理性を纏うことになり、その理性は自制心を養い、自制心は感情のコントロールを機能させることになる。

 つまり、「すでにみんな主体的」であるなら、例え誰かの行動にムカつくことがあったとしても、基本的には自らの意志と理性で自制心を働かせることができて、自制心によって自らの感情をコントロールし、悪感情を自力で修正する方向に持っていくまでに成長しているはずだから、
尾木直樹から、「友だちにムカムカしないですむ方法があるの」などと尤もらしく、"リフレーミング"を教わる他力は必要なくなる。

 と言うことは、前以ってのアンケートで「すでにみんな主体的」であるかどうかは確認できなかったために"リフレーミング"を持ち出し、コミュニケーションを取っている間に「すでにみんな主体的」であることに気づいたという手順を踏むことになったと解釈できる。

 「傍観しているだけで感覚はどんどん麻痺していく」と諭したこと自体が、当初は主体的でないと見ていたからであろう。

 もし尾木直樹が正直な教育者なら、学校側が以後の参考にできるよう、アンケートの回答に対する解釈が悪かったぐらいは伝えるべきで、伝えていたなら、記事は読者の理解に供することができるよう、その内容を紹介するはずだが、紹介していないところを見ると、何も触れていないのだろう。

 それとも、「すでにみんな主体的でしたよ」は教育者として子どもを見る目があるところを見せるカッコ付けのために、さも見抜いたようなことを言ったのだろうか。

 誰にでもいい顔を見せる八方美人だから、その可能性は否定できないが、この可能性が単なる下司の勘繰りであったとしても、記事紹介の最後の発言が矛盾していることは事実だから、この点からもニセモノの教育者だと断言できるはずだ。

 子どもの自己決定・自立を言うなら、知識・情報の習得に関して自己決定権を持たせるアンチ暗記教育の徹底をスタート地点に置かなければならない。暗記教育は上は下を従わせ、下は上に従う権威主義性を本質的な構造としていて、この権威主義性は親の子育ての時点から、「ああしなさい、こうしなさい」という、暗記教育に通じる意志の一方通行となる命令形で始まっているからである。
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蓮舫を叩く:女だからではない、自分は打たれ強いとする何様装いは事実無根の自己正当化バイアスな動画配信

2025-01-19 06:31:36 | 政治
Kindle出版電子書籍「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

 2024年7月7日投開票都知事選敗北後の2024年7月13日蓮舫インスタライブの続き。叩き甲斐のある自己正当化バイアスの宝庫と言える。

 蓮舫「私ねえ、実は私事(わたしごと)として見たら、(自身に対する攻撃・批判の類いは)『言ってれば』という勢いなんだけど、次の子たちとか、今政治家やっている子たちがここまで強くなれないと思ったときに『ああ、ダメだな』と思って。本当にやらなきゃ」

 長男村田琳「次の子が政治家になるのは関係がないと思ってるけど」

 蓮舫「私もそうだったけど、今回だけは反応が違うじゃない?女政治家負けた。何やってもいい的構図で、凄いよね」 

 長男村田琳「今、20歳とか、30歳とか40歳でこれから政治に関わりたいという――」

 蓮舫(急に笑いだし、大きなマグカップを傾けてカメラに映す)「飲んでいるの。空っぽではありません」

 長男村田琳「これからなりたいって思う子たちが叩かれると思うのは凄い嫌だなって思う」

  蓮舫「それを作っちゃった要因が私ってなるのも嫌だし、・・・・ だから、私は民間人でも声を上げる。挙げた声は残るって、・・・じゃないけど。その声は必ず誰かの力になる。あー、そうだなあ、誰かの力になれるんだったら。いいなあ。これだから恐ろしい。私だって恐ろしいと思いますよ。

 難しいねえ。私ねえ、今回、松尾あきひろさんていう知り合いで、戦っている弁護士の総支部長がいて、立憲民主党なんだけど、彼が私が演説する前に喋ってくれたんだけど、あ、こんなにクールな子が泣きながら言うんだ、という一言があって、お嬢さん小学生で、自分の娘が大人になったときにおっさんたちにね、頭を下げなくて済むよう、昭和の人たち?、そんな社会を作りたいといったときに、『あっ、こんな30代の子たちが野党から政治家になろうとしてくれている健全な民主主義ってあるんだって凄く思ったんだよね。

 あれは素敵だった。凄い素敵だった。ちゃんとこうやって自分のための声を出すってとっても大事で、こういう国を作りたい、こうしたいって言われれば、そこには自分事のこうあるから、そうされたいんだっていう演説の文化になってくれたら、多分、有権者とか国民も自分事として考えてくださるんじゃないかなあというのが今回見えた景色だった。

 (ライブ参加者に)何か私に聞きたいこととかありますか?取り敢えず強くなれないからね。人を(?)発見してくれたのは嬉しかったというのはそのとおりで、そうなの、政治って、多分、マスに対して、票を持っている人に対して、カネを持っている人に対して、力を持っている人に対して働きかけるのが自分の当選だったのが、そうじゃなくって、一人じゃないんだよっていう人に語りかけることで、こんなに熱を帯びた街頭演説の双方向ができたってのは私にとって誇りなんです。達成感なんです。

 一人にちゃんと見てるんだよっていう政治があっても、いいんだって気づいて、それに呼応してくれた人方たちが、一人スタンディングしてくれたり、一人街宣してくれたり、名前があるのに蓮舫を応援するとカミングアウトしてくれたり、これが新しい民主主義の形だったなあ、生まれたかなっていうのは、すごく私の力になった」
 
 長男村田琳「次の選挙は?」

 蓮舫「今はねえ、国政選挙を考えていない。だって、国政から卒業して、都知事に手を挙げて、凄い景色を見たんですよねえ。まあ、千人単位で聴衆が増えてくる演説会場って初めてで、2009年のときもなかったから、そうするとやっぱり毎晩帰ってきて、自分の演説をここが悪かった、ここが足りなかった、実は今でも言うんだけども、あそこの言葉がこれが足りなかったとか、演説を含めてあそこまで聞いてくださった人たちがいて、残念ながら結果を出せなかったんだったけれども、それでも120万を超える人が蓮舫と書いてくれたことに対してこれでまた国政に戻るっていうのはちょっと私の中では違う」

 長男村田琳「うん?そうなの?」

 蓮舫「だって、私からはなんか渡り鳥みたいじゃない?」

 長男村田琳「言い方は悪いけど、そういうものだと思って・・・。あの結果を見て、蓮舫にまだまだ期待をしてくれていると言うか――」

 蓮舫「あれは都知事として頑張った応援なんだから、次のステップでまた国政ですかっていう声は聞いていないんですよ、今回。自分の中で整理をつけなければいけないと思ってて、一旦ピリオドだなって思うんだよなあ。

 結果が出せなかったし、もう一度経験しての声があるから、何ができるのかなって実は今、考え始めていて、考えてみたら、大学2年のときから芸能界デビューして、大学出て芸能界に入って、18年ぐらい芸能界に行ったり、中国に留学行ったり、それから政治家を始めて、10年は経って、突っ走り続けてきたから、自分は他の何かになれるんだってことを考えたことがなかったの。

 ほかの何かになれるのかなっていうのも、今ちょっと不安の半分ありながら、無職なんだね(息子と同時にアハハハと大笑い)。

 長男村田琳「・・・・、やりたいことできるじゃん」

 蓮舫「そうなの。やりたいことって何だろうって思って、今回、双子の育児の話?靴紐の話なんか今覚えていないけど、5歳のときかな、靴紐やっぱり結ぶの、ちゃんと巻けなかったゆえにもっとあの話をすべきだって。次から靴をマジックテープで止めたの。最悪、最悪、靴紐巻けなかったからって、マジックテープに戻した母親って、最悪だと思ってて。

 でもね、あのことを自分の子として思ってくれる人は実は何人かいて、若い記者とかも、背中を押されましたとか色々言って、みんなの声聞くよ。みんなの育児、孤独じゃないよって、そういう聞く場所っていうのもやりたいなあと思っていて、だから、蓮舫に聞いて貰いたいことがある場所っていうのはこういうふうにインスタライブでやってみるのもアリかなと思って、私もこういうふうに誰かの力になれるんだったら、普通に実は凄くやりたいことかなあってのは思っている」

 長男村田琳「本来日本国民と国政、あるいは都政というのは本来こうあるべきだとすべきではないと思う。やっぱりこうあるべきとなっちゃうっていうのは仕方ないことだと思っちゃう。蓮舫が国政、都政じゃなくて、もっともっと近くに寄るよってやりたいことがあったら、蓮舫に試させてみようてことが今より多くなるかも知れないね」

 蓮舫「うん、多分、今まで以上に繋がっている感が凄くあって、何か凄いなあ、何かこうやっても繋がってる感があって、有難ないなあって凄く思う。女性の見方ではいつでもなく、男性の見方にもよる。子育てでプレッシャーを感じるっていうのはやっぱ凄くきつくて、本当は子育てって楽しいんことじゃない?だけど、楽しめないの。なぜなのか、プレッシャーしか感じないから、そういう仲間とか、友達とか、先輩見ていると、あ、きついんだって思っちゃうのは実は凄く嫌な瞬間で、ほかの世界に向けて、今双子の話をしているんだけどね、こんなに楽しかった経験てないんだよね。

 それをもっともっとみんなに言いたくって、なぜなんだろう、そんなキツイの、辛いの、仕事やばいの、カネ足りないのと思うと、キツイなあと思って。やっぱ、そうだよねえ。

 多分、相手は私に対してパワーハラスメントとは思っていない方がヤバイんだよね」

 長男村田琳「今回は息子とかじゃなくて(?)、パワハラの、パワハラを表現したのが今回の蓮舫に対するバッシングだと思っている。東国原さんだとかディープさんが生理的に嫌われているとか、嫌われる人間だとかいうのを、一つに括っちゃいけないんだと思うだよね。

 でも、蓮舫だから、言っても、何も返ってこないっていう、別にこれで自分の評判に関係ないから言っちゃおうよって言えるのであって」

 蓮舫「だから、結局、何ていうのかなあ、視聴率とか、反応とか、自分への評価とか、厭らしい資本主義が透けて見えるんだよね」
 
 長男村田琳「むしろこれって、メディアとかじゃなくて、・・・・・虐げられている女性、男性、パワハラを受けている人たちってたくさんいると思うんだよ。これが今回メディアとして出たのが蓮舫っていう大きな看板だったから、これをじゃあ、私はパワハラを受けてるけど戦います。じゃあ、 私はここで戦うけど、あなたたちも受けてる。フィールドってのがあるから、それも一緒に解決していこうよっていうのをそう言えたら、そう、もっと。 あのね、今回面白かったんだけども・・・」

 以上の発言を取り上げる。話が理路整然としていない。何度も読み返さないと、意味が取れない個所が相当ある。インスタライブを直接聞いている視聴者は聞き流してしまうこともあるに違いない。だが、支持者、あるいはファンだろうから、問題にしないのかもしれない。

 東国原とデーブスペクターに批判されたことが、あるいはそのほかからも色々と批判を受けていたのか、余程癇に障っていたらしく、それらに対する反論に区切りをつけることができず、同じ発言を繰り返している。周囲の批判を当初は「言ってれば」と無視する態度でいたんだけれども、「次の子たちとか、今政治家やっている子たちがここまで強くなれないと思ったときに『ああ、ダメだな』と思って。本当にやらなきゃ」と、前のところで挙げたほぼ同じ理由で戦うことにした。いわば反論に出ることにした。  

 理由は尤もらしいが、「次の子たち」や「今政治家やっている子たち」が「ここまで強くなれない」の意味するところ、自身は打たれ強いが、同性の後進や同輩は打たれ弱いと結論づける、あるいは決めつける根拠が何も説明されていない。いわば彼らは誰もが打たれ弱いと画一扱いし、頼まれた訳でもないのに私が守ってやらなければと気負っている。それぞれに意志を持った一個の自律した存在と看做さず、多様性や潜在的能力を考慮することもなく、庇護すべき弱い存在と意味づけている。

 このことの裏を返すと、蓮舫はそれ程にも自身を何様に装わせている。あるいは大層な庇護者に見立てている。

 最初から批判や誹謗中傷に覚悟を持って政治家を志し、そういった攻撃に強い女性も存在するだろうし、当初は傷ついても、自身が信じる言葉を発信し続けることによって打たれ強い政治家に変身していく女性も存在するに違いない。あるいは、「私をちゃん付けで呼んだ」、「10何年、話したことがない人だ」、「携帯も知らなければ、ご飯も食べたことない」といったどうでもいいことで大騒ぎするのではなく、反論するだけの価値がある批判かどうかの観点にのみに立って冷静に対処する賢明な女性も様々に存在するはずである。

 だが、自分以外は一様に打たれ弱く、自分は打たれ強いとする。実際には些末なことに自分から振り回されにいき、大騒ぎし、それを強がりで誤魔化す姿を曝しているだけのことで、打たれ強さなど微塵も見えない。その思い上がった固定観念は相対化能力の欠如、論理的思考力の欠如を否応もなしに示すことになり、ここにも「自分の考えは常に正しい」とするだけの自己正当化バイアスを見ることになる。

 しかも既に触れたように後に続く政治家を「子たち」と半人前に見立てた下の者前扱いは自身を上の存在に置いて政治家としての経歴の多少で人間の価値を決める、人間の実質を見ない形式主義そのもので、テレビの世界で報道・情報番組のレポーターやキャスター等を約5年間務め、参議院議員約20年も務めていながら、その形式主義は過去に人間の姿について満足に学んでいなかったことになり、滑稽な逆説を示すことになる。

 長男の村田琳が政治家に「これからなりたいって思う子たちが叩かれると思うのは凄い嫌だなって思う」と発言したのに対して蓮舫が「女政治家負けた。何やってもいい的構図」は許せないと応じている意味は二通りに解釈できる。

 一つは蓮舫個人に対する批判、あるいはバッシング、攻撃等を「女政治家」全般の問題へと転化し、蓮舫という個人の問題ではないとすることで、蓮舫の個人性や個人的資質を問題外に置くことを可能とする点である。結果、「女政治家」であるという一点でバッシングの対象にしていることになり、男尊女卑時代の前近代的男女差別観に毒された男たちをバッシング主体に位置づけていることになる。

 この方程式の中に東国原英夫も、デーブ・スペクターも入れていることになる。東国原英夫の「蓮ちゃんは生理的に嫌われているから」云々は言葉通りに解釈すると、蓮舫の個人性に対する好悪の一般論化に見えるが、そうではなく、実際は女政治家だから、自らの男女差別観に基づいてバッシングを行い、男女差別観が動機であることを誤魔化すために蓮舫の個人性に見せかけたということになる。

 デーブ・スペクターの「蓮舫がテレビ司会者に転身→ヒステリーチャンネル」も、男女差別観から蓮舫を理由もなくヒステリーに貶めているということになる。だが、バッシングを受ける理由を「女政治家だから」と解釈することは個人的資質としてはバッシングを受けるようなこれといった欠点も短所もないと自己評価することになり、蓮舫にとっては好都合な解釈となるが、自身を目立った欠点も短所もない人物に仕立て上げることは自己正当化バアスが過ぎることになるだけではなく、やはり自身を何様に位置づけていることになる。

 日本社会が戦前の男尊女卑の思想を戦後の民主化時代もどうしようもなく引き継いでいて、男性上位・女性下位の傾向を残していることになっているとしても、女政治家だからと性別のみで攻撃するのはごく限られた男の女性差別であって、東国原にしてもデーブ・スペクターにしても、蓮舫が女政治家だからと言って、例の発言をしたわけではあるまいから、両者をその範疇に入れるのは無理がある。あくまでも蓮舫という政治家を対象にして発言した。蓮舫の性別が女ということであったに過ぎなかったはずだ。

 要するに蓮舫は女とか男とかは関係なしに自分という政治家に対するバッシングとして受け止め、その合理性を問い、合理的でないと見たなら無視。何らかの合理性が認められたなら、反論するなり、反論せずに何を言われても我が道を行くことを宣言する、いずれかを選択すればよかった。

 だが、蓮舫がしたことは「私をちゃん付けで呼んだ」等々、合理性を問わないままに感情的な反発を前面に押し出し、結果としてどうでもいいことで世間の注目を集めただけではなく、「女政治家」だったから攻撃対象となったと女性という性全般に対するバッシングであるかのように普遍化し、問題を大きくする誤魔化しまで働いた。

 そうまでして自分を正しい位置に置こうとする自己正当化バイアスは際限がない。自身に対するバッシングと同性他者に対するバッシングを切り離して、後者のそれは本人が他者の力を借りるにしても、借りないにしても、自身の成長のためにもそれぞれが受け止め、それぞれが主体的に解決すべき問題だと距離を置くべきを、「次の子たちとか、今政治家やっている子たちがここまで強くなれないと思ったときに『ああ、ダメだな』と思って。本当にやらなきゃ」と批判やバッシングの類いなど止めることもなくすこともできないにも関わらず、自らの力で不可能を可能に変えることができるかのように見せかける。思い上がりというものだろう。

 こうまでも拘るのは都知事選の有意義性が本人が口にしている程に実態を備えていないからで、実態を備えていたなら、その有意義性の前に東国原英夫やデーブ・スペクターの蓮舫の落選に見せた反応など冷静に眺めることができるはずだが、それができなかったのは強がりでしかない有意義性であることを改めて暴露することになる。

 蓮舫の長男村田琳も、これから政治家を目指す男女を"子"扱いして、「叩かれると思うのは凄い嫌だなって思う」と叩かれることを前提とする画一性にはまっているが、対して蓮舫は叩かれる「要因が私ってなるのも嫌だし」と応じている。

 例えば蓮舫と同じ党の女性議員だからと蓮舫憎しが高じて袈裟まで憎しで叩いたとしたら、蓮舫個人は手の施しようも防ぎようもない合理的理由を欠いたバッシングそのものであり、バッシング主体の性格に帰すべき個別的問題であるにも関わらず、その個別性を無視して、蓮舫という存在があったからこそのバッシングの連鎖だと動機付けるとしたら、自分で自分の存在感を理由もなく過大評価する振舞いであって、自分を何様に位置づけていなければできないこととなる。

 根拠も理由もない合理性を欠いた批判やバッシングを世の中からなくすことは不可能なことは既に触れたが、その不可能性に対して自身へのバッシングに試みた反論の「挙げた声は残る」、「その声は必ず誰かの力になる」と保証しているその"声"は相手の非を認めさせ、自らの過ちを納得させることのできる論理的にして合理性ある力を備えていなければならない。

 だが、東国原英夫が蓮舫敗因の一つに「蓮ちゃん、生理的に嫌いな人が多いと思う」と挙げたこと自体に反論するのではなく、「蓮ちゃん」と親しい間柄であるかのように名指ししたことに対して、「友達でない人」だ、東国原は「そのまんま東さんで止まっている」だ、「携帯も知らなければ、ご飯も食べたことなければ、連絡先も知らない人」だからは論理性も合理性も窺うことができないばかりか、単なる感情的な反発しか見えてこない。

 果たしてこのような"声"が相手の非を認めさせ、自らの過ちを納得させることのできる力を備えていると確信できるだろうか。

 デーブ・スペクターのX投稿、「蓮舫がテレビ司会者に転身→ヒステリーチャンネル」に対して「それはどういう意味かしら、デーブさん、私の闘いや私の姿勢を個人で笑うのはどうぞご自由に。もう数十年お会いしてませんが。私を支え、私に投票してくださった方を否定しないでいただけると嬉しいわ」との表現で蓮舫投票有権者の存在否定に当たると批判しているが、蓮舫を支え、投票した有権者数が当選にまで届かなかったことは小池百合子に投票した有権者からは都知事になる資格はないとする否定を受けたことになって、その有権者数の方が遥かに多かった。

 石丸伸二にしても小池百合子に投票した有権者からは都知事になる資格はないと否定を受けたことになるし、蓮舫は石丸伸二に投票した有権者の数以上に都知事になる資格はないと否定された計算となる。

 安倍晋三政治の否定は安倍晋三を国会に送り込んだことも、総理大臣に選んだことも、そのこと自体が間違いであるという否定を根底に抱えていなければ不可能となる。だが、肯定する有権者や国会議員の方が遙かに優っていた。

 当然、デーブ・スペクターの対蓮舫投票有権者の存在否定は蓮舫の落選に対応させた反応に過ぎないことになる。当選していれば、否定を受けることはなかったろう。蓮舫が「否定しないでいただけると嬉しいわ」などとお願いすること自体が論理性も合理性もなく、せめてもの対応はデーブ・スペクターの蓮舫叩きを無視し、再度都知事選に挑戦、東京都民から都知事として肯定される票数を獲得するか、より確かな安全策として今夏予定の参議院選挙に立候補、有権者からその存在を否定されない当選に必要な票数を獲得して返り咲くか、いずれかを可能とすることで、東国原英夫やデーブ・スペクターを黙らせる道を選択すべきだった。

 蓮舫は「次の子たちが流しきれない」からと両者に反論を試みたことに対して、「東国原さんもデーブさんも連絡ないですね」と言っているが、反論に対するそれなりの言葉の送りつけができなかったわけではなく、ただ単に相手にしない態度を取ったのだろう。勿論、自分たちの蓮舫批判に賛否があることは承知しているだろうし、あったとしても、蓮舫が反応したことで最初に送りつけた言葉は却って拡散し、送りつけたことの目的は十分に果たしただろうからである。

 大体が反論の価値もない言葉に蓮舫がその見極めをつけることもできずに飛びついただけの話だった。反論の力量がその程度でしかないのだから、「挙げた声は残る」、「その声は必ず誰かの力になる」は自己能力の過大評価、思い上がりに過ぎない。 

 己の頭の蠅を追うこともできずに「次の子たちが流しきれない」からと人の頭の蠅を追おうとすること自体が思い上がった振る舞いでしかない。

 弁護士で総支部長の松尾あきひろ(実際の年齢は49歳)が蓮舫の演説の前に喋ってくれた。小学生の娘が大人になったときに昭和の人たちに頭を下げなくて済むよう社会を作りたいと「こんなにクールな子」が泣きながら演説した。

そしてこのような「30代の子たちが野党から政治家になろうとしてくれている」ことを以って蓮舫は「健全な民主主義」だと称賛している。

 要するに昭和生れの人間は年下の者に対して何につけて古い価値観を押し付けてくる、頭を下げてくることを求める、目下の目上に対する言葉遣いの丁寧さで人物を評価したりする、悪くするとへりくだった態度を年下の年上に対するより良いマナーと見る、そういった上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的な上下の人間関係を思考・行動のパターンとする者が多くて、若者の自由な社会活動の障害となっているということを指しているのだろう。

 但し蓮舫は自分がこのように発言していることの二つの問題点に気づいていない。一つはそういった時代遅れの人間関係に囚われたままの昭和生れの大人たちに対して意識改革の戦いに直ちに挑む行動力の発揮を目の当たりにして、「健全な民主主義」と言っているのではなく、「小学生の娘が大人になったとき」、つまり昭和生れの大人たちが社会の表舞台から退場する時間の経過を待つだけの戦わない姿勢を指して「健全な民主主義」だと称賛している点である。

 例え表舞台から去ったとしても、何らかの上下の価値観を用いて人間の有用性を推し量る権威主義の思考・行動様式は民族性を背景として封建時代の昔から伝統的、あるいは文化的精神としてきたもので、小学生の娘が大人になる時代にまで進んだとしても、変わらぬ姿をとどめる人間の存在を全否定できるわけではない。

 戦後の民主主義の時代に年数を経てもなお戦前型の思考を残した人間が数多く存在することがこのことを証明し、松尾あきひろの指摘はこういった人間を指しているはずだ。

 二つ目は蓮舫自身の後輩・後進に対する「あの子、この子」の下の者扱いは一種の権威主義的上下関係で価値づけていることになり、松尾あきひろに対しても「あ、こんなにクールな子が泣きながら言うんだ」と、例え年齢が下でも、一個の人格として対等に扱うのではなく、大の大人を「子」扱いする上下関係を昭和生れの一人として自らも体現していながら、自分以外の昭和生れの大人たちの権威主義を批判の俎上に載せる滑稽な矛盾を犯して気づかずにいる点である。

 要するに蓮舫の後輩・後進に対する対人視点からは「健全な民主主義」は窺いようがない。

日本の社会で権威主義的な上下の人間関係は目上の者と目下の者の間にのみ働いているわけではない。職業的地位の上下、戦前の男尊女卑が戦後に男性上位・女性下位の形で残っている男女関係、あるいは学歴の上下、収入の上下、その他をも縛り付けている人間関係力学として残存している。

 男性を上に置き、女性を下に置いた男性上位・女性下位の権威主義的上下関係を社会レベルで改めることができたなら、家事労働時間や育児時間の女性偏重は改善に向かい、改善の進行によって第2の出産、第3の出産を望む女性増加の可能性は否定できない。
 
 そしてこのような平等社会の実現を目指す力が無視できない大きなうねりを示し得ることになったとき、初めて「健全な民主主義」が機能していると言うことができる。蓮舫は昭和のおっさんたちに頭を下げなくて済む社会の実現が男女平等社会にまで繋がっていく可能性についてまで考えを広げる思考力までは備えていない。

 次の発言、松尾あきひろの小学生の娘が大人になったときに昭和のおっさんたちに頭を下げなくて済むような社会を作りたいと訴えた演説は、「あれは素敵だった。凄い素敵だった。ちゃんとこうやって自分のための声を出すってとっても大事で、こういう国を作りたい、こうしたいって言われれば、そこには自分事のこうあるからそうされたいんだっていう演説の文化になってくれたら、多分、有権者とか国民も自分事として考えてくださるんじゃないかなあというのが今回見えた景色だった」と言っていることが、頭が悪いせいか、意味がすんなりと入ってこない。

 頭が悪いなりに解釈してみるが、松尾あきひろの演説は「自分事」としてあるから説得力を持つのであって、そういった「演説の文化」になれば、「有権者とか国民も自分事として考えてくださるんじゃないかなあというのが今回見えた景色だった」と高評価をつけたということなのだろう。

 但しその相互の「自分事」が化学反応し合う「演説の文化」の素材はあくまでも言葉や思い、あるいは熱意のみで、自分事の実現を約束する力とは必ずしもなり得ない。言葉や思い、熱意の先に何らかの意識改革の方法なり、政策の形なりに纏めて、成果へと向けた動きを導き出さなければ、「演説の文化」は文化のままとどまり続けて、政治の恩恵としての社会生活上の利益は形を取って届けることはなかなかできないからだ。

 蓮舫の目に映る「景色」には「政治は結果責任」という透かし文字を入れ忘れている。断るまでもなく、「結果責任」とは結果を生み出して届ける責任のことを言う。蓮舫は結果責任を置き忘れたまま、ただ単に安っぽく感動しているに過ぎない。

 蓮舫にしても、昭和のおっさんたちに頭を下げなければならない慣習がどのような社会の構造によって強いていることなのかの本質的な点に気づいていないのだから、どうすべきかの段階にまで進まずに、ただ単に松尾あきひろの演説に感動したという表面的な「景色」で終わることになる。

 蓮舫は選挙活動の演説で、「一人じゃないんだよ」、あるいは「一人にちゃんと見てるんだよ」と寄り添ってくれる聴衆に語りかけることで「熱を帯びた街頭演説の双方向」ができたのは自身にとって「誇り」であり、「達成感だ」、「新しい民主主義の形」だと再び都知事選で手にした有意義性を誇っている。

 選挙活動の演説に集まった聴衆というものの正体を改めて見てみる。中には敵情偵察の者もいたかもしれないが、ごく少人数のはずで、大多数は支持者であるが、既に触れたように各地区の後援会から動員された支持者が無視できな人数で混じっていたはずで、蓮舫は参議院議員の間は東京都が選挙区だから、地元の有権者である自身の後援会員や、街頭演説場所の立憲系の都会議員、区会議員の後援会会員、あるいは近隣の地区の後援会会員を動員しているだろうし、当然、応援に熱を帯びる。

 さらに序盤情勢、中盤情勢、終盤情勢と小池百合子に対して劣勢に立たされていた上に石丸への支持が増えていく状況に際しては動員指示は加速していったはずで、当然、演説を行う側と演説を受ける聴衆側との間が熱を帯びるのは自然なことだが、その熱が当選に結びつく程に大きな広がりを見せなかったということは動員以外に自然発生的に演説に参加していく聴衆が大きな塊となっていく状況にまでは進まなかったことをも示していて、いわば動員した支援者でほぼ固めた聴衆を相手に「街頭演説の双方向ができた」とするのは基本的な認識性を欠いていることになって、「達成感だ」、「新しい民主主義の形」だといった有意義性はニセモノと化す。

 このニセモノそのものの有意義性は都知事選敗北の屈辱によって元々の自己正当化バイアスを刺激して誘い込むことになった強がりが生みの親となっていることは間違いない。

 蓮舫は奇麗事を口にしているに過ぎないことになる。やはり選挙の有意義性が見せかけで、見せかけと思わせない仕掛けとして強がりを必要とし、強がりだから、言っていることが奇麗事となる。その悪循環に絡め取られてしまった。

 蓮舫の今後の進路についての長男村田琳との遣り取りを見てみる。長男村田琳に「次の選挙は?」と問われると、「千人単位で聴衆が増えてくる演説会場」の「凄い景色」や、「120万を超える人が蓮舫と書いてくれた」事実を前にして「国政に戻るのはなんか渡り鳥みたい」で、「私の中では違う」と答えている。

 この発言にある矛盾を無視するなら、再度の都知事選を目指しているようにも見える。矛盾とは演説会場に集まった際の聴衆の多くが動員された頭数であることを抜きにして、事実、「凄い景色」であったとしても、投開票前の景色であって、それがどれ程に凄くても、票に繋がって当選という次の景色を結果としたわけではないのだから、その"凄さ"は相対化の審判を受け、光を失う。掛け値なしに「凄い景色」だったなら、あれは何だったのだろうか、ただの蜃気楼だったのだろうかと疑惑にも駆られるだろう。だが、蓮舫は結果を無視して、投開票前の景色だけを取り上げて、"凄い"と価値づける矛盾は自己正当化バイアスの心理的な偏りを外したなら、満足のいく解釈は不可能となる。

 その一方で、「次のステップでまた国政ですかっていう声は聞いていないんですよ」の発言は、それを望む声次第では国政復帰の可能性をも示唆していることになり、「一旦ピリオドだなって思う」は国政復帰を望む声待ちを意味することになる。

 蓮舫が都知事選に挑戦したのは、一般的に考えると、政党支持率が10%以下の少数野党乱立状況下の自民党一強の政局では野党第一党所属であっても、自分たちの政治で国を動かすことは現在のところ不可能であるのに対して、都知事に当選すれば、アメリカの大統領制に近い首長制であることから強い権限を与えられていて、野党の一議員の立場ではほぼ不可能な、自身の政治を国際的な巨大都市東京という大舞台で政策の形に持っていくことが可能となるからだろう。

 つまり自身の政治力を見せたかった。だが、落選し、その野心的な目論見は潰えた。しかし4年後の都知事選で、より慎重になるだろうが、取り巻く状況次第では自身の政治を政策の形に持っていくという実験は再度挑戦が不可能というわけではない。

 但し都知事選に再び立候補したとしても4年間のブランクは票獲得に不利に働かない保証はないから、2015年7月の参院選に当選を前提として立候補して、4年間後の都知事選を窺う両睨みでいたのではないのだろうか。

 そのために「国政に戻るのはなんか渡り鳥みたい」と一方で言いながら、もう一方で、「次のステップでまた国政ですかっていう声は聞いていないんです」とどっちとも取れる言い回しとなった。参議院復帰も都知事選再挑戦も、理由は支持者の後押しがあったからと何とでもつけることができる。

 だが、2024年7月7日の都知事選後から6日後の2024年7月13日のインスタライブ当時から
国の政治状況は大きく変わった。3ヶ月後の2024年10月27日の衆院選で自公が過半数割れとなる政局の大変動は、期待はあったかもしれないが、実際のこととして予想した向きは少なかったに違いない。

 2024年10月27日の衆院選投開票を3日前にした10月24日に自民党石破執行部は政治とカネの問題で非公認とした候補代表の政党支部へ2000万円を提供した事実が判明。非公認扱いしたことと矛盾した秘密行為が過半数割れを誘う分岐点となったに違いない。

 だが、世論の大勢が決定的に政権交代を望まなかったから、対自民懲罰票が野党第一党の立憲民主党に全面的に向かう流れを取らずに国民民主党にも向かう結果となり、与党過半数割れで終わることになった。

 自民党が政治とカネの問題に国民の納得がいく形で決着をつけることができないままに2025年7月の参院選を迎えることになったなら、参議院でも自公を過半数割れに誘い込む可能性は否定できず、ゆくゆくは政権交代も予想範囲に捉えることができる。蓮舫は閣僚の地位を狙える一人として、参議院復帰に狙いをつけ、「それでも120万を超える人が蓮舫と書いてくれたことに対してこれでまた国政に戻るっていうのはちょっと私の中では違う」と発言したことや国政復帰を「渡り鳥みたい」と形容したことなどケロッと忘れて、支持者の後押しを受けたとか何とか理由をつけて、立候補することになる可能性は十分に予測できる。

 大体が「自分の考えは常に正しい」とする自己正当化バイアスに強度に取り憑かれた蓮舫が都知事選3位という汚名を政治人生の終着駅とすることは考えられない。都知事選再度挑戦当選なり、参院議員高得票獲得復帰なりの形で東国原やデーブ・スペクターに一矢報いたいと思っているはずだ。

 内心は蓮舫に対する東国原英夫の批判やデープ・スペクターの揶揄を思い出すたびに悔しくて悔しくて、ハラワタが煮えくり返っているに違いないことは、今後やりたいことの一つに若いお母さんから育児について聞く場所をインスタライブを使って「やってみるのもアリかなと思って」と話していながら、急に思い出して怒りが込み上げてきたのか、何の前触れも脈絡もなく、いきなり、「多分、相手は私に対してパワーハラスメントとは思っていない方がヤバイんだよね」と言い出して、周囲の蓮舫に対する批判、バッシングの類いを悪質化の方向に一段昇格させて、自身に対する「パワハラスメント」だと断じ、バッシングとは異なる暴力的不当行為であることに相手が気づいていないことを咎めてやまない姿勢に現れている。

 但しパワーハラスメントだとすることに様々な問題が含まれることになる。

 パワーハラスメントとは何らかの必要性に基づいて築いている、逃げられない人間関係の中で一定の関係を優越的な立場と非優越的な立場で捉え、前者の立場を取る者が自らの優越性を表現するために後者の立場を取る者が持つ人間的対等性を踏みにじり、人格を否定する威迫行為(乱暴な言葉や動作で相手を脅して無理に従わせようとすることなど)を行うことを言うはずである。

 ところが、東国原にしても、デーブにしても、蓮舫と何らかの人間関係を進行させている状況にあったわけでもないし、反論できたのだから、当然、逃げられない関係にあった訳でもなく、そのような関係の中で蓮舫に対して優越的な立場を築いていたわけでもなく、蓮舫にとっては受け入れ難い発言だったろうが、その発言は蓮舫に自分たちの意思に無理やり従わせるようとする威迫性を持たせた言葉でもなかった。

 勿論、蓮舫自身が自らの自由意思を東国原やデーブに無理やり抑えつけられて、望まない何かをさせられたという訳でもない。

 そのような関係にあった蓮舫に対する行為をどうパワーハラスメントと名づけ得ると言うのか、甚だ疑問である。常識的に考えても名づけ得ないと断定できるはずで、パワーハラスメントだと定義づけること自体が過剰解釈であり、東国原やデーブの発言に対する過剰反応としか言いようがない。

 しかも、パワーハラスメントにしただけではなく、そうであることに気づいていないことを「ヤバイ」と、いわば最悪状況の無知扱いにしている。

 多分、東国原やデーブの自身に対する発言を「そういうの我慢できちゃうし、流したんだけど」とか、「次の子たち」や「今政治家やっている子たち」が「ここまで強くなれない」という言葉遣いで間接的に自身は打たれ強いとしていたことがやはり強がりでしかなく、実際は都知事戦に落選したことも手伝って、内心に収まりのつかない激しい怒りが渦巻いていて、断罪したい復讐心が単なるバッシングとするだけでは満足できず、一層の批判や非難を浴びることになり、自らの社会的役割まで否定されることになりかねないパワーハラスメントというより悪質な行為に持っていきたくなったのかもしれない。

 だが、この悪質化は、改めて、蓮舫が打たれ強くも何ともなく、打たれ弱いことの裏返しでしかないことを証明することになる。自己正当化バイアスが強度に働いた結果の自身を正しい場所に置いて、相手を最悪な場所に追い込もうとする意図が見えてくる。

 蓮舫は自身に対するバッシングを、「視聴率とか、反応とか、自分への評価とか、厭らしい資本主義が透けて見えるんだよね」と批判している。東国原やデープスペクター、その他が「厭らしい資本主義」の立場から自分への評価を高め、その先に自らの人気の確保や芸能界での居場所確保を考えてバッシングを行なっていると受け止めているとしたら、蓮舫自身を大物に見立てていることになり、そこには自らを何様と見る思い上がりを潜ませていることになる。

 なぜなら、小物が相手なら、厭らしい資本主義が性格としている利益追求一辺倒の餌食にしたとしても旨味は出てこないからである。もしテレビ局が蓮舫を叩けば、視聴率を稼げると出演者に暗に指示し、出演者がそれに応えて蓮舫を集中的に叩いたとしたら、出演者個人の思想・信条の自由を認めずに全体の利益への奉仕を求める戦前の全体主義への回帰を示すことになって、もし露見したらテレビ局は立ち行かなくなる。

 そのような危険を犯してまでこの手の思想統制を行うことは考えられないから、やはり「厭らしい資本主義」からの蓮舫バッシングだとの思い込みは自身を大物に見立てた被害妄想とまでは言わないが、安っぽい拡大解釈に過ぎないだろう。
 
 長男の村田琳も、蓮舫の自身に対するバッシングをパワハラスメントだとする説に影響を受けたのだろう、世の中にはパワハラを受けている男女はたくさんいる、今回、メディアを使った蓮舫に対するパワハラが出てきた、蓮舫は、いわば大きな看板となるから、それを利用して、私はパワハラと戦います、みなさんも一緒に戦い、解決していこうでありませんかと言えたら、面白かったけどといった趣旨の感想を述べているが、東国原英夫の「蓮ちゃん、生理的に嫌われているから」程度の批判や、デーブ・スペクターの「ヒステリーチャンネル」程度の悪ふざけを参議院議員歴20年にも関わらず、バッシングだとまともに相手にし、それでも飽き足らずに東国原とデーブの発言や行いをパワハラスメントだとなお一層の悪者仕立てに持って行く。

 こういった論理的思考に基づいた合理的判断力を欠いた人物にパワハラ被害の相談を受けて、それなりの対処療法に取り掛かり、個別的には解決することができるだろうが、政治家の立場から取り組むべき意識改革は、先に挙げた松尾あきひろの小学生の娘が大人になったときに昭和のおっさんたちに頭を下げなくて済むような社会を作りたいと訴えた演説が、大人たちの意識改革に持っていく極めて困難な戦いではなく、単に彼らおっさんたちが社会の表舞台から退場する時間の経過を待つだけの戦わない姿勢を指した演説であることが気づかずに、「健全な民主主義」何だと感心する程度の非論理的な判断力しか発揮できないのだから、望むのは土台無理な話だろう。

 今回はここまで。次は最終回。
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尾木直樹朝日新聞出張授業:イジメ被害者・加害者、不登校児童を頭に置かないイジメ問題出張授業成功の逆説

2025-01-01 10:42:36 | 教育
Kindle出版電子書籍「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

 朝日新聞社運営の本の情報サイト「好書好日」に本の著者が学校を訪ねて特別授業をする、新聞社主催の「オーサー・ビジット」を教育評論家尾木直樹が行なった記事が載せられていた。2019年2月20日の記事である。記事自体は5年以上も前のものであるが、取り上げているイジメは現在と同様、その当時にしても目の前の問題であり続けていたはずで、決して古い話題ではない。

 2019年まではイジメ認知件数は増加基調にあった。2020年のイジメ認知件数減少はコロナ禍での臨時休校や学校行事の休止、部活動の制限等、子ども同士の接触機会減少の反映とされているが、翌年から再び増加傾向に戻ったのだから、2019年の時点で不明のことだったとしても、それまでの増加基調を見据えて、イジメの抑制をどう図るかを意識に置いた授業となっていなければならない。

 果たしてそういった授業となっているかどうかはイジメの抑制に人気教育評論家として一人奮闘する人物としての期待に違わぬ活躍を子どもたちを前にして見せてくれるに違いない。

 記事ライターは岡沢香寿美氏。

 《いじめをなくす3つの「しぐさ」試してみてね 教育評論家・尾木直樹さん@神奈川・横浜市立川上北小学校》

 訪問先は横浜市立川上北小学校。体育館で行なったと言うから、断りはないが、全校生徒を集めたのだろう。最初に記事ライターが特別授業の感想を述べている。

 〈友達をなぜいじめるんだろう。「心の中に、いじめをしてしまう自分がいるの」「まずは自分の命を徹底的に大事にして」――。心を温かく包み込むような尾木ママの言葉に、子どもたちは熱心に耳を傾けていた。〉――

 尾木直樹は子どもたちから熱心に耳を傾けられた。教育者としての思い遣りを伴った言葉の発信の点で優れているからだろう。だが、子どもたちがそうできる心境にあったことを条件としている点は忘れてはならない。

 以下、記事が伝える授業内容をシナリオ風に書き改めてみる。

 尾木直樹、体育館に登場。
 子どもたち(歓声を上げる)「尾木ママー!」
 尾木直樹、例の笑顔で、「はーい!」(記事では「茶目っ気たっぷりの笑顔で」となっている)
 尾木直樹、児童たちの間に入って、「頭じゃなくて心を使って、心から心に伝えるお話をしますね」

 要するに子ども目線に立ち、子どもが理解ができて、その心に響く、つまりその場限りではない、いつまでも胸に残る思いやりある言葉の発信を約束した。子どもにその体と心の健康を願いながらクリスマスプレゼントを届けてまわるサンタさんみたいな心境を想像してみた。    

 事前のアンケートで、みんなの悩みを聞き取っていたという。友人関係、勉強、家族等の様々な悩みの中で、〈尾木さんが特に気になっていたのは「いじめ」に関するものだ。〉と解説している。

 要するに出張授業のテーマはイジメ問題と言うことになる。尾木直樹の中で学校でのイジメ問題が専門分野中の最たる専門分野だからごくごく当然なことなのだろう。

 尾木直樹、子どもたちにマイクを向けて、「いじめられちゃう、いじめちゃう、どちらの悩みもあったの。どんなときに悪口を言いたくなる?」
 男の子「むかついたとき!」
 尾木直樹「ではムカムカ、イライラ感情の正体は一体何でしょう?」
 子どもたち、一斉に「ストレス!」
 尾木直樹「いじめの原因の70%はストレスといわれています。ストレスがたまっていじめたくなるのは人間的な感情なんです」
 解説「いじめる子だけが特別なわけじゃないのだ」
 尾木直樹「心の中に、いじめをしてしまう自分がいるの。誰もがいじめたり、いじめられたりする可能性がある、全員の問題。みんなで考えなければいけないわね。
 でもそれを乗り越える智恵と賢さを、みんな持っているはずよ。ストレスをため込まないためには?」、
 子ども「ポジティブシンキング!」
 子ども「叫ぶ」
 子ども「運動する」
 子ども「ずっと笑ってる!」(大笑いが起きる)
 尾木直樹「笑いは力ね。みんなが笑っている楽しい学校になればストレスが消えて、いじめが生まれる土台がなくなるわ」
 尾木直樹、ある小学校でとり入れられている3つの「しぐさ」を紹介。 
 ①あいさつしぐさ。あいさつを交わすと、気持ちがいいでしょ。無視しちゃだめよ。
 ②仲良ししぐさ。一人でいる子には、一緒に遊ぼうと、声をかけてあげて。
 ③手伝いしぐさ。例えば、体調の悪い子がいたら、保健室に付き添ってあげるの

 解説「尾木さんの言葉がみんなの中に染み込んで行くようだ」
 尾木直樹「週に一回、友だちに言われてうれしかった言葉を学級会で発表して書き出してみて。その言葉が飛び交うような学校にしましょう。児童会で楽しいことをたくさん企画してやってみるのもいいわ。みなさん一人一人が学校の主人公。先生や保護者、地域の人たちは応援団なのよ」
 解説「でも、嫌なことをする子はいる。どうすればいいの?」
 尾木直樹「みんな、自分のことはちゃんと見ているかしら?自分の嫌なところはどこかな? その弱点をひっくり返して良いほうに捉えたらどう見えるか、1分間で考えてみましょう」

 解説によると、この課題は枠組みを変えて物事を見る“リフレーミング”という手法だそうだ。要するに良い方向へと発想の転換を試みる。

 女の子「声がでかいところが嫌だ」
 尾木直樹「あら、とっても素敵な声よ。歌手になれそう。良いほうから捉えたらどう見える?」
 女の子、笑顔になって「私の発言をみんなが聞きやすい」
 一人の子「提出物をすぐ忘れちゃう」→発想の転換→「ほかの楽しいことをたくさん考えている」
 一人の子「無口」→発想の転換→「よく考えている」
 一人の子「自分勝手」→発想の転換→「自分の意見をきちんと言える」。
 解説「みんなの短所が、キラキラ光って見える」
 男の子「すぐに人の悪口を言っちゃう」→発想の転換→「友だちのことをよく見ている」
 尾木直樹「今度は友だちの良いところを見て、ほめ言葉を贈ってあげましょうね」
 男の子、にっこりと頷く。
 最後に――

 尾木直樹「まずは自分の命を徹底的に大事にして。それと同じように、友だちの命も大事にしてくださいね。自分を大切にできないと、友だちも大切にできませんよ」(以上――)

 岡沢香寿美氏は記事の最後で、尾木直樹がみんなに伝えたかったのは自己肯定の大切さだと解説している。
 「リフレーミング」という言葉の意味自体が自己肯定の側面を抱えている。欠点を長所として発想を転換する。長所の確認は自己肯定の素材とすることができる。

 だが、事はそう簡単ではない。深刻なイジメを受けている子や登校することに激しい拒絶反応に見舞われている不登校児童は自己否定の気持ちが先に立つことになり、それを自己肯定へと転換する心の余裕はなかなか持てない。簡単に余裕を持てるようなら、イジメで不登校となることも、自殺することも減少するはずだが、現実は逆の状況にある。

 結果、イジメは常に目の前の問題であり続ける状況に変わらないことになる。教育者も教師も、この現実と正面から向き合って、イジメ問題に取り組まなければならない。

 取り組んでいるなら、尾木直樹の「オーサー・ビジット」授業自体がほのぼのとした親和的な教育空間を描き出していたとしても、何ら障害はない。但し「頭じゃなくて心を使って、心から心に伝えるお話をしますね」と言ったとおりの約束を果たすことができたとしたら、やはりそうできた条件というものを考えなければならない。無条件で成立する企てなど滅多に存在しない。

 いくら高名な上にマスコミに引っ張り凧の人気教育評論家であったとしても、子ども目線に立ち、子どもが理解ができて、その心に響く思い遣りのある言葉を届けることができたとしたら、そうできる条件を初歩的には児童側が抱えていたからからだろう。

 なぜなら、現実にイジメに苦しんでいる児童や登校したくても、登校できない児童等を尾木直樹自身の視野から除外した授業になっているからである。

 この上なく優れた教育評論家を前にして大変失礼なことかもしれないが、尾木直樹の授業からはイジメで苦しんでいる児童は、全員出席の建前となっているだろうから、そこに出席していたとしても、その姿を見据えた言葉の発信は記事からは見えてこないし、大勢の中に何人かは存在することを想定した発言にしても窺うことはできない。

 さらにその場にはいない不登校児童の姿を頭に置いた言葉にしても見当たらない授業となっている。イジメが原因で不登校になる例もあるのだから、児童の悩みを事前にアンケートで取っていて、特に気になっていたのは「いじめ」に関するものとしている以上、イジメ自体が存在し、このことに対応してイジメ問題を出張授業で取り扱う関係上、学校に対してもイジメ認知件数や不登校児童数、その事例内容等の聞き取りを行なっていはずで、イジメ被害者やイジメ加害者、不登校児童の存在までを含めた"リフレーミング"を可能とする言葉の発信が見られていいはずだが、影さえも見せていないのは聞き取りをしていなかったか、聞き取りはしてはいたが、そこまで頭が回らなかった、いずれかと見なければならない。

 何度でも言うが、イジメは常に目の前の問題であり続けていて、その現実を見据えた主張授業でなければ、解説者が言う、〈尾木さんが特に気になっていたのは「いじめ」に関するものだ。〉は表面的な態度に過ぎなくなるし、「心を温かく包み込むような尾木ママの言葉に、子どもたちは熱心に耳を傾けていた」の授業評価はイジメや不登校とは無関係の場所で成立する買いかぶりに過ぎないことになる

 もしイジメを目の前の問題としていたなら、「自分の命を徹底的に大事にして。それと同じように、友だちの命も大事にしてくださいね」は体育館に集まった児童に向けた言い諭しであると同時に中に混じっているかもしれないイジメ被害者やイジメ加害者の存在、登校したくても、登校できないでいる、体育館には出席していない不登校児童の存在にも目を向けた言い諭しであることが理解できる言葉遣いが必要だが、その影形も見えない。

 イジメ問題を授業のテーマとする以上、気づくべきその必要性に気づいていたなら、ただ単に「命を大事に」と言うだけではなく、どうすることが大事にすることになるのか、そこまで踏み込んで理解を求める言い諭しがあって然るべきだが、言うだけで終えているのはオーサー・ビジットを引き受けた責任を果たしているようで、実際は果していないことになる。

 命とは、その人なりに生きている姿のことを言い、自分が自分なりに生きている姿が自分の命であって、他者が他者なりに生きている姿が他者の命であると言うこと、他者の命を大事にするとはその人なりに生きている姿をバカにしたり、笑ったりしない、最大限、その人なりの生き方に任せる、いわばその人なりを邪魔する干渉を避けることを言い、逆に相手のその人なりの命を示す、その人なりの生き方に任せることができない最悪の干渉がイジメであり、相手の命を粗末にしていることになると言い諭すことができたろう。
 
だが、何もできていない。

 イジメの抑止を"リフレーミング"の思考訓練を用いて試みるとするなら、誰かに向かって激しい怒りの感情やバカにする感情に襲われると、自身を省みる精神的余裕を失い、このこと自体がストレスを負荷状態に持っていくことになって、これらの感情を爆発させてイジメに走ってしまうこともありうるということを前置きして、他人にぶっつけて晴らす感情の類いは負の感情と見て、他人にではなく、自身のスポーツとか、勉強とか、趣味とかにぶっつけて正の感情持っていく発想の転換の必要性を説かなければならないが、イジメ加害者や被害者、あるいは不登校児童までをも思い遣った「オーサー・ビジット」になっていないから、イジメの問題を扱いながら、彼らを除外してしまう中途半端を犯すことになる。

 例えこの学校では深刻な程度まで進んだイジメ被害の児童や不登校児童がゼロであったとしても、尾木直樹自身が「ストレスがたまっていじめたくなるのは人間的な感情なんです」と言い、「心の中に、いじめをしてしまう自分がいるの。誰もがいじめたり、いじめられたりする可能性がある、全員の問題」だと指摘している以上、軽い程度から深刻な程度へと進まない保証はどこにもないことになり、尾木直樹自身がイジメの存在自体を、あるいはイジメられている生徒の存在自体を想定した授業、あるいはイジメによって不登校を誘発する事例をも鑑みた授業となっていなければ、自らの指摘を自分で口先だけの物言いに貶めるていることになる。

 尤も八方美人的なところがあるから、自らの言葉を貶めたとしても、平気でいられるに違いない。

 大体が尾木直樹の問い掛けに積極的に手を挙げ、積極的に発言できる児童はこれといったストレスからも、イジメや不登校からも離れた場所に立っているからこそできる意思表示だろうから、そのような意思表示のみを以ってリフレーミングの思考訓練が成立した授業とするのは安易に過ぎる。

 要するに無条件で成立する企てなど滅多に存在しないと指摘したように尾木直樹の授業に熱心に耳を傾けてくれる児童が一定多数存在したという条件に恵まれていたからこそ成立したリフレーミングの思考訓練であると条件付きの解釈を施さなければならない。

 尾木直樹が勧めている、「週に一回、友だちに言われてうれしかった言葉を学級会で発表して書き出してみる」アイディアが意味を持つのは学校生活にこれといった障害もなしに日々参加できている児童という条件がつく。

 心に深刻な悩みを抱えていて、学校生活に満足に参加できていない児童には奇麗事としか映らない確率が高いからである。ましてや、「みなさん一人一人が学校の主人公。先生や保護者、地域の人たちは応援団なのよ」はイジメられている子、不登校の子には言葉としての意味を成さない空虚な響きとしか耳に届かないだろう。

 尾木直樹のこのフレーズ、「みなさん一人一人が学校の主人公」は著作や講演、インタビュー、その他その他で頻繁に発信しているようだが、いつ頃から言い出したのか不明だが、2006年初版発行の尾木直樹著《「教育再生」を考える―子どもの命を救うために》の中でも、"子ども学校主人公論"をひとくさりしているが、この「オーサー・ビジット」の2019年2月の時点でも、子どもが学校の主人公とはなっていないし、現在に至っても、学校の主人公となっているとは言えない。

 なっていたなら、イジメも不登校も、その他の問題行動も、ごく限られた事例となるはずだからだ。要するに尾木直樹の"子ども学校主人公論"は有効な言葉の発信とはならずに奇麗事で終わっていることになる。

 もし尾木直樹がイジメ問題に関わるリフレーミング授業を行い、無事成功したと思い込んでいるとしたら、その成功の正体は屈託とは無縁の条件下にある児童が主たる相手だったからだと種明かししなければならない。

 尾木直樹の問い掛けに積極的に手を挙げ、積極的に発言できた児童はイジメや不登校からは離れた場所に立っていたからこそできた意思表示だったということである。

 イジメ被害者・加害者や不登校児童を頭に置かない出張授業だったからこそ、成功したという逆説を見逃してはならない。
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