現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

吉田松陰

2009-12-05 20:00:34 | 山口県と虚無僧
長州と会津は元治元年(1864) の「禁門(蛤御門)の変」以来の
仇敵である。戊辰戦争(1868)から120年の1988年、山口県側から
仲直りの申し出があったが、当時の会津若松市長高瀬喜左衛門は、
それを拒否し話題となった。高瀬喜左衛門の夫人は私の従兄姉に
あたる。司馬遼太郎の『街道を往く』(白河編)でも紹介されている。

それから早20年、戊辰140年を経て、私の心の中にもようやく
呪縛が融けてきた。一昨年は鹿児島に行き、今年も暮れに
なって、意を決して長州に行ってきたのだ。

萩で、吉田松陰の松陰神社に詣で、境内にある松下村塾を
見てきた。簡素な民家だった。

画像でみる吉田松陰の顔は、4~50代の年寄り顔だが、
松陰が武蔵野の野辺に散った時、まだ29歳。松下村塾で
伊藤博士、高杉晋作ら維新の志士を教導した時は、27、8歳
だったと知って驚く。

吉田家は、会津出身の兵学者 山鹿素行の「山鹿流兵学」師範
の家だった。松陰は11歳で、山鹿素行の『武教全書』の一章を
藩主に講義している。おそるべし。

そして、23歳の時に藩に無断で奥州へ旅し、会津にも立ち寄って
いる。会津では井深茂松(ソニーの創業者井深家の先祖)と会って
いる。藩校日新館も見学し、会津の軍制は長州と同じ「長沼流」。
会津には長州と共通する親近感を抱いたようだ。

松陰はさらに青森の突端から九州まで旅をし、ロシアが来ると
聞けば長崎に、ペリーが来た時は下田に行って密航を企てる。
知識欲旺盛でフットワークが軽く、東奔西走の上、危険人物と
して度々投獄された。故に、松下村塾で後人の育成教導にあたった
のはわずか1年余。

20代の青年が、わずか1年余の講義で、江戸幕府を瓦解させた
とは、原爆なみのすごさだ。松陰の薫陶を受けた若者たちが
その遺志を継いで倒幕を決起した。キリストも処刑されたから
こそ、信仰の対象となったように、松陰も安政の大獄で処刑
されたればこそ、名を残したか。坂本龍馬もまた然り。


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長州ファイブ

2009-12-05 19:59:57 | 山口県と虚無僧
萩の宿で、DVD『長州ファイブ』を観た。幕末に長州藩から英国に
派遣された5人の若者のストーリー。2006年に制作された映画との
ことだが知らなかった。

長州ファイブ(五傑)とは、後に総理大臣になった伊藤博文。外務大臣の
井上聞多(馨)、造幣局長の遠藤謹助、鉄道を敷設した井上勝(野村弥吉)。
造船工学を学び、東京大学工学部の礎を築いた山尾庸三の五人。

過激な攘夷論者だった彼等が、佐久間象山の「まず敵を知れ」の言葉で、
渡航を決意。幕府に見つかれば死罪の世、藩主の黙認のもと、藩から
5千両もの金を借りて密航する。4ヶ月船乗りとしてこきつかわれ、
大変な思いをしてイギリスに渡る。そこで見たものはイギリスの工業力
による繁栄と、街裏にうごめく貧民の姿。

ロンドンで、「長州藩が、外国船を攻撃し、4カ国連合艦隊から攻め
られ、幕府からも征長の兵を向けられる」というニュースを知って、
伊藤利助(後の博文)は急遽帰国し、高杉晋作とともに、和議の談判に
あたる。

それもこれも、保守的な藩の要職の抵抗を斥けて藩主を説得するのは
大変なことだった。内にも外にも敵ばかり。正に内憂外患。

薩摩藩も、藩費で秘かに19人もの留学生を送っていた。薩摩と長州の
留学生がロンドンでおち合う。薩長は禁門の変以来の仇敵だったが、
外国で、より高い見地から友情を深めあう。薩長同盟はひと足先に
ロンドンで芽生えていたのだ。

幕末から明治維新は、薩長土と会桑等幕藩側との藩と藩の戦いと
思っていたが、薩長土の中でも、ごく一部の若い下級武士たちが、
藩内の旧勢力と対決して、明治維新を推し進めたということを
あらためて認識する。


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江戸時代の国交

2009-12-05 18:38:55 | 幕末の留学生
江戸時代は鎖国により、外国との交信は全く途絶えていたと
思われがちだが、ネットで見ると、漂流して外国に渡り、
無事帰国できた者が150人もいたそうな。ジョン万次郎や
音吉、大黒屋光太夫だけではなかったのだ。帰国できず
外国の地で亡くなった者は数知れない。

大黒屋光太夫がロシアに漂流した時、すでに何人もの
日本人が流れついて亡くなっていた。中には、かの地で
結婚し、子をなした人もおり、その子孫で、日本語を
解する人もいた。その者たちから光太夫はロシア語を
学ぶことができた。

大黒屋光太夫は、日本沿岸の地理、航路、海防状況まで、
詳細をロシアに伝え、それと交換条件に帰国の便をは
かってもらえた。

さらに、シーボルトなどは、日本でも公開されていない
江戸城内の地図まで持ち出している。シーボルトが描か
せた日本人の風俗図には、虚無僧まで描かれている。

シーボルトや大黒屋光太夫、ジョン万次郎らによって、
ペリーは日本について詳細な情報を持っていたのだ。
まさに「敵を知り己を知れば」である。

幕府も、漂流者から海外の情報を逐一聴き質し記録して
いた。そして幕末には、遣欧使節団を初め、700人もの
官費留学生を送っていた。その一人が福沢諭吉。


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