長州と会津は元治元年(1864) の「禁門(蛤御門)の変」以来の
仇敵である。戊辰戦争(1868)から120年の1988年、山口県側から
仲直りの申し出があったが、当時の会津若松市長高瀬喜左衛門は、
それを拒否し話題となった。高瀬喜左衛門の夫人は私の従兄姉に
あたる。司馬遼太郎の『街道を往く』(白河編)でも紹介されている。
それから早20年、戊辰140年を経て、私の心の中にもようやく
呪縛が融けてきた。一昨年は鹿児島に行き、今年も暮れに
なって、意を決して長州に行ってきたのだ。
萩で、吉田松陰の松陰神社に詣で、境内にある松下村塾を
見てきた。簡素な民家だった。
画像でみる吉田松陰の顔は、4~50代の年寄り顔だが、
松陰が武蔵野の野辺に散った時、まだ29歳。松下村塾で
伊藤博士、高杉晋作ら維新の志士を教導した時は、27、8歳
だったと知って驚く。
吉田家は、会津出身の兵学者 山鹿素行の「山鹿流兵学」師範
の家だった。松陰は11歳で、山鹿素行の『武教全書』の一章を
藩主に講義している。おそるべし。
そして、23歳の時に藩に無断で奥州へ旅し、会津にも立ち寄って
いる。会津では井深茂松(ソニーの創業者井深家の先祖)と会って
いる。藩校日新館も見学し、会津の軍制は長州と同じ「長沼流」。
会津には長州と共通する親近感を抱いたようだ。
松陰はさらに青森の突端から九州まで旅をし、ロシアが来ると
聞けば長崎に、ペリーが来た時は下田に行って密航を企てる。
知識欲旺盛でフットワークが軽く、東奔西走の上、危険人物と
して度々投獄された。故に、松下村塾で後人の育成教導にあたった
のはわずか1年余。
20代の青年が、わずか1年余の講義で、江戸幕府を瓦解させた
とは、原爆なみのすごさだ。松陰の薫陶を受けた若者たちが
その遺志を継いで倒幕を決起した。キリストも処刑されたから
こそ、信仰の対象となったように、松陰も安政の大獄で処刑
されたればこそ、名を残したか。坂本龍馬もまた然り。
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私のメールは goo3360_february@mail.goo.ne.jp
仇敵である。戊辰戦争(1868)から120年の1988年、山口県側から
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それを拒否し話題となった。高瀬喜左衛門の夫人は私の従兄姉に
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呪縛が融けてきた。一昨年は鹿児島に行き、今年も暮れに
なって、意を決して長州に行ってきたのだ。
萩で、吉田松陰の松陰神社に詣で、境内にある松下村塾を
見てきた。簡素な民家だった。
画像でみる吉田松陰の顔は、4~50代の年寄り顔だが、
松陰が武蔵野の野辺に散った時、まだ29歳。松下村塾で
伊藤博士、高杉晋作ら維新の志士を教導した時は、27、8歳
だったと知って驚く。
吉田家は、会津出身の兵学者 山鹿素行の「山鹿流兵学」師範
の家だった。松陰は11歳で、山鹿素行の『武教全書』の一章を
藩主に講義している。おそるべし。
そして、23歳の時に藩に無断で奥州へ旅し、会津にも立ち寄って
いる。会津では井深茂松(ソニーの創業者井深家の先祖)と会って
いる。藩校日新館も見学し、会津の軍制は長州と同じ「長沼流」。
会津には長州と共通する親近感を抱いたようだ。
松陰はさらに青森の突端から九州まで旅をし、ロシアが来ると
聞けば長崎に、ペリーが来た時は下田に行って密航を企てる。
知識欲旺盛でフットワークが軽く、東奔西走の上、危険人物と
して度々投獄された。故に、松下村塾で後人の育成教導にあたった
のはわずか1年余。
20代の青年が、わずか1年余の講義で、江戸幕府を瓦解させた
とは、原爆なみのすごさだ。松陰の薫陶を受けた若者たちが
その遺志を継いで倒幕を決起した。キリストも処刑されたから
こそ、信仰の対象となったように、松陰も安政の大獄で処刑
されたればこそ、名を残したか。坂本龍馬もまた然り。
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