現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

前原一誠

2009-12-07 23:54:08 | 会津藩のこと

今回の萩行きの目的のひとつが「前原一誠」の地元での
評価を知ることだった。

円政寺という寺を訪ねた。住職が熱心に話しをしてくれた。
伊藤博文は幼少の頃この寺に預けられていた。そして、
高杉晋作、木戸孝允はこの寺の近く。3人は幼い頃からの
遊び友達で、共に松下村塾に通ったのだと。

子供の頃からの遊び仲間が、維新の回天を成し遂げたのだ。

では、同じく松下村塾の前原一誠はどうだったのだろうか。
前原は、師の吉田松陰から「誠実さ人に過る」と愛された。
戊辰戦争では会津征討越後口総督付の参謀となったが、
会津藩の一ヶ月に及ぶ籠城戦に、感動を覚えたたという。

そして戦後は会津藩士とその家族の救済に尽力する。しかし、
禁門の変以来、度々辛酸を舐めさせられてきた木戸孝允は、
前原の会津贔屓(ひいき)には快く思っていなかったようだ。

生真面目で誠実な人柄の前原一誠は、明治新政府の権力争い
の中で、次第に孤立していった。

軍制改革を担当するも、「職業軍人による軍隊」を唱え、
村田蔵六(大村益次郎)らが提唱する「国民皆兵・徴兵制度」
と対立し、決然、萩に帰り隠遁する。「国民皆兵」は民を
犠牲にするもの。まさに太平洋戦争の悲劇を予見していた。

萩では、かつて高杉晋作の呼びかけに応じて『奇兵隊』に
はいり、戊辰戦争を戦った「奇兵隊崩れ」がたくさんいた。
彼等にしてみれば、命をかけて維新の大業を成したのは
オレたちだというのに、明治御一新の世となっても「士族」
にはなれず、生活の保障もなかった。

不平不満で暴れれば、直ちに捕らえられ、多くの仲間が処刑
された。結局、戊辰戦争では後方にいた一部の連中だけが、
旨い汁を吸って贅沢三昧の生活をしている。という新政府への
不満は限界に達していた。彼等は下野してきた前原一誠に
期待をかけたのである。前原は奥平とともに、不平士族
2,000名に担ぎ上げられ、「君側の奸を除かん」と乱を
起こした。「萩の乱」である。

前原一誠の蜂起には、会津藩士も多く同調し、東京で
『思案橋事件』を起こした。そして『秋月の乱』。しかし
いずれも新政府が募集した警察隊によって、あっけなく
潰されてしまう。そしてこれが翌明治10年の西郷隆盛の
『西南戦争』につながっていくのである。

私は前原一誠の「萩の乱」を、時代に乗り遅れた「不平
士族の乱」としてカンタンに片付けていたが、「民のための
政治であるべき」という吉田松陰の遺志を忠実に受け継いだ
のが前原一誠だったという評価のあることを知った。

前原一誠は、権謀術数うずまく政界では失脚者だが、
名前の通り、「誠心誠意至誠の人」だったのだ。


秋山好古と柴五郎

2009-12-07 10:48:47 | 坂の上の雲
司馬遼太郎の『坂の上の雲』には登場してこないのが残念だが、
秋山好古の陸軍士官学校の同期生に、会津藩士族の柴五郎がいた
のである。
柴五郎の『ある明治人の記録』によれば、戊辰戦争の時8歳。戦後
下北半島で悲惨な生活を送りながらも、雪の中何里もの道を素足で
学校に通い、明治6年、14歳で、陸軍幼年学校にはいる。その時の
教官はフランス人ばかりで、試験も全部フランス語。歴史など、
フランスのルイ王朝やナポレオンの事跡をフランス語で解答すると
いうものだった。それが陸軍士官学校では、ドイツ式となり、今度は
授業はすべてドイツ語となった。そんな話を思い浮かべながら、
NHK『坂の上の雲』を見る。

柴五郎は、薩長閥の軍部で、会津藩ゆえに不遇な扱いを受け、北京で
義和団事件をみごと解決したにもかかわらず、以後も閑職に追いやられて
いたという。秋山好古と出世を比較してみた。

最終的に、陸軍大将になったのは、秋山が大正5年、柴は大正8年だった。
ちなみに、宮崎県都城(島津)出身の上原勇作は、大正4年に陸軍大将、
大正10年には元帥に昇格している。


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柴五郎と秋山好古の年表比較

2009-12-07 10:47:40 | 坂の上の雲
柴 五郎 1860年生 明治元年(1868)時は8歳。

1873年(明治 6年) 3月 陸軍幼年学校に入校
1877年(明治10年) 5月 陸軍士官学校に進む
1880年(明治12年) 12月 士官学校を卒業
1881年(明治14年) 7月 大阪鎮台山砲兵第4大隊小隊長に就任
1883年(明治16年) 2月 近衛砲兵大隊小隊長
1884年(明治17年) 7月 陸軍中尉、
            10月 清国差遣を命ぜられ福州・北京に駐在する。
1889年(明治21年) 11月 陸軍大尉に進級し、近衛砲兵連隊中隊長に進む
1890年(明治23年) 5月 陸軍士官学校教官となる
1894年(明治27年) 11月 陸軍少佐に進級し、大本営参謀。
1894年(明治27年) 4月 日清戦争に出征し、5月に帰還
1900年(明治33年) 3月 清国公使館附を命ぜられ、着任間もなく義和団事件
1919年(大正8年)    陸軍大将 

秋山好古 1859年生   

1877年(明治10年 )5月 陸軍士官学校(旧制3期生)に入学
1879年(明治12年)12月 陸軍士官学校卒業。陸軍騎兵少尉。
1880年(明治13年) 2月 東京鎮台騎兵第大隊付 
              7月 東京鎮台騎兵第1大隊小隊長に異動。
1883年(明治16年) 2月 陸軍騎兵中尉。陸軍大学校(1期)へ進む
              3月 陸軍士官学校騎兵科教官に異動
1886年(明治19年) 6月 陸軍騎兵大尉。
1887年(明治20年) 7月 サン・シール陸軍士官学校に留学した久松定謨の
           補導役としてフランスへ渡り、騎兵戦術の習得に努める
1891年(明治24年)12月 帰国。 12月騎兵第1大隊中隊長に異動。
1892年(明治25年) 4月 陸軍士官学校馬術教官に異動。 11月少佐
1894年(明治27年) 日清戦争に従軍。
1904年(明治37年) 日露戦争に騎兵第1旅団長として出征。第二軍に属して
     騎兵戦術を駆使しロシア軍と戦う。「日本騎兵の父」とも呼ばれた。
1916年(大正5年)    陸軍大将。

坂の上の雲

2009-12-07 06:56:14 | 坂の上の雲
私の父は、福島県一の富豪の家に生まれたが、“足るを
知り、質素倹約の人”で、遺品はほとんど残さなかった。
父の収入は、母と私、妹ですべて食い潰してしまったのだ。

わずかな父の遺品の中に『坂の上の雲』全6冊があった。
NHKで『坂の上の雲』が始まり、テレビは見ない私も、
父の遺言のように思えて見ている。

司馬遼太郎の原作にかなり忠実に描いており、明治という
時代背景を実によく復元していることに感心する。会津の
「武家屋敷」などでもロケしているようだ。

秋山真之(本木雅弘)の兄、秋山好古役は、『天地人』で上
杉謙信役だった 阿部寛。「謙信」以上にキレがあって格好
いい。

香川照之は、映画『剣岳』では、強力(ごうりき)役にしては、
あまりにも貧相だった。今度は、正岡子規を演じている。
子規のイメージとは違うが、ま、面白いキャラだ。正岡子規は
東大中退、香川照之は“東大卒”と知って、驚き桃の木。

明治の草莽期の志士たちの気概には興奮する。昨年、松山に
行き、先日山口を回ってきただけに、興味を持って見ている。


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