今回の旅は実に実に有意義だった。これまで
戊辰戦争は 薩長土と会津 という藩と藩の争いのように
とらえていたが、長州の中でもさまざまな確執、争いが
あったと知る。禁門の変から わずか4年の めまぐるしい
転回は、ほんの一握りの若者の個人プレーだったのだ。
会津と長州は仇敵とされてきたが、意外にも、会津藩の
秋月梯次郎は萩に行き、明倫館で講義をしていた。
そして吉田松陰は会津まで来、日進館を見学していた。
長州の兵学は、会津出身の山鹿素行の「山鹿流」。軍制は
長州も会津も「長沼流」。宝蔵院流槍術でも交流していた。
禁門の変で西本願寺に逃げ込んだ長州藩士を救ったのは
会津の傑僧「善順」。そして「善順」の周旋で、戊辰戦後
の会津の窮状を救ったのは長州の奥平謙輔、前原一誠ら
だった。
明治9年の「萩の乱」では、会津藩士らも呼応して兵を
挙げた。「思案橋事件」である。
こうして、長州と会津。そこは日本人同士。解りあえる
ものがあったのだ。
私の中で、長州に対するわだかまりが一挙に瓦解した。
一昨年は鹿児島に行ってきた。まさに敵地に赴く気持ち。
だが、長州人奥平謙輔に庇護された山川健次郎の妹捨松は
アメリカ留学の後、薩摩の大山巌元帥の妻となった。
維新の志士も多く外国に渡って視野を広め、攘夷の愚かさに
気づかされた。私も、より高い境地に立てたようだ。
これで、47都道府県のうち46まで行った。最後残すは
熊本県のみ。阿蘇は行ったが熊本城はまだ見ていない。
来年は熊本と天草へ行こう。
戊辰戦争は 薩長土と会津 という藩と藩の争いのように
とらえていたが、長州の中でもさまざまな確執、争いが
あったと知る。禁門の変から わずか4年の めまぐるしい
転回は、ほんの一握りの若者の個人プレーだったのだ。
会津と長州は仇敵とされてきたが、意外にも、会津藩の
秋月梯次郎は萩に行き、明倫館で講義をしていた。
そして吉田松陰は会津まで来、日進館を見学していた。
長州の兵学は、会津出身の山鹿素行の「山鹿流」。軍制は
長州も会津も「長沼流」。宝蔵院流槍術でも交流していた。
禁門の変で西本願寺に逃げ込んだ長州藩士を救ったのは
会津の傑僧「善順」。そして「善順」の周旋で、戊辰戦後
の会津の窮状を救ったのは長州の奥平謙輔、前原一誠ら
だった。
明治9年の「萩の乱」では、会津藩士らも呼応して兵を
挙げた。「思案橋事件」である。
こうして、長州と会津。そこは日本人同士。解りあえる
ものがあったのだ。
私の中で、長州に対するわだかまりが一挙に瓦解した。
一昨年は鹿児島に行ってきた。まさに敵地に赴く気持ち。
だが、長州人奥平謙輔に庇護された山川健次郎の妹捨松は
アメリカ留学の後、薩摩の大山巌元帥の妻となった。
維新の志士も多く外国に渡って視野を広め、攘夷の愚かさに
気づかされた。私も、より高い境地に立てたようだ。
これで、47都道府県のうち46まで行った。最後残すは
熊本県のみ。阿蘇は行ったが熊本城はまだ見ていない。
来年は熊本と天草へ行こう。