2/26 中日新聞 五木寛之『親鸞』
當麻御前が、親鸞の身代わりとなって死んだ。
矢七が、その亡骸を鴨川に流した。号泣する親鸞。
怒りとも悲しみともつかぬ感情が爆発した。
「やめんかい。坊主を集めて、盛大な葬式でも
やったらええんか。ひと晩中ありがたいお経でも
あげたらええんか。今の世の中、生きて地獄、死
んで地獄や。もしあの女がかわいそうと思うの
やったら、わしらみんなを救う道でも考えてみい。
範宴(後の親鸞)、おまえそのために坊さんに
なったんとちがうか」
矢七の声は強烈だ。僧侶があげるお経は、悲しみに
打ちひしがれる遺族の慰めにもならない。
私の尺八の門弟、佐々木さんは、もう15年も前、
奥さんをガンで亡くした。娘さんはまだ中学生。
葬儀屋が手配したお坊さんは、『般若心経』を
あげるのもへたくそ。私の方がうまい。みなあきれた。
葬儀も終わって、酒と料理が振舞われた。酒ぐせの
悪い彼。奥さんを亡くした悲しみもあって深酒し、
坊さんのどこか気に障ったことがあって、怒鳴り
散らし、さんざん悪態をついて、ついに追い出して
しまった。
彼の気持も痛いほど解った。カタチだけの葬儀は、
遺族の心をさらに傷つける。頼まれ坊さんの読経
より、私の吹く『手向け』に、何人の人が涙を流し
たことか。
愛する人を失った親鸞の悲しみは、お経で癒される
のだろうか。このシーンを映画にするなら、バックは
尺八の『手向け』しかないと思える。ピアノもチェロも
尺八には及ぶまい。
「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。
「一休と虚無僧」で別にブログを開いています。
![日記@BlogRanking](http://img.diary-ranking.com/banner03s.gif)
當麻御前が、親鸞の身代わりとなって死んだ。
矢七が、その亡骸を鴨川に流した。号泣する親鸞。
怒りとも悲しみともつかぬ感情が爆発した。
「やめんかい。坊主を集めて、盛大な葬式でも
やったらええんか。ひと晩中ありがたいお経でも
あげたらええんか。今の世の中、生きて地獄、死
んで地獄や。もしあの女がかわいそうと思うの
やったら、わしらみんなを救う道でも考えてみい。
範宴(後の親鸞)、おまえそのために坊さんに
なったんとちがうか」
矢七の声は強烈だ。僧侶があげるお経は、悲しみに
打ちひしがれる遺族の慰めにもならない。
私の尺八の門弟、佐々木さんは、もう15年も前、
奥さんをガンで亡くした。娘さんはまだ中学生。
葬儀屋が手配したお坊さんは、『般若心経』を
あげるのもへたくそ。私の方がうまい。みなあきれた。
葬儀も終わって、酒と料理が振舞われた。酒ぐせの
悪い彼。奥さんを亡くした悲しみもあって深酒し、
坊さんのどこか気に障ったことがあって、怒鳴り
散らし、さんざん悪態をついて、ついに追い出して
しまった。
彼の気持も痛いほど解った。カタチだけの葬儀は、
遺族の心をさらに傷つける。頼まれ坊さんの読経
より、私の吹く『手向け』に、何人の人が涙を流し
たことか。
愛する人を失った親鸞の悲しみは、お経で癒される
のだろうか。このシーンを映画にするなら、バックは
尺八の『手向け』しかないと思える。ピアノもチェロも
尺八には及ぶまい。
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