たかさんがブログで褒めていたので読んでみました。なるほど、去年、評価が高かっただけあって面白い。
「ぎゅうぎゅう詰めの殺意」→「Xの悲劇」 「極めて陽気で呑気な凶器」→「Yの悲劇」 「途切れ途切れの誘拐」→「Zの悲劇」 「片桐大三郎最後の季節」→「ドルリー・レーン最後の事件」というように対応している。
エラリー・クイーン版のドルリー・レーンは、聴力を失って引退したシェイクスピア俳優だが、倉知淳版では、聴力を失って引退した歌舞伎出身の時代劇スター・片桐大三郎が探偵役になっている。彼の耳となって、パソコンでキーボードをたたき、大三郎のタブレット端末に文字を送るのは、のの子。彼女もかわいい。
ただ…、時代劇スターというのが、今の若い人にはピンと来ないんじゃないかな。名前が思い浮かばないよね。それだったら、歌舞伎俳優にした方が良いんじゃないかな? いや、能役者の方が、格調が高いかも。
キャラで読ませる作品かと思ったが、そうではなく本格物として優れている。特に、2作目、3作目。
2作目の「極めて陽気で呑気な凶器」は、「Yの悲劇」と同じくウクレレが凶器だが、なんでこんな物を凶器に?といった疑問や、矛盾だらけの状況を、キレイに解き明かしてくれる。ああ、こうすればピタッとパズルはハマるのだと、読後スッキリする作品。
3作目の「途切れ途切れの誘拐」も、ベビーシッターを殺し、赤ん坊を誘拐した犯人からの身代金請求の電話が何度も途切れる、という見方によればコミカルな状況がなぜ起こったのか? それを解き明かす過程が見事。
ただ、読後感は悪い。最低な気分。犯人は、自分の命で罪を償うしかない犯罪。
読んだはしから内容を忘れてしまう私だけど、「Xの悲劇」「Yの悲劇」は覚えている。特に「Yの悲劇」は名作中の名作だと思う。でも「Zの悲劇」はキレイさっぱり忘れている。「ドルリ・レーン最後の事件」に至っては未読。いけませんねぇ。こういった古典は、しっかり押さえておかないと。
「ぎゅうぎゅう詰めの殺意」→「Xの悲劇」 「極めて陽気で呑気な凶器」→「Yの悲劇」 「途切れ途切れの誘拐」→「Zの悲劇」 「片桐大三郎最後の季節」→「ドルリー・レーン最後の事件」というように対応している。
エラリー・クイーン版のドルリー・レーンは、聴力を失って引退したシェイクスピア俳優だが、倉知淳版では、聴力を失って引退した歌舞伎出身の時代劇スター・片桐大三郎が探偵役になっている。彼の耳となって、パソコンでキーボードをたたき、大三郎のタブレット端末に文字を送るのは、のの子。彼女もかわいい。
ただ…、時代劇スターというのが、今の若い人にはピンと来ないんじゃないかな。名前が思い浮かばないよね。それだったら、歌舞伎俳優にした方が良いんじゃないかな? いや、能役者の方が、格調が高いかも。
キャラで読ませる作品かと思ったが、そうではなく本格物として優れている。特に、2作目、3作目。
2作目の「極めて陽気で呑気な凶器」は、「Yの悲劇」と同じくウクレレが凶器だが、なんでこんな物を凶器に?といった疑問や、矛盾だらけの状況を、キレイに解き明かしてくれる。ああ、こうすればピタッとパズルはハマるのだと、読後スッキリする作品。
3作目の「途切れ途切れの誘拐」も、ベビーシッターを殺し、赤ん坊を誘拐した犯人からの身代金請求の電話が何度も途切れる、という見方によればコミカルな状況がなぜ起こったのか? それを解き明かす過程が見事。
ただ、読後感は悪い。最低な気分。犯人は、自分の命で罪を償うしかない犯罪。
読んだはしから内容を忘れてしまう私だけど、「Xの悲劇」「Yの悲劇」は覚えている。特に「Yの悲劇」は名作中の名作だと思う。でも「Zの悲劇」はキレイさっぱり忘れている。「ドルリ・レーン最後の事件」に至っては未読。いけませんねぇ。こういった古典は、しっかり押さえておかないと。
ボクはレーン四部作は全て読んだのですが、読んだのが小学校高学年から中学生ぐらいだったので、ほぼ内容覚えてないんですよね(^^;。
片桐大三郎は、三船敏郎をモデルにした感じでしたね。
だって、「世界のコミカド」監督は、「世界のクロサワ」をモデルとしてますもの。
ただ、三船敏郎は歌舞伎出身じゃないでしょう? だから私は、萬屋錦之助をイメージしました。ほら、『子連れ狼』の拝一刀をやった役者さん。
今の若い人だったら、絶対知らないよね。