これも有名な短編。作者36歳の大正9年に発表された。明治後半か大正前期のお話だろうが、江戸情緒が色濃く残っていて素晴らしい。
秤屋のお店に奉公している仙吉は、番頭さんたちのツウらしい寿司談義を聞きながら、そういうお店の暖簾をくぐれる身分になりたいもんだと、密かに思っていた。
ある日、電車の往復代をもらってお使いに出された仙吉は、帰りは歩いて帰ることにして、浮いた4銭で屋台のお寿司を1つだけ食べようと屋台の暖簾をくぐる。
3つほど並んでいるまぐろ寿司の一つをつまむと、店の親父が「ひとつ6銭だよ」と言った。お金が足りない。仙吉は黙ってその寿司をもどし、しょんぼりと暖簾の外へ出ていく。
それをたまたま目撃した金持ちが可哀想に思って覚えていた。
後日、その金持ちは秤を買おうと入った店で仙吉を見かける。もちろん、仙吉の方は全く覚えていない知らないお客さんだ。金持ちは仙吉に秤を途中まで運ばせるついでに、立派な寿司屋に連れていき、自分は用があるからと先に帰り、仙吉にお寿司をたらふく食べさせる。
この金持ちは、貴族院議員だという。いかにも良家のボンボンといった気弱な慈善家で、自分の行為を大喜びで吹聴し肯定する事をしない。自分も小僧(仙吉)も満足しているはずだが、どうも変な嫌な気持ちだと感じてしまう。育ちの良い人なのだ。こういった人間の心理描写が細かい。
一方、仙吉の方は、あのお金持ちは神様かもしれない、そうでなければ仙人かお稲荷様だと考えた。仙吉は、悲しい時苦しい時に必ずあの神様を思い出し、心が慰められた。困難に立ち向かう事が出来た。
ああ、いい話だよね。何十年も読み続けられるだけあるよ。
秤屋のお店に奉公している仙吉は、番頭さんたちのツウらしい寿司談義を聞きながら、そういうお店の暖簾をくぐれる身分になりたいもんだと、密かに思っていた。
ある日、電車の往復代をもらってお使いに出された仙吉は、帰りは歩いて帰ることにして、浮いた4銭で屋台のお寿司を1つだけ食べようと屋台の暖簾をくぐる。
3つほど並んでいるまぐろ寿司の一つをつまむと、店の親父が「ひとつ6銭だよ」と言った。お金が足りない。仙吉は黙ってその寿司をもどし、しょんぼりと暖簾の外へ出ていく。
それをたまたま目撃した金持ちが可哀想に思って覚えていた。
後日、その金持ちは秤を買おうと入った店で仙吉を見かける。もちろん、仙吉の方は全く覚えていない知らないお客さんだ。金持ちは仙吉に秤を途中まで運ばせるついでに、立派な寿司屋に連れていき、自分は用があるからと先に帰り、仙吉にお寿司をたらふく食べさせる。
この金持ちは、貴族院議員だという。いかにも良家のボンボンといった気弱な慈善家で、自分の行為を大喜びで吹聴し肯定する事をしない。自分も小僧(仙吉)も満足しているはずだが、どうも変な嫌な気持ちだと感じてしまう。育ちの良い人なのだ。こういった人間の心理描写が細かい。
一方、仙吉の方は、あのお金持ちは神様かもしれない、そうでなければ仙人かお稲荷様だと考えた。仙吉は、悲しい時苦しい時に必ずあの神様を思い出し、心が慰められた。困難に立ち向かう事が出来た。
ああ、いい話だよね。何十年も読み続けられるだけあるよ。
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