二百十日とは、立春から数えて210日目の日の事で、毎年9月1日頃に当たる。台風が多い、あるいは風が強くて、農家には厄日といわれているらしい。
阿蘇見物に来た若い男の二人連れが、山が荒れているのに噴火口を見ようとして山に登り、天候が悪くて大変な思いをする話。
このラブリーな二人組がとてもユーモラスで、まるで『東海道中膝栗毛』の弥次さん喜多さんみたい。1人は圭さんといって、体格が良く大ぼら吹きで天下国家を意見し、華族とか金持ちを非難し、公正な世の中にしたいと息巻いている。小型の西郷隆盛のようなイメージ?
もう1人は碌さんといって、男としては小柄で、ちょっと金持ちで良家の軟弱なお坊ちゃんみたい。圭さんの天下国家論を横合いから茶化す。つまり2人はウマがあうんだ。
その2人が阿蘇の山のふもとの宿に泊まって、宿の中居さんをからかい、お喋りしたり温泉に入ったり地元の料理を食べたりして、明日は阿蘇の噴火口を見ようと計画している。乗り気なのは圭さんの方で、碌さんは「もっとご馳走が食べたい、足が痛い、マメができた、もう歩くのはイヤダ」などなど文句を言っている。
そうそう、明治のお宿なので襖1枚で仕切ってあるだけなので、隣の部屋の話が筒抜け。(ということは自分たちの話も隣に筒抜け)この時も、圭さん碌さんの隣の部屋では「竹刀を落とした」だの「小手を取られた」だの剣道の話でもちきりで、その話を聞いた圭さん碌さんも「竹刀」「小手」で盛り上がった。
そういった生活騒音で揉め事が起きる訳でもなく、お互いこんなもんだと思ってる。平和なものだ。こういう所を現代人は見習わなければ…ね。
夏目漱石の他の作品も、初期の作品は全体的にユーモラス。「吾輩は猫である」も「坊っちゃん」も声を出して笑えるほど面白い。でも、漱石本人は、そんなに愉快な人ではなかったようで…。人間って難しいね。
阿蘇見物に来た若い男の二人連れが、山が荒れているのに噴火口を見ようとして山に登り、天候が悪くて大変な思いをする話。
このラブリーな二人組がとてもユーモラスで、まるで『東海道中膝栗毛』の弥次さん喜多さんみたい。1人は圭さんといって、体格が良く大ぼら吹きで天下国家を意見し、華族とか金持ちを非難し、公正な世の中にしたいと息巻いている。小型の西郷隆盛のようなイメージ?
もう1人は碌さんといって、男としては小柄で、ちょっと金持ちで良家の軟弱なお坊ちゃんみたい。圭さんの天下国家論を横合いから茶化す。つまり2人はウマがあうんだ。
その2人が阿蘇の山のふもとの宿に泊まって、宿の中居さんをからかい、お喋りしたり温泉に入ったり地元の料理を食べたりして、明日は阿蘇の噴火口を見ようと計画している。乗り気なのは圭さんの方で、碌さんは「もっとご馳走が食べたい、足が痛い、マメができた、もう歩くのはイヤダ」などなど文句を言っている。
そうそう、明治のお宿なので襖1枚で仕切ってあるだけなので、隣の部屋の話が筒抜け。(ということは自分たちの話も隣に筒抜け)この時も、圭さん碌さんの隣の部屋では「竹刀を落とした」だの「小手を取られた」だの剣道の話でもちきりで、その話を聞いた圭さん碌さんも「竹刀」「小手」で盛り上がった。
そういった生活騒音で揉め事が起きる訳でもなく、お互いこんなもんだと思ってる。平和なものだ。こういう所を現代人は見習わなければ…ね。
夏目漱石の他の作品も、初期の作品は全体的にユーモラス。「吾輩は猫である」も「坊っちゃん」も声を出して笑えるほど面白い。でも、漱石本人は、そんなに愉快な人ではなかったようで…。人間って難しいね。
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