日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

日本らしい抗議を!-聖火リレーとチベット-

2008-04-10 20:19:34 | 徒然
オリンピック聖火リレーが、欧州→米国へと引き継がれていくに従い、チベット族に対する人権擁護の声が日に日に高まっている。
今では聖火リレーそのものが、聖火リレーではなくなってきているような状況を呈している。
サンフランシスコでは、奇策ともいえそうなコース変更と短縮によって、ロンドンやパリのような過激な抗議は無かったようなのだが、一部では「そこまでして『聖火リレー』というカタチにこだわるのか?」という、疑問の声まであがっているようだ。
体面を重んじる中国としては、内容はどうであれ「聖火リレーを行った」という、事実のほうが大切なのだろう。

そんな中、ダライ・ラマ14世が来日した。
インドから米国へ向かう乗り継ぎのため、と言うコトだったのだが、記者会見で見せたその姿はいつもと変わらない穏やかなモノだった。
この記者会見を見ながら思ったことがある。
それは4〇年前銃弾に倒れた、キング牧師の「私には夢がある」(引用は、「キング牧師の部屋」というサイトから)という言葉だ。
そしてこの「私には夢がある」という演説は、オリンピックとも深いかかわりがあるのを思い出したのだ。

1996年のアトランタ・オリンピックの開会式の時、このキング牧師の演説が会場に流れたのを覚えていらっしゃる方も多いのではないだろうか?
「私には夢がある」のスピーチの中には、「自由の鐘を鳴らそうではないか」と呼びかける一文がある。
今まさにチベット族の人たちにとって必要なことは、自由という人権なのではないだろうか?
言論や信仰の自由であり、自主的な行政運営や伝統的文化の継承といった、当たり前に保障されていないコトを、訴えているように感じるのである。

来日記者会見で、ダライ・ラマ14世は「非暴力」ということ共に、「自由であること」を繰り返し訴えていた。
25日に日本に到着し、26日に長野で予定されている聖火リレーでは、人権団体などが抗議行動を予定しているらしい。
「中国政府を批難する」コトは、簡単だろう。
闇雲に中国政府を批難しても、彼らの思考には響かないような気がするのだ。
欧州のような、直接的行動ではなく日本全体が「私たちには夢がある。すべての自由が保障されている世界となること!」、そして「私たちはいつも、チベット族の人たちの(心の)そばにいる」と、イロイロな所で言いつづけるという方法だ。
英語の得意な方は、キング牧師の思想・哲学を今回のチベットの人たちに向けたメッセージを自分なりにアレンジし、メッセージとして世界にむけて発信できるだろう。
ダンマクでも良いだろう。
出発点の善光寺に、宗教・宗派を超えた関係者が集まり声明というカタチで訴える、というのも方法だろう。
Tシャツなどにプリントして、着るなどの方法もあるかも知れない。
殴り合ったり、聖火を奪うためにランナーに危害を加えるのではない。
ただただ、静かに様々な場所でメッセージを伝えつづけていくのだ。
面子を重んじる国だからこそ、その思考を逆手に取るような手段が必要だと思うのだ。

小さく静かな漣が大きなうねりとなった時、日本が世界を驚かせることが出来るのではないだろうか?
と言っても、拙ブログでは影響力も何もないのだが・・・(自虐的オチ)。


地域遺産-くいだおれの閉店-

2008-04-10 11:27:34 | アラカルト
大阪・道頓堀にある「くいだおれ」が、この夏閉店することが決まった。
その背景には、経営不振ということがあったようなのだが、残念な気がする。
というよりも、あの「くいだおれ太郎」というキャラクターは、道頓堀というよりも大阪の象徴なのではないだろうか?

道頓堀という地域には、雑多な賑わいの中に独特の雰囲気があったように思う。
当然、東京的な雰囲気ではないし、同じ大阪でも梅田とも違う「道頓堀」があったように感じる。
その「顔」が、まぎれもない「くいだおれ太郎」だったのではないだろうか?

大阪をよく知らない人にとって、梅田の町並みよりも道頓堀の「くいだおれ太郎」や、「グリコ」、「かに道楽の動く蟹」などが、大阪を象徴するモノとして認知されているような気がするのだ。
いわゆる「コテコテの大阪」というイメージと雰囲気が一番伝わる「大阪らしい場所」が道頓堀であり、その中心が「くいだおれ」のような気がするのである。

今回の閉店の背景には、道頓堀一帯の客層の変化とその変化に合わせた、商店や飲食店の変化だという指摘もある。
ここ10年ほど道頓堀に行っていないので、今の道頓堀の姿は知らない。
バブル以前の道頓堀には、中座などの芝居小屋や法善寺などがあり、そこに集う人たちが買い物をしたり、飲食をしたりする、地域全体がアミューズメント的要素を持っていたように思う。
「道頓堀」という「まち」そのものが、庶民にとって「ハレ」の場であり、娯楽の場でもあったのではないだろうか?

その様な「まち」には、文化があったと思うだ。
ところが、その文化をお手軽経済が蹴散らし、今また地域の遺産ともいえるお店を閉店へと追いやっているようにも思える。
お手軽経済というのは、目先のお金儲けに血眼になり、地域に根付くようなビジネスビジョンを持たない商売を指す、私が勝手に作った言葉なのだが、今や日本のアチラコチラにあるのはこのような「お手軽経済」が幅を利かせているような気がする。

「くいだおれ」の閉店を、時代の趨勢と言ってしまうのは簡単だ。
だが、「くいだおれ」が道頓堀というまちで創ってきた文化も、なくしてしまってよいのだろうか?
バブル以降、日本人は「お手軽経済」を優先する余り、長い時間をかけ創ってきた地域独特の文化を捨ててしまったよう気がする。

せめて「くいだおれ太郎」だけは、道頓堀の象徴としてあの場所に残して欲しいと思うのだ。
名古屋に居る私ですら、そんな思いなのだから大阪人の思いは複雑なのではないだろうか?