昨日行われた長野での聖火リレーは、逮捕者6名を出し終わった。
とはいっても、欧米で見られたような過激な内容では無かったように思う。
生卵が投げつけられたといっても、97年のフランスW杯予選で日本がUAEと引き分けた国立競技場の時ほどではなかったことを考えれば、「騒動に便乗した」という気がする。
このような輩は、圧制化された国以外ではいつの時代にもいるので、ある程度は想定内だったのではないだろうか。
それより気になったのは、「ここはどこ?」という印象があった中国の赤い国旗ばかりが目立った沿道だ。
10年前の長野オリンピックの聖火リレーのときは、長野オリンピックの旗とオリンピックの旗が盛んに沿道から振られていたような印象があるのだが、今回は中国の旗だけが目立った聖火リレーだった。
そこから感じ取れるのは、今の中国の現実的な姿だ。
「オリンピック開催で、中国国内だけではなく世界各国にいる留学生たちも気分的に高揚しているのだろう・・・」という範疇ではなく、世界に対しての敬意という意識の低さを感じたのだ。
「中華思想」といってしまえば、それまでなのかもしれないのだが、聖火リレーが行われている国々に対して、自分たちの国をアピールする視点が、余りにもなさ過ぎる気がしたのである。
中国という国が、「オリンピック」という国際舞台デビューをチャンスと捉えるのなら、動員した留学生に中国国旗だけを振らせ、「中国は一つ」などというシュプレヒコールをさせるよりも、オリンピックの象徴である五輪の旗や日本や聖火リレーをしてきた国々の旗を振らせ「世界は、一つ」と言わせるほうが、遥かに効果的だったと思うのだ。
あの熱狂的に中国国旗を振る留学生たちの姿に、ドン引きした日本人は多かったのではないだろうか?
と、同時にネガティブイメージを持ってしまった人もいたのでは?と、思うのだ。
もう一つ感じたことは、中国に対してではなくメディアに対してだ。
聖火リレーばかりを取り上げたメディアが殆どだったようだが、何故スタート地点を辞退した善光寺を積極的に取り上げなかったのだろう。
善光寺で行われた追悼供養は、今回の騒動で命を失ったチベットの人たちだけではなく、同様に命を失った中国の人に対しても行われていた。
それは日本政府が中国に対して気にしているような「政治的行動」ではなく、亡くなった人たちに対して、平和や安寧を願う法要だったはずだ。
むしろ善光寺で行われたような法要こそが、今、日本から発信すべき「長野メッセージ」だったのではないだろうか?
ふがいない政府の対応に対して、善光寺が発してメッセージは静かだが力強いものだった。
その様な行動こそが、国際社会で日本が求められている姿なのではないだろうか?
それを積極的に取り上げようとしないメディアに対して、本質を見て欲しいという気がしたのだった。
今回の聖火リレーで、「オリンピックが楽しみ!」と、思う人がどれだけ増えたのだろう?
むしろスポーツに隠れた「ナショナリズム」を感じ取り、嫌気がさした人のほうが多かったのではないだろうか?
そんな気がした聖火リレーだった。
とはいっても、欧米で見られたような過激な内容では無かったように思う。
生卵が投げつけられたといっても、97年のフランスW杯予選で日本がUAEと引き分けた国立競技場の時ほどではなかったことを考えれば、「騒動に便乗した」という気がする。
このような輩は、圧制化された国以外ではいつの時代にもいるので、ある程度は想定内だったのではないだろうか。
それより気になったのは、「ここはどこ?」という印象があった中国の赤い国旗ばかりが目立った沿道だ。
10年前の長野オリンピックの聖火リレーのときは、長野オリンピックの旗とオリンピックの旗が盛んに沿道から振られていたような印象があるのだが、今回は中国の旗だけが目立った聖火リレーだった。
そこから感じ取れるのは、今の中国の現実的な姿だ。
「オリンピック開催で、中国国内だけではなく世界各国にいる留学生たちも気分的に高揚しているのだろう・・・」という範疇ではなく、世界に対しての敬意という意識の低さを感じたのだ。
「中華思想」といってしまえば、それまでなのかもしれないのだが、聖火リレーが行われている国々に対して、自分たちの国をアピールする視点が、余りにもなさ過ぎる気がしたのである。
中国という国が、「オリンピック」という国際舞台デビューをチャンスと捉えるのなら、動員した留学生に中国国旗だけを振らせ、「中国は一つ」などというシュプレヒコールをさせるよりも、オリンピックの象徴である五輪の旗や日本や聖火リレーをしてきた国々の旗を振らせ「世界は、一つ」と言わせるほうが、遥かに効果的だったと思うのだ。
あの熱狂的に中国国旗を振る留学生たちの姿に、ドン引きした日本人は多かったのではないだろうか?
と、同時にネガティブイメージを持ってしまった人もいたのでは?と、思うのだ。
もう一つ感じたことは、中国に対してではなくメディアに対してだ。
聖火リレーばかりを取り上げたメディアが殆どだったようだが、何故スタート地点を辞退した善光寺を積極的に取り上げなかったのだろう。
善光寺で行われた追悼供養は、今回の騒動で命を失ったチベットの人たちだけではなく、同様に命を失った中国の人に対しても行われていた。
それは日本政府が中国に対して気にしているような「政治的行動」ではなく、亡くなった人たちに対して、平和や安寧を願う法要だったはずだ。
むしろ善光寺で行われたような法要こそが、今、日本から発信すべき「長野メッセージ」だったのではないだろうか?
ふがいない政府の対応に対して、善光寺が発してメッセージは静かだが力強いものだった。
その様な行動こそが、国際社会で日本が求められている姿なのではないだろうか?
それを積極的に取り上げようとしないメディアに対して、本質を見て欲しいという気がしたのだった。
今回の聖火リレーで、「オリンピックが楽しみ!」と、思う人がどれだけ増えたのだろう?
むしろスポーツに隠れた「ナショナリズム」を感じ取り、嫌気がさした人のほうが多かったのではないだろうか?
そんな気がした聖火リレーだった。