オリンピックの開会式で楽曲を提供する予定であった、小山田圭吾氏の過去に「いじめ」という名の犯罪により、「サブカルチャー」という言葉が、注目を浴びるようになった。
そして一連の報道の中で語られる「サブカルチャーだから、あのような露悪なコトができた」という、ニュアンスを伝える文を目にするようになった。
この「サブカルチャーだから、露悪なコトをしても良い」という指摘に、違和感を感じている。
おそらく一般的に言われている「サブカルチャー」と呼ばれるモノは、「メインカルチャー」に対する対擬語なのだと思う。
「メインカルチャー」は、その時代時代の主流となっている(あるいは支配的)文化なので、「サブカルチャー」は反主流的文化ということになるだろう。
「反主流」なだけで、「文化」であるコトには変わりないはずだ。
しかも彼の「いじめ」という名の犯罪を掲載していた「rockin'on」は、200,000部(現在)の発行部数と言われている。
この記事が掲載された1990年代は、音楽雑誌の休刊や廃刊が続いた頃でもあり、発行部数だけでいえば、決して「サブカルチャー」の雑誌とは言えないのでは?と考えている。
rockin'onの創業者であり、出版社社長である渋谷陽一氏が、「偉そうな(=メインカルチャーの)音楽雑誌」と言っていた「MusicMagazine」の発行部数が150,000部(現在)ということを考えれば、決して「サブカルチャー雑誌」とは言えないだろう。
そのように考えると「サブカルチャーだから、メインカルチャーよりもファンが少ない」とは言えず、その境界線もまたあやふやなモノである、ということになる。
強いていうなら、テレビや一般雑誌に取り上げられるのか?否か?という、程度のことになるだろう。
当時はまだまだ、情報や娯楽の主役がテレビであった、ということを考えると、確かに「渋谷系」と呼ばれた音楽は、「主流の音楽」でなかったかもしれないが、テレビCM等では案外起用されていたと、記憶している。
また(あくまでも個人的に)「サブカルチャーの音楽」を上げるとすれば、米国のTHE VELVET UNDERGROUND&NICO (デビュー時には、アンディー・ウォーホールが関わっていたコトで、注目されたバンド)等だろう。
残念なことに、彼らを語る上で「ドラッグ=薬物使用」という行為も含まれていたために、「反社会的行動を容認する若者文化=サブカルチャー」というのであれば、今回の「露悪自慢話」に通じると解釈をされるのかもしれない。
ただ「Culture=文化」は、「いじめ」という名の犯罪を良しとするものではない。
それは「メイン」であろうと「サブ」であろうと、同じはずなのだ。
にもかかわらず「サブカルチャーの世界では、あのようないじめ自慢話をカッコイイ、と受け止められていた」という説明そのものに、嫌悪感を感じるのだ。
何故なら、上記に上げたTHE VELVETUNDERGROUND&NICO等、1960年代~1980年代の「サブカルチャーのアイコン」の様に言われていた人たちは、ドラッグはやってはいたが、「いじめ」のような人を傷つけるような行為はしていないからだ。
小山田氏をはじめとする、同様のことをし・自慢していたミュージシャンたちは、「サブカルチャー」どころか「Culture=文化」の本質を理解せず、勝手に「俺たちこんな悪い事していたんだぜ(凄いだろう!)」的な自慢話と喜々することは、その人自身が「残念な人」であるという告白でしかないし、掲載を決めた雑誌社そのものも「残念な企業」ということになるだろう。
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