日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

こんなコラボはアリ!?-ユニクロTシャツ-

2008-04-17 23:33:47 | トレンド
ユニクロのTシャツシーズンがやってきた。
毎週末、新聞の折込チラシでチェックされている方もいらっしゃるかもしれない。
ユニクロは、夏のTシャツ、冬のフリース(昨年からは+ヒートテック下着)という季節商品を持っている。
Tシャツを季節商品といってしまうのは、どうかと思う方もいらっしゃるとは思うのだが、この季節は「限定Tシャツ」登場シーズンという事で、あえて「Tシャツシーズン」とさせてもらった。

今年の目玉は、「サンデー・マガジンコラボTシャツ」ではないだろうか?
どちらも今年で創刊50周年を向かえた少年マンガ雑誌だ。
その2誌が、共同発刊企画をしばらく前に発表しているコトを、ご存知の方は多いだろう。
拙ブログでも、エントリさせていただいた。
その共同企画が加わったのが、今シーズンだ。

店頭に置いてあるTシャツカタログと見ると、「うる星やつら」や「はじめの一歩」などの人気キャラクターが、顔をそろえている。
40代~50代の男性にとっては、「あしたのジョー」や「巨人の星」などに心奪われるトコロかもしれない。

その中で、これって・・・いいの?というコラボTシャツが幾つかあった。
その一例が「タイガーマスク×うる星やつら」だ。
これって、許されるコラボなの?!というくらいの、組み合わせだと思うのだ。
掲載雑誌が違うだけではなく、連載された時代もキャラクターのタイプもまったく違う、マンガのコラボだからだ。

とすれば、このTシャツを購入する層はどこにあるのだろうか?と、考えてしまったのだ。
「タイガーマスク」をリアルタイムで読んでいた層は、既に50代だろう。
それに対して「うる星やつら」は、30代後半~40代なのではないだろうか?
それだけではなく、「タイガーマスク」のファンといえば、男性ファンが多いと考えられるが、「うる星やつら」は少年マンガに掲載されていながら女性ファンも多い(テレビでアニメ放映されていたことも影響はあるのだろうが・・・)。
まぁ、Tシャツなのだから男女関係無く着られるアイティムではあるのだが、どのような人が購入するのだろう?と、興味を覚える。

もう一つこの夏の注目は、「ガンダムTシャツ」だろう。
ガンダムに関しては余り良く知らないのだが、「ガンダム・ヲタ」と呼ばれるマニアは数多い。
昨年秋にはソフトバンクが、「シャア専用ケータイ」を発売し、話題になった(今だに形状以外、他機種との差が分からない・・・トホホ)。

一昨年あたりから、ユニクロのTシャツは企業コラボTシャツを皮切りに、様々なコラボレーション企画を展開してきた。
この「コラボTシャツ」は、一種の風物となっていくのかもしれない。
と、同時にコレクターを生み出していく可能性もある、と思うのだ。





地域色があるから、マーケティングは面白い

2008-04-17 14:26:30 | アラカルト
昨日のエントリに、マーケティング系ブログでは大御所の「大西宏のマーケティングエッセンス」から、ご紹介とTBを頂いた。
「コーヒーに餡」ということに、とても衝撃を受けていらっしゃるようで、私のほうがその驚き方に衝撃を受けている。

私が初めて「コーヒーに餡」という飲み方を知ったのは、昨日のエントリに登場したご実家が喫茶店をされていた友人から話を聞いた時だった。
確かに、驚きはしたのだが「へ~、そんな飲み方があるんだ・・・」程度だった。
なぜなら、その友人のご実家の喫茶店では、ぜんざいなどの和甘味メニューがあると、聞いていたからである。
名古屋の下町にある古い喫茶店のメニューには、コーヒーと並んでぜんざい(またはお汁粉)などの和甘味メニューがある。
これもまた、名古屋独特なのかも知れない。

それよりも、名古屋に来て一番驚いたのは「朝食を喫茶店のモーニングで済ませる主婦」だった。
この場合、専業主婦だと考えていただきたい。
家族の朝食の準備をし、学校や会社へと送りだした後、喫茶店で一服のコーヒーを楽しむというのではない。
喫茶店のモーニング(当然のことながら、トースト+ゆで卵+サラダ+コーヒーという名古屋メニュー)を食べるために、喫茶店に来るのだ。
喫茶店激戦区などでは、上記メニューにおにぎりやお味噌汁、茶碗蒸などが加わる場合や、トーストやデニッシュパンが食べ放題という場合もある。
モーニングという設定になっているので、大体400円前後という価格帯になっている。

この主婦のモーニング時間(10時くらいまで)が終わると、今度は敬老会喫茶店支部状態になってくる。
休日の朝などは、一家揃って喫茶店のモーニングを食べに来るという家庭も、珍しくは無い。
何故これほどまでに、名古屋人は喫茶店が好きなのか?というコトは、わからない。
「コーヒー=ハイカラ」というイメージが、他地域よりも強いことは確かだと思う。
今から3〇年くらい前の標準的高校生の初デート場所は「コメダ珈琲店」だったとも、友人たちからは聞いた事がある。
名古屋における喫茶店のポジションは、他の地域とはまったく別だと考えても良いと思う。

その様な視点で、地域社会を見て見ると「地域色があるから、面白い」と、感じるコトが多い。
逆にいえば、その様な地域色を見失うと新規展開などは難しくなってしまうのである。
ミニ東京化的視点では、マーケティングは面白くないだろう。



ローカル食-名古屋人は餡好きか?-

2008-04-16 22:38:56 | ライフスタイル
「名古屋コーヒー」と呼ばれる、コーヒーをご存知だろうか?
名古屋にある乳業企業が、コーヒー牛乳を作っているという意味ではない。
コーヒーにフレッシュ+餡を入れて飲むスタイルを、「名古屋コーヒー」と呼ぶのである。
主体となるコーヒーも、ネルドリップで淹れるのだが、「2回通し」といって一度淹れたコーヒーをもう一度淹れるという、名古屋特有のコーヒーの淹れ方だ。
私も知らなかったのだが、ご実家が喫茶店をしていた友人から聞いた話だ。
当然のことながら、スタバやマックなどで飲むコーヒーよりも濃い。
他にも「コーヒーぜんざい」という、甘味もあるようだ。
どうやら濃いコーヒーに、甘い餡という組み合わせが、名古屋人には堪らない魅力となっているようだ。

他にも、名古屋に本社がある敷島製パン(ブランド名は「パスコ」)の東海エリア地域限定(だと思う)商品には「小倉&ネオマーガリン」というコッペパンがある。
コッペパンに小倉餡とマーガリンをはさんだ菓子パンだ(他の製パン会社も、同様の商品があるのだが、本社が名古屋にある敷島製パンとフジパンの2社が中心)。
喫茶店のモーニングにも、「小倉トースト(トーストにバターと小倉餡がついてくる)」がついてくるお店もある。
そのため「名古屋人は餡子が好き」と、言われている。

実は、「超」がつくほどローカルな餡菓子がある。
それが松永製菓の「しるこサンド」。
はっきり言ってしまえば、メイン商品が「しるこサンド」であり、その他の商品は無いといっても良いほど「松永製菓=しるこサンド」という印象がある。
もちろん他の商品があるのだが、残念ながら思い浮かべることが難しい名古屋人が殆どだと思われる(少なくとも、私は思い浮かばなかった)。
その「しるこサンド」の姉妹品が、こっそりと発売されていた。
それが「しるこキャラメル」だ(HPの一番下に掲載してあります)。
今日、久しぶりに買い物に行ったお店で偶然見つけたのだ。
思わず手にとってしまったのは、私がすっかり名古屋人となってしまったからだろうか?

名古屋ではないが、三重県には「あずきバー」でおなじみの井村屋がある。
こちらはHPを見ただけで分かると思うが、小豆=餡を扱っている食品会社といっても良いだろう。

他の地方では、餡を扱うのは「まちの和菓子屋さん」が中心で、餡をキーワードとしたお菓子をメインに作っている企業は見かけないような気がする。
やはりそれだけ、名古屋人は餡子が好きだといえるのかも知れない。
その背景にあるのは、元々餡子好きだったというだけではなく、名古屋独特のコーヒーの淹れ方などがあることで、発展していったような気がするのである。
それらが名古屋の喫茶店文化と関係している考えたら、食から見た地方文化というのも面白い。


問題なのは、身体よりも心とアタマのメタボ?-筋肉理学的発想-

2008-04-15 23:37:00 | ライフスタイル
以前拙ブログでも紹介をした事がある、爆笑問題の「ニッポンの教養」
久しぶりに、チャンネルを合わせることが出来た(というより、すっかり忘れていただけなのだが・・・)。

今回登場した先生(=大学教授)は、石井直方先生(東京大学大学院教授)
でも、この先生いわゆる「東大の先生」には余り見えない。
ググってみると、ボディビルの大会などでの優勝経験があるようだ。
そんな経験をもっている先生だからだろう、お話がとても面白かった。
そのお話の中で、気になったことがある。
それが「都市化した現代社会における問題点」だ。
(番組では、そのような言葉は使われていない。あくまでも私の番組を見ながら思い浮かんだ言葉だ)。

解剖学者の養老孟司先生(養老先生も元東大の先生・・・東大の医・理系にはユニークな先生が多いのだろうか?)が大分前の著書で、「脳化した社会」という指摘をされている。
アタマばかりが発達、というよりも、アタマばかりが優先され身体の重要さを忘れた社会そのものには、大きな危険をはらんでいるという指摘だ。
脳化という言葉を変えるなら、都市化した社会とも言えるのではないか?と、勝手に解釈をしているのだが、養老先生の指摘と今回の石井先生の指摘が、意外なほど重なりあっているコトに驚いたのだ。

そんな時、以前読んだハーバードビジネスレビュー日本版のブログにスーツを着ないで取締役会に出席する時代という内容がUpされているコトを、思い出したのだ。
「スーツを着ない取締役会」といっても、ジーンズとTシャツで取締役会をするのではない。
ランニングマシンで軽いジョギングをしながら、取締役会をするという内容なのである。
目的は、取締役たちの健康=メタボ対策ではない。
運動をする事で、脳が活性化され、様々なアイディアが生まれ、活発な論議が出来るというコトらしいのである。
まさに、石井先生の「筋力理学的脳の活性化」と合致する発想なのだ。

考えてみれば、養老先生が指摘されているように現代社会は「考えるコト」が多い。
それも「アタマの中で完結」してしまうような発想・思考が、大手を振っている。
昨今のお受験ブームの背景にある、乳幼児教育などはまさにそれではないだろうか?
ところが最近になって、乳幼児期の遊びの重要性が指摘されるようになってきている。
身体(=遊び)を動かすことで脳が活性化し、観察力や発想力が豊かになるというのである。
逆に乳幼児期に身体を動かすことをせずに、お受験向け勉強や早期教育に翻弄された子供たちが、小学校入学後にある種の問題行動が起き易いという指摘もあるようなのだ。

とすれば・・・今ではすっかり見る事が無くなった仕事前のラジオ体操などは、事務ワークやクリエイティブワークをする人たちにこそ、必要なウォーミングアップなのかも知れないのだ。
今の社会に問題なのは、身体よりも心とアタマのメタボなのかも・・・。
とりあえず、エアー(スロー)スクワット(?)1日10回にチャレンジ!


これってアリなの???

2008-04-15 14:22:40 | 徒然
朝日新聞のWEBサイトを見ていたら、チョット「これってアリ???」と思える記事に出くわした。
それがおい鬼太郎、空自機にもシールだ 鳥取・境港という、記事だ。

私が高校時代すごした地域(現在でも父は、隣接する米子市在住)なので、よく知っている基地だし、航空自衛隊美保基地と米子空港は供用している事も知っている。
だからといって、自衛隊機に地元キャラクターをプリント(この場合はシールを貼る)というのは・・・「これって、アリなの???」と、思ってしまったのだ。

20年ほど前、境港市のキャラクターとなった「ゲゲゲの鬼太郎」。
最初の頃は、「こんな妖怪キャラで、どれだけ町おこしになるの?」と、疑問だったのだ。
それが今では、鬼太郎を中心とした妖怪キャラを使った町おこしに成功している。
その一つが、JR西日本との協力で実現した境線の「妖怪駅名」だろう。
「妖怪駅名」そのものも話題になり、全国ニュースでも取り上げれれたのは、覚えている。

JR西日本の場合は、民間企業なのだからこのような試みは納得できる。
しかし、今回は航空自衛隊機へのシール貼りなのだ。
全国の飛行場を飛び回るというわけではなく、関係のあるのは全国の航空自衛隊基地だけに限られてしまうのではないだろうか?
全国の航空自衛隊基地で行われる「航空祭(または、基地記念日)」などで、展示・試乗(本当に乗るだけ)で活用されるにしても、飛行機マニアなど限られた人たちだけが見ることになるだろう。
何よりも、自衛隊機という一般の乗り物ではないモノにこのようなシール貼りは、航空自衛隊としてOKなのだろうか?
個人的には、多いに疑問なのだ。

本当にこれってアリなの???

どなたか福田(康夫)語録を作りませんか?

2008-04-14 00:17:13 | 徒然
先ほど、エントリをした後に気が付いたことがある。
それは、「劇場型政治」と呼ばれた小泉さんも「小泉語録」と呼べるほど、様々な名言・迷言を残していると思うのだが、福田さんも負けず劣らず様々な「ことば」を残しているのではないだろうか?という事だ。

まさか・・・と思って、ネットで検索をしてみると、やはり幾つかのサイトやブログが見つかった。
中でも一番驚いたのは、福田さんが2005年に本を共著で出されている事だ。
その書籍名がまた・・・一国は一人を以って興り、一人を以って亡ぶ
悪い冗談なのか?はたまた、編集者が素晴らしき先見性を持っていたのか?
(福田康夫さんの本は、他にも「野菜の国際比較」という本がありますが、こちらは同姓同名の別人)

既に「危険水域に突入」といわれている福田さんだが、1年未満とはいえ、これ程何もやらず、語録だけを残している首相も珍しいような気がする。

 Freedom Song-チベット人権行進で歌われた楽曲は?-

2008-04-13 22:44:35 | 徒然
日経新聞他に、在日チベット人ら300人行進・東京の渋谷、平和解決訴え という記事が、掲載されている。
この行進(あえて、デモとは呼ばない)に集まった人たちは、シュプレヒコールをあげる事も無く、「Freedom Song」を歌い訴え続けたという内容の記事になっている。

そこで気になったのは、どんなFreedom Songを歌ったのだろう?という事。
6〇年代~7〇年代には、このようなFreedom Songがイロイロなトコロで歌われてきた。
それは武力行使という方法ではなく、非暴力の抵抗運動の象徴として歌われてきた楽曲だったとも言える。
ジョーン・バエズの「We Shall Overcome」を真っ先に思い浮かべるのは、英詩が分かり易く歌いやすいということもあるのだが、実は私にとってのFreedom Songというと、この楽曲くらいしか思い浮かばないという事もある(恥ずかしながら・・・トホホ)。

今回のこの行進には、チベット人権団体が中心となっているのだが、北京オリンピックに関しては、世界的な人権団体・アムネスティも関わっていたようだ。
むしろアムネスティの活動のほうが、直接的で行動的な印象すらある。
確かに、彼らは人権運動の半ばプロではあるのだが・・・。
(HPを見て見ると、なかなか可愛らしいグッズやエコバッグなどを販売しているようだ。興味のある方は一度ご覧ください)。

アルゼンチンでの抗議活動は、隔離方法によって聖火リレーは一応の成功となったようだが、タンザニアではノーベル平和賞受賞者・マータイさんが拒否をしている。
まだまだ目が離せない聖火リレーだが、日本各地でFreedom Songが響き、静かな抗議行動となれば、それはまた「長野メッセージ」として世界に伝わり、北京オリンピックの会場の至る所で選手たちをも巻き込んでの抗議となれば、素晴らしいのではないだろうか?

福田さんのピントズレ会見などを見ている限り、期待は出来ない。
昨日の総理主催の「桜を見る会」では、人気女性タレントに囲まれ「物価高らしい(「オイオイ、現実なんだよ!」とツッコミを入れた人は、多いのでは?)が、我慢と工夫で乗り切って(「我慢も工夫も限界点なんです!!」と、再度ツッコミをした人も、多いだろう)」などと、のほほんとした、現実離れした感覚の持ち主なのだから。

マーケティングのある場所

2008-04-12 14:35:44 | アラカルト
時折、イロイロな方とお話をさせていただいて驚く事がある。
それが、「マーケティング=お金儲けの手法」だと考えておられる方が、今だに意外にも多いということだ。
確かに、「マーケティング」は企業利益を出すための「事業戦略」だったり、「経営戦略」、「販売戦略」などを含んだ仕事ではある。
そのために生活者の意識調査をしたり、ニーズを掘り起こすことやアピールするための、広告活動があるのだ。

だが「お金さえ儲かれば良い」というわけではない。
「お金さえ儲かれば良い」という発想は、守銭奴と同じだ。
マーケティングとは、生活者に対して提供するモノ・コトによって、「しあわせ感」を提供しなくてはいけないと考えるのだ。
(その意味もあり、拙ブログの管理名は「Happy-kernel=しあわせの種」としているのである。)

ところが最近「自分のしあわせのために、他の人を犠牲にする社会になりつつある」ように、感じるコトが多いのだ。
「わがままになってきた」というだけではない、人・モノ・コトに対して鈍感になってきているように感じるのである。
感性的な劣化が激しいと感じる、といと言った方が良いのかもしれない。
それを象徴しているのが、今の政治であったり官僚的発想による制度改悪だろう。

その一つは「成果主義」という名の、数値評価なのではないだろうか。
「売上数字」という、分かりやすいコトだけを見て人を評価してしまう社会というのは、チャップリンの「モダンタイムス」と同じなのではないだろうか?
その様な社会にならないために、マーケティングが必要なのではないだろうか?と、最近考えるようになってきたのである。

今週から来週にかけ新人たちにとっては、配属が決まり、本格的な仕事が始まる頃だろう。
「数字」ばかりが、評価ではない。
「仕事をする」ということは、自分だけではなく、周囲の人も社会も、しあわせにしていくコトなのだ。
だからこそ「マーケティングは、ビジネスの基礎知識」とも、言われているのだ。
その事を忘れて欲しくない。

もう一つ、マーケティングがある場所は、人も社会も自由でなくてはならないという事。
人や社会を豊かにしあわせにするためには、自由な発想が出来る場所でなくてはならない(その意味で、中国には「金儲けはあっても、マーケティングは無い」といえる)。
自分の自由のために、他の人・モノ・コトを犠牲にするという事は、自分の自由もまた誰かに奪われているという事でもあるのだ。

新人たちへ、自分が自由であるために、人・モノ・コトの自由を奪わないで欲しい。
そのために、様々な感性を磨き、常にアンテナを張り巡らし、人・モノ・コトに対して、想像力を働かせて欲しい。
それが「しあわせ」を提供する、第一歩だと思うからだ。




日本らしい抗議を!-聖火リレーとチベット-

2008-04-10 20:19:34 | 徒然
オリンピック聖火リレーが、欧州→米国へと引き継がれていくに従い、チベット族に対する人権擁護の声が日に日に高まっている。
今では聖火リレーそのものが、聖火リレーではなくなってきているような状況を呈している。
サンフランシスコでは、奇策ともいえそうなコース変更と短縮によって、ロンドンやパリのような過激な抗議は無かったようなのだが、一部では「そこまでして『聖火リレー』というカタチにこだわるのか?」という、疑問の声まであがっているようだ。
体面を重んじる中国としては、内容はどうであれ「聖火リレーを行った」という、事実のほうが大切なのだろう。

そんな中、ダライ・ラマ14世が来日した。
インドから米国へ向かう乗り継ぎのため、と言うコトだったのだが、記者会見で見せたその姿はいつもと変わらない穏やかなモノだった。
この記者会見を見ながら思ったことがある。
それは4〇年前銃弾に倒れた、キング牧師の「私には夢がある」(引用は、「キング牧師の部屋」というサイトから)という言葉だ。
そしてこの「私には夢がある」という演説は、オリンピックとも深いかかわりがあるのを思い出したのだ。

1996年のアトランタ・オリンピックの開会式の時、このキング牧師の演説が会場に流れたのを覚えていらっしゃる方も多いのではないだろうか?
「私には夢がある」のスピーチの中には、「自由の鐘を鳴らそうではないか」と呼びかける一文がある。
今まさにチベット族の人たちにとって必要なことは、自由という人権なのではないだろうか?
言論や信仰の自由であり、自主的な行政運営や伝統的文化の継承といった、当たり前に保障されていないコトを、訴えているように感じるのである。

来日記者会見で、ダライ・ラマ14世は「非暴力」ということ共に、「自由であること」を繰り返し訴えていた。
25日に日本に到着し、26日に長野で予定されている聖火リレーでは、人権団体などが抗議行動を予定しているらしい。
「中国政府を批難する」コトは、簡単だろう。
闇雲に中国政府を批難しても、彼らの思考には響かないような気がするのだ。
欧州のような、直接的行動ではなく日本全体が「私たちには夢がある。すべての自由が保障されている世界となること!」、そして「私たちはいつも、チベット族の人たちの(心の)そばにいる」と、イロイロな所で言いつづけるという方法だ。
英語の得意な方は、キング牧師の思想・哲学を今回のチベットの人たちに向けたメッセージを自分なりにアレンジし、メッセージとして世界にむけて発信できるだろう。
ダンマクでも良いだろう。
出発点の善光寺に、宗教・宗派を超えた関係者が集まり声明というカタチで訴える、というのも方法だろう。
Tシャツなどにプリントして、着るなどの方法もあるかも知れない。
殴り合ったり、聖火を奪うためにランナーに危害を加えるのではない。
ただただ、静かに様々な場所でメッセージを伝えつづけていくのだ。
面子を重んじる国だからこそ、その思考を逆手に取るような手段が必要だと思うのだ。

小さく静かな漣が大きなうねりとなった時、日本が世界を驚かせることが出来るのではないだろうか?
と言っても、拙ブログでは影響力も何もないのだが・・・(自虐的オチ)。


地域遺産-くいだおれの閉店-

2008-04-10 11:27:34 | アラカルト
大阪・道頓堀にある「くいだおれ」が、この夏閉店することが決まった。
その背景には、経営不振ということがあったようなのだが、残念な気がする。
というよりも、あの「くいだおれ太郎」というキャラクターは、道頓堀というよりも大阪の象徴なのではないだろうか?

道頓堀という地域には、雑多な賑わいの中に独特の雰囲気があったように思う。
当然、東京的な雰囲気ではないし、同じ大阪でも梅田とも違う「道頓堀」があったように感じる。
その「顔」が、まぎれもない「くいだおれ太郎」だったのではないだろうか?

大阪をよく知らない人にとって、梅田の町並みよりも道頓堀の「くいだおれ太郎」や、「グリコ」、「かに道楽の動く蟹」などが、大阪を象徴するモノとして認知されているような気がするのだ。
いわゆる「コテコテの大阪」というイメージと雰囲気が一番伝わる「大阪らしい場所」が道頓堀であり、その中心が「くいだおれ」のような気がするのである。

今回の閉店の背景には、道頓堀一帯の客層の変化とその変化に合わせた、商店や飲食店の変化だという指摘もある。
ここ10年ほど道頓堀に行っていないので、今の道頓堀の姿は知らない。
バブル以前の道頓堀には、中座などの芝居小屋や法善寺などがあり、そこに集う人たちが買い物をしたり、飲食をしたりする、地域全体がアミューズメント的要素を持っていたように思う。
「道頓堀」という「まち」そのものが、庶民にとって「ハレ」の場であり、娯楽の場でもあったのではないだろうか?

その様な「まち」には、文化があったと思うだ。
ところが、その文化をお手軽経済が蹴散らし、今また地域の遺産ともいえるお店を閉店へと追いやっているようにも思える。
お手軽経済というのは、目先のお金儲けに血眼になり、地域に根付くようなビジネスビジョンを持たない商売を指す、私が勝手に作った言葉なのだが、今や日本のアチラコチラにあるのはこのような「お手軽経済」が幅を利かせているような気がする。

「くいだおれ」の閉店を、時代の趨勢と言ってしまうのは簡単だ。
だが、「くいだおれ」が道頓堀というまちで創ってきた文化も、なくしてしまってよいのだろうか?
バブル以降、日本人は「お手軽経済」を優先する余り、長い時間をかけ創ってきた地域独特の文化を捨ててしまったよう気がする。

せめて「くいだおれ太郎」だけは、道頓堀の象徴としてあの場所に残して欲しいと思うのだ。
名古屋に居る私ですら、そんな思いなのだから大阪人の思いは複雑なのではないだろうか?