日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

医療情報は、正しく知りたい

2018-05-17 19:45:31 | 徒然

西城秀樹さんの突然の訃報。
私の世代であれば、小学生の頃からのアイドルで、カレーのCMでは多くの子どもたちが真似をした、という思い出を持っていると思う。

その西城さんが、一番最初の「脳梗塞」に倒れられたのが2003年だった。
40代での「脳梗塞」発症というと、随分若い気がするのだが、実はミスターチルドレンの桜井和寿さんは、32才で同じく「脳梗塞」で倒れられ、長期の治療を余儀なくされている。
桜井さんは、その後順調に回復をされ「脳梗塞」を再度発症することなく、お元気に活動されていることは、ご承知の通りだ。
むしろ気になるのは、西城さんの今回の死因が「心不全」で、「脳梗塞」の2度発症されている、という点だ。

「脳梗塞」と「心不全」は、別の病気であることには違い無いのだが、要因となるのは血管に「プラーク」と呼ばれる、塊ができることだ。
「原因」となるモノは、「心不全(心筋梗塞)」も「脳梗塞(他脳卒中全般)」は、同じということになる。
「脳梗塞(他脳卒中全般)」の治療は、脳外科で行うことには変わりないのだが、要因という視点では同じということから、死亡要因としては循環器外科や脳外科の医師の中には「心疾患と脳血液疾患」は、「血液疾患」としてデータ上一緒と考えても良いのでは、と言われ方もいらっしゃる。
そう考えると、西城さんの「脳梗塞」と「心不全(心筋梗塞か?)」は、決して別の病気と捉えるのではなく「循環器の病気で、発症した場所が違っていた」と考えても良いのかもしれない、という気がしたのだ。

それだけではなく、1度目の「脳梗塞」を発症されてから、健康に気を使っていたにもかかわらず、2度目の「脳梗塞」、今回の「心不全」と考えると、西城さんの血液そのものに「プラークをつくりやすい何か」があってのでは?という気もしてくる。
というのも、今年のお正月に読んだ「遺伝子医療革命」の中に、「ゲノム(=遺伝子情報)」を使った未来の健康管理という話があり、その中に「一連の遺伝子バリアント(ゲノム上の同じ位置にあるDNA相互の並びの違い)によって、コレステロール値は正常であるにもかかわらず、血小板の粘り気があり過ぎる為に、心臓発作のリスクが通常よりも高い」という内容の一文があったからだ。
「血小板の粘り気」ということも、遺伝子検査でわかるような時代になってきているのか?ということを思いながら、この文章を読んだのだった。
そして今回の、西城さんの訃報で、この文章を思い出したのだ。

西城さんの話からは、離れるのだが今日の朝日新聞に「遺伝性乳がん」についての記事が掲載されていた。
朝日新聞:遺伝性乳がん「もう一方の乳房切除も強く推奨」学会
この記事の内容そのものは、分かり易い内容だと思う。
ただそれは、私が乳がんという病気に罹患し、それなりに「乳がん」という病気に対する知識があるからだ。
この記事を読んだ方の中には「乳がんになったら、両方の乳房を切除しなくてはならないのか?」と、不安に思われる方もいらっしゃるのではないだろうか?
そして「遺伝子検査」を受けるにしても、検査料は実費で25万円ほどかかる。
もちろん、専門の「遺伝子カウンセラー」からの説明を受けたうえでの、患者判断となる。
そのような情報を、どれだけの市民が持っているのだろう?
このような情報が出る前に、「遺伝性乳がん」について「親戚に若くして乳がん、卵巣がんになった女性はいるか?男女問わず、すい臓がんで亡くなった人はいるか?」などの「家族や親戚の病歴」を調べることで、いきなり25万の「遺伝子検査」をする必要はなくなることもある、という情報を持っていれば、同じ情報でも受け止め方は随分違ってくるのではないだろうか?

もしかしたら、西城さんの場合も家族や親族に、同様の死因で亡くなられた方が、何人もいらっしゃったかもしれない。
今や医療の中心は、「遺伝子レベル」へと移行し始めている。
だからこそ、受け手となる私たちも積極的に「正しい医療情報」を知る時代に来ているのではないだろうか?
と同時に、玉石混交の「医療情報」の中から、科学的根拠のある医療情報に簡単にアクセスすること、その内容が分かり易いことなど、日本ではまだまだ立ち遅れているような気がする。


発想を変える時代た

2018-05-16 13:53:54 | 徒然

一昨日、トヨタ自動車が3月期の連結決算発表をした。
日経新聞:トヨタ決算発表(動画)

この動画を見ながら、「発想を変える時代がやってきているな~」という気がした。
何もトヨタ自動車の豊田章夫社長の話している、「100年の大チャンス」という意味ではない。
会見の動画を見ながら、いくつか「引っかかる言葉」があったからだ。

その一つは、「トヨタらしさ」の一つとして「トヨタ生産方式と原価低減」と話されている場面だ。
確かに、トヨタの生産方式というのは、「乾いたぞうきんをさらに絞る」と言われる程、無駄の無い生産により、原価低減が行われていると言われているが、この言葉が「下請けに納入価格を下げさせるだけ、下げさせているのでは?」という、ニュアンスで受け止めてしまう部分もあるような気がしている。

理由は、自動車産業そのものが下請け・孫請けなど関連する仕事の裾野が広い産業だからだ。
日本の企業の多くは中小零細と言われており、単に「トヨタ方式の原価低減」を推し進めるだけでは、どこかに「歪」が出てきているはずだ。
その「歪」を受けているのは、トヨタのような大企業ではなく、自動車産業を支えている裾野の企業なのではないだろうか?
自動車産業を支えている裾野の企業で働く若い世代に対して、どう考えているのか?ということが、問われているという認識があるのだろうか?と、疑問に感じたのだった。

そして、この時豊田章夫さんが言った「MaaS」ということばのとらえ方によっては、豊田章夫社長が描く将来像と大きく違ってしまうのでは?という、気がした。
そして個人的には、トヨタ自動車(だけではなく自動車産業全体というべきかもしれない)にとって、とても厳しい社会になっていくのでは?という気がしている。

「MaaS=Mobility as a Service」ということだが、日本語に訳すと「サービスとしての移動性」という、訳の分からないというか、雲をつかむような意味となってしまう。
豊田章夫社長が注目したのは「移動性」という部分であって、サービスという部分にはあまり注目されていないような印象を受けたのだ。
あくまでも「自動車」という「物体が提供するサービス」であって、「サービスを提供するために移動性とは何か?」というニュアンスには、受け止められなかった。

実は、トヨタ自動車と名古屋大学との共同で、自動車同士が連絡を取り合うようなシステム作りをしている、という研究発表会に出かけたことがある(目的は、まったく別の研究発表だった)。
もちろんこの研究には、自動運転などの研究が含まれていて、高齢化社会に向けての「自動車づくり」という視点だったような印象があった。
話を聞いたときには、「なるほどね~」という程度の認識でしかなかったのだが、そもそもその「そのような自動車づくりって、必要ですか?」という気がしたのも事実だった。
「人が移動する為のサービス」に、AIの技術が加わりIoTにより、より快適になる、ということであれば、何も自動車にこだわる必要はないのでは?と、思ったからだ。
「トヨタ自動車は、自動車メーカーのMaaSをつくる」のではなく、「人が快適に、自由に移動するためのサービスツールを創る」という発想を転換する必要があるのでは?

自動車産業という裾野の広い産業だからこそ、自社以外で働く人の姿を見たうえで、これまでとは違う考えや発想が日本を代表するトヨタという企業であっても大変なのでは?


制度を導入しても、失敗をする理由

2018-05-15 21:14:46 | アラカルト

昨日、朝のFM番組を聞いていたら「フリーアドレス」と言う言葉が、気になった。
この場合の「フリーアドレス」というのは、GoogleやYahooなどが提供している、インターネットで使うe-mailのアドレスのことではない。
オフィス内に固定した席を設けず、その日の業務内容に合わせて、席を移動して仕事をする、というスタイルのことを指している。
以前話題になった「ノドマワーク」のオフィス版、という感じだろうか?

このような「固定された席を必要としない」ことができるのが、ノートPC(あるいはモバイルPC)やタブレットPCなどの普及によって、様々な情報がクラウド上に集められ、情報の共有化がしやすくなったためだと言われている。
日々の仕事に合わせて、一緒に仕事をする仲間を変えながら仕事をする、というのは、どことなく「時代の最先端」という気がする。
そして今、このようなオフィスが増えている、という話だった。

確かに、仕事の業務内容に合わせて集まり、解散をする、というのは効率的な部分もあると思う。
何故なら、業務内容に合わせて会議室に度々集まる、というのはある非効率的だからだ。
それでなくても、日本の企業には「必要のない会議=会議の為の会議」が多い、と言われている。
ただし、そのような業務を抱えているビジネスパーソンであれば、という条件付きだと考えている。

今のオフィスでの机の並び方というモノが、どういう状況になっているのかよく理解していないのだが、このような「フリーアドレス」で仕事ができる人と、できない人がいるのでは?という気がしている。
例えば、人事や経理といった部署では「フリーアドレス」という形態で仕事をする意味が、どれほどあるのか?
おそらく「フリーアドレス」で効率よく仕事ができる業務というのは、営業や広報といった対外的なつながりがあり、打ち合わせなどが頻繁に行われる業務なのでは?

日本では何かと「話題」になると、とりあえず導入してみる(というか、飛びついてしまう)という傾向があるような気がしている。
その中には、「話題」となっているモノ・コトの本質というか、目的と効果を十分に検討せずに、導入したのでは?と思われる場合も少なくない。
そして失敗をすると、今度は「羹に懲りてなますを吹く」ようになってしまう傾向がある。
その理由として「日本独特の『減点主義』的発想」がある、とも言われている。

FM番組ではむしろ「制度を導入した時点で、満足をしてしまう」という問題を、指摘されていた。
何より、一番の問題は「フリーアドレス」の一番の効果と言われている「フラットな職場環境」からかけ離れた、「役員室」の存在だという。
重厚な両袖机。その上には、稟議決裁の箱が置かれ、皮張りの椅子。場合によっては、チョッとしたソファーとテーブルがあるかもしれない。
そのような役員室の存在が、「風通しの良いフラットな職場」で働く人たちのやる気を、減退させる要因となっている、という指摘だった。

昨日エントリさせていただいた「お墨付き」があることで、満足してしまう、という感覚に近いのかもしれない。
そしてこの「制度ができた」ことに満足し、実際の運用ができない、ということが、これまで「話題」優先で日本の企業が導入し、失敗をしてきた原因だったのではないだろうか?
「フリーアドレス」というオフィスだけの問題であれば、さほど問題にはならないと思うのだが、これが今国会で審議予定となっている「働き方改革」などであれば、一歩間違うとブラック企業を量産するリスクにもなるのでは?という、気がしている。


「お墨付き」だけで、地域の活性化はできない

2018-05-14 20:10:49 | ビジネス

Yahoo!のトピックスに、「仕方ないか?!」という気になった記事があった。
取り上げているのは、京都新聞の記事で「山陰ジオパーク」についての記事だ。
京都新聞:山陰ジオパークに「イエローカード」 京都、認定取り消し危機

ユネスコの「世界遺産」ほど、メジャーではないユネスコの「ジオパーク」。
意味としては「大地の公園」ということになるようだ。
「公園」と言っても、風光明媚というよりも自然が創り出した地形やその地域に住む生物などの生態系などを含めた「公園」ということのようだ。
その「公園」としてユネスコから2010年に日本で4例目として認定された「山陰ジオパーク」だが、認定された地域全体での連動的な活動が無く、認定取り消しの危機に陥っている、というのが、記事の内容だ。

確かにこの「山陰ジオパーク」そのものは、京都府・兵庫県・鳥取県と1府2県にまたがる、広い地域が対象となっている。
当然、関係する市町数もそれなりにあるはずだ。
府県を含めた自治体の連携そのものができないのは、ある意味仕方ないというか、予測できたことかもしれない。
何故なら、府県だけではなく自治体の規模や使えるお金(=税収)なども大きく違っているからだ。
「山陰ジオパーク推進協議会」という、独立した組織はあるようだが、地域全体をまとめ、活動をしていく為には「ジオパーク」そのものの「価値」や各自治体にもたらすメリット、それによって起きる各地域の活性化などの、具体的なビジョンの共有がされていなければ、難しいだろう。
そのような対象地域全体のビジョンを含めた共通認識がされていたのか、やや疑問に感じている。
というのも、「世界ジオパーク」に認定されてから、何度か推進協議会のHPなどを見ていたのだが、協議会のある豊岡市は積極的だが、他の地域からの情報発信などがあまりされていないように感じていたからだ。
だからと言って、他の地域の自治体から「ジオパーク」に関する情報発信が積極的にされていたのか?というと、そのような感じでもなかった。

ここの自治体にもそれぞれの事情があると思うのだが、「世界ジオパークに認定された」というところが、ゴールとなってしまい、「世界ジオパークに認定された」という地域資産としての価値が十分理解されていなかったのでは?という気がする。
ここの自治体で独自の活動をしつつ、認定された地域全体の一体感を保つ、というのはとても難しいことだという認識が出来ていなかった、ということもあるだろうし、ここの自治体そのものが「自分たちで、どのようなアクションをすれば、魅力的な情報発信となり、地域の活性化に結びつけることができるのか?」という、アイディアを持っていなかったという点もあるような気がしている。

イエローカードが出てから、各自治体がいろいろなアクションを起こし始めているようだが、時すでに遅し・・・とならなければ良いのだが、果たしてどうなるのだろう?
「ユネスコ認定」というお墨付きが、地域活性化に結び付く、と思い込んでいたような気がしてならない。


正当な価格を知ることが、ライフスタイルにも影響する?

2018-05-11 18:33:04 | ライフスタイル

先日、Yahoo!などのトピックスなどで、「H&MやZARAなどがモヘアの使用中止」という話題が取り上げられていた。
ファッションに詳しい方なら、「やはり!」という気持ちで読まれたと思う。
しかし「ファッションは好きだが、素材などに興味が無い」という方にとっては、「何を言っているのか分からない」という内容だったような気がする。
CNN:H&Mやザラ、モヘアの使用中止を発表

ここで問題になっている「モヘア」というのは、洋服などの素材として使われる羊毛の一種だ。
とても高級な素材で、毛足が長く、「ふわふわ」した肌ざわりが特徴的な羊毛だ。
セーターだけではなく織物などにすると、軽く暖かい。
手編みをされる方なら、その質感の良さと毛糸の価格が高いことは、よくご存じだろう。
ただ、とても高級な素材のなので、有名ファッションブランドの商品でなくても、とても気軽に買えるような値段で販売されるようなことは無い。
むしろこの記事を読んで、初めてファストファッションのブランドでもモヘアの商品を扱っている、と知って驚いたほどだ。
もちろん、「モヘア」と言ってもピンキリだとは思うのだが、ファストファッションには向かないような素材である、ということは確かだと思う。

ただ、このような高級素材がファストファッションに使われる、ということは珍しいことではない。
カシミアなどは、その代表例かもしれない。
「モヘア」よりも高級とされている「カシミア」だが、以前に比べ随分一般的な素材となってきたような気がしている。
元々それほど生産量が多くないうえに、生産量を増やすには限度がある、という素材だからだ。
「カシミア」や「モヘア」、「アンゴラ(国名ではない)」などは、元々生産量が多くないうえに、羊毛を取るための動物たちの飼育環境も、なかなか難しいと聞いている。
それは、ラクダの毛を梳いてとる「キャメル」や、ペルーの「アルパカ」なども同じだ。

しかし、ファストファッションを購入する人達は、その素材がどれほどのものなのか?ということを知って買っているわけではないと思う。
そのコトを悪く言うつもりはない。
素材の良し悪しの含蓄を知ったからと言って、何かプラスになるわけでもないと思う。
ただ、素材の価値を知ることで、着ることが楽しくなるだろうし、服そのものを大切に扱うようになると思うからだ。

ファッションの世界では、季節ごとにファッションショーが開かれる。
そのたびに、トレンドが云々と言われ、そのことに振り回されてしまうこともある。
一つ知っておいて欲しいと思うのは、ココ・シャネルは無くなったとき自宅のように使っていたホテル・リッツのクローゼットには、お気に入りのスーツが3着しかなかったと言われている。
もちろん、オリジナルのスーツなので、素材そのものは最高級品を使っていたはずだ。
最高級品だからこそ、丁寧に大切に着る、それは「シャネル」という一大ブランドを築き上げた、シャネルの生き方そのものだとすると、私たちも参考にすべき価値の知り方なのではないだろうか?



「孤独」は、悪いことなのか?

2018-05-09 19:41:59 | ライフスタイル

最近、「孤独」と言う言葉を、目にすることが多くなった。
「孤独は、肥満や喫煙よりも健康リスクを増大させている」という調査もあるようだ。
そのような「孤独リスク」軽減の為に、イギリスでは今年1月に「孤独担当大臣」と呼ばれる新ポストを新設した。
そしてこの「孤独リスク」は、今はオジサンだけの問題ではないらしい。
東洋経済:オジサン化するオバサンを待ち受ける「孤独」

私のように、一人暮らしの長い人間からすると、「孤独って、そんなに悪いこと?」という気がするのだ。
私自身は「一人暮らし」をそれなりに楽しんでいるし、辛いとも思ったことはない。
ただ「一人暮らし」あるいは「一人でいること」が、苦痛な人がたくさんいることは、わかっているつもりだ。
だからこそ「一人でいる=孤独」と、言ってしまうことに違和感を感じるのだ。

問題なのは「孤独」ではなく「孤立」なのではないだろうか?
東洋経済の記事にあるように、会社に縛られ、会社以外に居場所がいない、というある種の「隔絶された社会」の中で生きてきたことで、他のコミュニティーから「孤立」してしまった、ということのように思えるのだ。

随分前だが、タレントだった山口美江さんが、ご自宅でおひとりで亡くなられた。
毎日通っている、お手伝いさんが亡くなった山口さんを発見した、ということだったと記憶している。
お手伝いさんが山口さんの亡骸を発見した時、飼い犬が側にずっとついていた、という話もあったように思う。
同じ頃、高級老人ホームで死後1、2日ほど経過した女性の遺体が発見された、という報道もあった。
亡くなられた女性は、日ごろから同じ老人ホームの入居者との方との付き合いを、遮断するような暮らしぶりだったという。
山口さんが亡くなられたとき、盛んに「孤独死」と言う言葉が使われていたが、高級老人ホームで亡くなられた女性とどちらが「孤独死」だったのだろう?と、考えた時私は山口さんは決して「孤独死ではない」と考えている。
何故なら、山口さんの側には愛犬がいたのだ。
むしろ、周囲との付き合いを遮断するように暮らしていた、女性のほうが「孤独死」だったのではないだろうか?
何故なら、老人ホームというコミュニティーから「孤立」をしていたからだ。

もう一つ気になる点が、「孤独」に対する健康リスクという点だ。
日本では「一人で亡くなる」ことを「孤独死」と呼んでいるが、亡くなる方のうち相当数が「孤独死」なのではないだろうか?
いわゆる「一人世帯」が年々増え、その中でも特に「独居老人」の世帯は、増えている。
かつては「夫婦二人世帯」だったが、今は人生の伴侶を亡くし「独居」となっている世帯だ。
高齢者の「一人世帯」が増えていることを考えれば、当然「自宅で一人亡くなる」方も増えている、と考えるほうが自然なのではないだろうか?
そのことが、悪いことなのだろうか?
多くの日本人は「長生きをしても今の健康状態を維持し、大勢の人に看取られ最期の時を迎えられる」と思っているかもしれないが、そのようなケースはむしろ稀だと思う。
大切なことは、「最期の時まで、その人らしさを失うことが無い」ということなのでは?
だからこそ、「人生の長さ」ではなく「人生の充実感」を大切にする必要があると思うのだ。

「人生100歳時代」と言われるようになってきたからこそ、「孤独」と「孤立」の違いを認識し、「人生の充実感」を得られるような、程よい距離感を置いた親しい仲間をたくさんつくることのほうが、大切だという気がするのだ。


「利点・利益・価値」を考える

2018-05-08 20:43:26 | マーケティング

先日、買い物をしているときにフッと気づいたことがある。
それは、ビジネスでよく使われる「メリット・ベネフィティング・バリュー」という言葉の違いだ。

ビジネスの場面で「顧客メリットを考える」ということを、よく耳にする。
「顧客メリット=顧客の利点」を考える、という意味だ。
そして「顧客のベネフィティングを考える」も、良く言われる言葉の一つだと思う。
「顧客のベネフィティング=顧客利益」を考える、ということになる。

これらの言葉は、いずれも「顧客の立場になって考える」ということが、重要だとされているが、本当だろうか?と、気になったのだ。
「マーケティングの発想は、顧客側の視点で発想することが、重要だ」と言われている。
営業で言われる「セールスポイント」と言う言葉が、「企業側から考えている」ことばとしてよく言われ、それに対して「顧客メリット」や「顧客のベネフィティング」は、生活者視点で考えることと言われている。
様々なビジネスセミナーで、言われてきていることなので、ご存じの方も多いのではないだろうか?

しかし、本当に「メリットやベネフィティング」という視点が、生活者に何等かのプラスを与えているのだろうか?と、思ったのだ。
もしかしたら、「生活者価値」ということを考えたうえで、「生活者に対する利点や利益とは何か?」と、考える必要があるのでは?

これまではの発想の順番は「生活者の利点」→「生活者利益」だったように思う。
確かに「生活者の利点」が無ければ「利益」も生まれてはこない。
「利益」があるからこそ「価値」も生み出される、ということには違い無いはずだ。
だが、今の社会のように多様で複雑化した社会の中では、このような順番で発想しているだけでは、「新しい何か」が生まれてこないようなジレンマを感じている方も少なくないのではないだろうか?
であれば、「順番の逆から発想してみる」ということも、必要な気がしたのだ。
違う言葉に置き換えるなら「既存の発想からの脱却」ということかもしれない。

その為には、何が必要だろう?
おそらく「生活者の抱えている問題」を探し、向き合う、ということのような気がしている。
日本の場合「ものづくりにたけている」と、言われ続けてきた。
確かに、戦後から高度成長期を支えてきたのは、製品づくりと言っても過言ではないと思う。
「(米国製品に比べ)安価で、丈夫。壊れにくいだけではなくアフターサービスも充実している」というのが、日本の「ものづくり」を支えてきた。

その「ものづくり」に縛られた発想では、次の新しいイノベーションを起こすことが難しくなってきている、というのが今の社会だと思う。
とすれば、「生活者の問題解決ができる」という「価値」を見つけ、そこから「生活者利益」や「生活者の利点」に落とし込んでいく、という方法も一つなのでは?




時には、和む場所で仕事をするのもいい

2018-05-07 16:05:30 | ビジネス

ファッション専門誌、WWDにチョッと面白い(?)記事があった。
WWD Japan:谷中の築100年の古民家に移転した、大丸松坂屋・未来定番研究所

築100年の古民家に、いわゆるシンクタンク会社のような施設を設ける、というのはチョッとどころか随分珍しい気がする。
というのも「シンクタンク(会社)」という言葉がもてはやされた頃、大体都市の中心にある高層ビルに、構えること多かったからだ。
「多かった」というよりも、大体そのような場所に設けられていた。
何故なら、様々な情報が集まりやすい場所である、ということが条件だったからだろう。

それが今では、様々な情報はネット上にあり、ネット上に無くてもネットで探すことができるようになってきた。
そうなると場所の問題ではなくなってくる、ということだろう。
むしろ、様々な情報を分析し、そこから「未来を考える(重要なことは、予測するのではなく「考える」という点だ)」ためには、それなりのゆとりのある場所のほうが向いているのかもしれない。
何より、今後5~10年の間消費の主役となるのは、団塊の世代~高度成長期に生まれ、育った人たちだ。
その世代にばかりにフォーカスしすぎるのは問題だが、人口統計的に考えればこの世代が、様々な業種での主役となっていくことが分かる。

このような主役となる世代がある程度把握できれば、新しい主役となる世代を見つける時間も出てくるはずだ。
何より、今回大丸松坂屋の未来定番研究所が移転した築100年の古民家は、団塊の世代~高度成長期に生まれ・育った世代にはどこか懐かしく、それでいて新しい主役となる世代にとっては、それこそ「新しい」場所だ。
そのような「空気感」のある場所で、これからの社会の姿を考える、というのも悪くはないと思う。
そしてこのような試みは、首都圏に近い地域にある古い建物のリノベーションにもつながっていくかもしれない。

最初は、通勤圏という時間的制約のある場所に限られるかもしれないが、「様々なデータや資料を読み、分析をしていく時間」の合間に、豊かな自然を眺めたり、あるいはチョッと出かけたりすることで、気持ちが切り替えられ、それまでとは違う発想や考えが、生まれるかもしれない。
おそらく多くの人が経験をしていると思うのだが、お風呂に入っていた時や一時期的に仕事を離れた時に、アイディアが浮かぶということは無いだろうか?

あくまでも個人的な意見だが、考えること、発想することという作業は、大量生産することができない。
成果主義が盛んに言われていた頃は、クリエイティブが求められる職種であっても、「発想の数」が求められていた。
だが「数」と「内容」が、合致するというケースなどほとんどない、と思っている。
ましてこれからは、AIの技術の発展と一般化に伴い「量」ではなく、「質」を問うような仕事が求められてくるはずだ。
生産効率を求められる仕事は、どんどんAIに取って代わられていくだろう。

そう考えると、仕事の質をあげる為にも時にはのんびり和むような環境で、仕事をすることも十分アリかもしれない。


インバウンドには、何が必要なのだろう?

2018-05-06 20:31:55 | ビジネス

今日でGWも終わり。
昨日から本格的に始まった、帰省の帰りラッシュで高速道路は大渋滞のようだ。
自宅に到着した頃には、ヘトヘトになっているお父さんも多いかもしれない。

このような長期の休みになると、故郷に帰るだけではなく、観光地へと出かける方も多いはずだ。
特にGWは、お盆や年末年始と違い、帰省するよりも観光地へと出かける方のほうが多いのではないだろうか?
そのタイミングに合わせるように、興味深い記事がYahoo!のトピックスにあった。
出典は、Forbesだ。
Forbes:世界はいま「美術と観光」を求めている 北川フラム

インタビューの中心で語られている「大地の芸術祭 越後妻有トリエンナーレ」というのは、20年くらい前から始まった越後妻有地区で3年に1回開催される美術展だ。
地域全体が美術館のようになり、様々な美術作品が展示される。
中には、永久展示のようになっている作品もあったように思う。
最初は小規模な展示であったが、海外から注目され規模がどんどん大きくなり、その後全国各地で行われるようになった「地域全体を巻き込んだ美術展」の先駆けとなった芸術祭でもある。

北川さんのインタビューの中で興味深いのは「名所旧跡に行くことが観光ではない」と、話されていることだ。
むしろ「(これまで)あったことのない人と会い、これまで経験したことないことを体験する」ことが、これからの観光である、という点だ。
観光の中には、「名所旧跡を訪れる」ということも、確かに魅力的だと思う。
実際、京都など有名観光地に行けば、どこかしこも海外からの観光客であふれかえっている。
その反面、通訳ガイドをしていた知人の話では「(最近は)ガイドブックなどに紹介されていないような、日本の原風景が観られるような所に行きたがる欧州からの観光客が増えている」と、聞いたことがある。

北川さんの話されている「あったコトが無い人、これまで経験したコトが無いことを体験する」ということは、通訳ガイドをしていた友人が話すような目的を持った観光客を指しているのだと思う。
そしてそのような観光客は「爆買い」などで注目されることは無いが、徐々に増えているのでは?と、感じることがある。
それは、お盆や母の墓参りなどで帰省した時だ。
松江や出雲大社なども、海外からの観光客は確実に増えており、中には路線バスを利用して観光をする人もいる。
もちろん団体客と違い、目立つような増加ではないが、手つかずの日本の原風景やその土地に伝わる伝統芸能などを探し求めて観光をする海外からの観光客はいるのだ。

もう一つ考える必要があるのでは?という点が「芸術」という点だ。
日本全国「大地の芸術祭 越後妻有トリエンナーレ」のような、芸術祭を開催するには無理がある。
実際、地域を巻き込んでの芸術祭が、成功しているといえる芸術祭は、あまり多くないのでは?と、思っている。
名古屋+愛知県下でも開催されるのだが、思ったほどではないような印象を持っている。
と考えれば、地方で芸術祭を開催するのは、リスクなのではないだろうか?
視点を変え「自然の芸術」に着目するほうが、良いと思うのだ。
何故なら、日本には自然と共に根付いた地域文化を今でも伝えている地域が各地にあるからだ。
そしてそれらの地域文化は、どんどん減ってきているという現実もある。
だからこそ、そのような地域文化を海外へ発信することで、守っていくことができるのでは?と、考えるからだ。


AIに負けない子供を育てるには

2018-05-05 20:16:51 | ライフスタイル

GWも終盤。
GW、ある本を読んでいた。
タイトルは、「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」だ。

センセーショナルなタイトルということもあり、出版されてからベストセラーになっている。
読まれた方も多いと思う。
本の内容は、作者である新井紀子さんがトップとなって進めている「東ロボくん」の話だ。
「東ロボくん」は、ご存じの方も多いと思うのだが「東大合格を目指す、ロボット」。
今現在は、「MARCH(明治、青山、立教、中央、法政)」の合格レベルにまでなっている、という。
「MARCH」と書くと、なんとなく手が届きそうな大学のように思えるが、改めて大学名を列挙していくと、決してそうではないことが分かる。
作者である新井さんは、それでも「東ロボくん」は東大合格は難しい、と思っているようだ。
その理由は「文章の意味を理解する」という力が、「東ロボくん」は決定的に身に付けることができないからだという。

作者である新井さんが、何度も書かれているのだが「東ロボくん」は、あくまでも「0と1」という数字によって四則計算を行う「計算機=コンピューター」である、というのがその理由だ。
「0と1」という数字を積み重ねても、「文章の意味を理解する」ということにはならない。
何故なら「意味」には複数の要素が入っており、それを分解し統計や確率などを集めても限界がある、ということらしい。
それは「東ロボくん」の問題ではなく、スーパーコンピューターと呼ばれる「京」であっても、同じことになるという。
言い換えれば、今盛んに「AIによって仕事がなくなる」と言われているが、AIによって失われる職業は「0と1」で分解され、統計や確率などを使うことによってコンピューター自身が成長していく(=人工知能)ことができる職業ということになるという。

ここで問題になってくるのは、人が「文章の意味を理解する力がどれほどあるのか?」という点だ。
その調査をした結果、「教科書に書いてある文章が理解できない」という子供たちが増えている、という「警告」がこの本の目的だろう。
実際、例題がいくつかあり、私も解いてみた。
文章そのものは難解なものではなく、むしろ平易で分かり易いと感じた。
「大人だから」とか「たくさん本や雑誌などの活字メディアに接してきたから」などの理由もあると思うのだが、それだけではないと感じている。
というのは、最近同世代でも「文章の内容を理解しているのだろうか?」と、疑問を感じる人と出会うことがあったからだ。

何故だろうか?と考えると、「文章を読んで、考え・想像をする」ということをされていないのでは?という気がしたのだ。
中学・高校生の頃、国語だけではなく英語の教師からも「1つの単語が分からなければ、前後の文を読んで、文全体の意味を理解しろ」と言われた。
当然、そのような本の読み方を何度もしてきたし、分からなければ、何度も何度も読み返して「何が分からないのか?」ということを、それなりに考えるような習慣づけをしてきた。
その結果として、「文章の理解力=読解力と推論力」が身に付いたのかもしれない。

そして新井さんが指摘しているのは、まさに「教科書が読めない子どもたち」というのは、このような「読解力と推論力」が低下している、ということのようなのだ。
このような力が低下すると、AIが得意とする分野「統計と確率」などで、ある程度できる仕事と重なってしまう、ということになるという。
その結果として言われることが「AIが仕事を奪う」ということに、繋がっていくのだ。

「人には人にしかできない仕事」というモノがあるはずだ。
それは、創造性の高い仕事であったり、予測ができない仕事などだろう。
とすれば、子どもたちがAIに負けないようにするためには、AIでは蓄積されないような経験、外遊びなどで得られる観察力や洞察力、芸術や様々な文化によって育てられる感性、何より「考える力」なのではないだろうか?