日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

「コロナ禍」と「エッセンシャルワーカー」

2021-09-16 20:10:22 | ビジネス

Yahoo!のトピックス等にも取り上げられていた、米国アマゾンの時給アップのニュース。
Cnet Japan:アマゾン、倉庫等で時給を約2,000円超えにー大量採用へ

「新型コロナ」のワクチン接種者が増えたことで、米国では少しづつ以前のような生活が戻りつつあるようだ。
とはいうものの、おそらくリモートワークができる仕事等が、ハッキリしたことでオフィスで仕事をするのか?リモートで仕事をするのか?という判断を企業が積極的に推し進めていくのでは、ないだろうか?

その一方で「リモートワークができない仕事」も、「新型コロナ」の感染拡大により判明した。
特に、医療関係と物流関係に携わる人たちを「エッセンシャルワーカー」と呼ぶようになった。
医療関係者の場合は、直接患者に接する必要がある、という人達だ。
以前AIが進めば、AIが病気診断をするようになる、と言われていたはずだが、現実的にはまだまだ難しいそうだ。
勿論、「遠隔診断」という技術は進歩するだろうし、それによって専門医が少ない地方でも専門医の診断を受けることができるようになるだろう。

しかしそれは「診断」という場面のことであり、実際の治療(=臨床)の場面では、やはり対人間でなくては難しいのでは?と感じている。
というのも、AIが人よりも的確な診断ができるようになったとしても、「医療者に話す・医療者に聞いてもらう」ことで得られる安心感や信頼感はAIでは得られないのでは?と、感じるからだ。

そのような医療現場とは別に、物流関係に関しても「人の手」がどうしても必要なのだ。
「コロナ禍」で、通販等の物流量が増えたため、物流業界は更なる人で不足に陥っている、と言われている。
現在の物流システムでは、物を運ぶためにはどうしても人の手が必要であるにもかかわらず、物流に携わる人たちの給与が高いとは言えないからだ。
そのための人材確保のために、通販のオートメーション化に一番積極的で、ドローン等の利用も考えているアマゾンですら、時給を大幅に上げる必要があるのだ。

上述した「エッセンシャルワーカー」と呼ばれる業種の人たちの給与は、全体的に高い賃金ではない、と言われている。
勿論構造的な問題もあり、高い賃金が出せない、ということもあるとは思うのだが、日本では「人に奉仕する仕事」に関して、どこか「奉仕する仕事だから、低賃金でも良い」という潜在意識のようなものがある。
確かに、医療従事者の中でも介護関連の仕事は、ハードで責任を問われる業務内容も多いのに、何故か賃金形態として安く設定される傾向がある。
その理由として考えられるのが、介護関連の仕事に従事しているのが女性が中心、という点が考えられる。

随分前に「公害訴訟」の話を聞いた時、国の補償設定が男性の7割が女性の補償額である、と聞いたことがある。
理由は「社会的生産性」が男性を10として考えた時、女性は7位が妥当ではないか?という、根拠のない雰囲気的な判断があったからだ。
そこには、子育てや介護等、家庭内での労働を労働として見ていなかった、という説明も聞いた。
言い換えれば、家庭内での労働がアウトソーシングされるようになっても、今だに家庭内での労働のような意識で考えられた賃金形態なのだ。

物流関連に関しては「単純労働」という理由が、大きいのでは?と考えている。
しかし、現実にはバブル崩壊後職を求めて、肉体労働に近い仕事に就いた高学歴者もいたはずだ。
それだけではなく「物流業」そのものも、「単純労働」と言い切れないような状況になってきている。
効率よく配達をするためのルート決めだけではなく、1日の間に2~3回集荷所に送られてくる荷物の地区ごとの分別等も、やはり人の手によるもののはずだ。
物流関連は、利用者が見えない所で、多くの人の手を要する仕事でもあるのだ。

その一方で「人新の『資本論』」の著者である斎藤幸平さん言うところの「どうでもよい仕事」は、高賃金の仕事だ。
あくまでも個人的な想像だが、今現在高賃金と言われている「どうでもよい仕事」は、AIによって駆逐される可能性が高いと感じている。
逆に考えれば、AIによって駆逐されない「エッセンシャルワーク」こそ、それなりの賃金を支払う時代が「新型コロナ」によって早まっているのでは?という気がしている。


プロだからこそ、先入観を持たない努力が必要

2021-09-15 13:16:03 | マーケティング

朝日新聞のWebサイトに、ハッとさせられる記事があった。
朝日新聞:玄人より素人の方がクリエイティブ?東大が実験「創作活動で活躍」

確かに、経験値が無い人のアイディアや発想力にハッとすることがある。
それは自分にはない視点・視座を持っていない、発想やアイディアだからだ。
「クリエイティブ・ワーク」と言われる仕事を長い間していると、惰性的な発想に陥りやすい、ということは確かにある。
特に過去に成功体験をしていると、その成功体験に引きずられ、発想やアイディアがその成功体験の経験から考えてしまう、ということは間々としてある。
しかもその成功体験が多ければ多いほど、複数の成功体験から物事を考えてしまう傾向が、より強くなってしまう。

素人さんの発想、アイディアがユニークで斬新となるのは、上述した「成功体験が無い」ということに加え、「先入観が無い」ため発想そのものに制約が無いという点が、大きいのではないだろうか?
逆に考えれば、素人と玄人の違いは、コンスタントに目的となる発想やアイディアが浮かび、それをカタチにする力がある、ということだと思う。

とすれば、玄人はどうすれば素人さんの創造力と並ぶことができるのだろう?と、考える必要があると思う。
上述したように、玄人と呼ばれる人は「成功体験」がある。
その「成功体験」が、柔軟な発想や新しい視点を見失わせるということになるとすれば、その「成功体験」を一旦どこかへ置いておく、という方法を考える必要がある。
「一旦どこかへ置いておく」ということが、「先入観を捨てる」ということなのだと思う。

「先入観を捨てる」ということ自体、「成功体験」が増えれば増えるほど難しくなるはずだ。
それは「経験」として蓄積されていく。
それをリセットするということは、勇気がいることかもしれない。
場合によっては「プライドを捨てる」位の覚悟が、必要と感じる時もあるだろう。
それでも「先入観」という思い込みを、捨て続ける努力は必要だと感じている。

そのためには何が必要なのか?と考えると、とにかく異世代の人たちを観察すること、話を聞くことなのではないだろうか?
「自分と違うこと」を面白がれるのは、逆に「成功体験」や「失敗体験」があるからだと思う。
失敗体験を通して「あの時に自分に教えたかった」というような、話が異世代の人たちから聞けたら、ラッキー!位の気軽さで良いと思う。
その気軽さの中から、見つかるこれまでとは違う視点や視座、発想が生まれるのではないだろうか?(と、実感している。)



ゼロリスクと減点評価

2021-09-13 11:48:19 | ビジネス

News Week日本版に、「ゼロリスク」についての記事があった。
News Week日本版:失敗学の研究者が見た、日本人の「ゼロリスク」信奉

「ゼロリスク」とは、「リスクが無い」ことを示す言葉である。
そして日本では様々なところで「ゼロリスク」が求められる社会である、ということを実感されている方も多いのではないだろうか?
特に、ビジネスの場面では「リスクが無い」ということを、求められることが多い。
「リスクに対して、どのように対応するのか?」ではなく、最初から「リスクが無い」ということが求められている、ということなのだ。

そのため、慎重に慎重を期して新規事業を立ち上げる、事があたりまえになっている。
新規事業に失敗すると、当然のことながら担当者は左遷に近い処遇を受け、その後は「新規事業の失敗者」として、退職までその評価は変わることが無い。
一つの失敗が、その後のビジネス人生に再チャレンジンの機会を与えられることなく、終わってしまう、というのが日本の企業の特徴でもある。
事業担当者には厳いしい処分を科しても、その失敗の原因の分析となるとどうだろう?
失敗の要因等の分析よりも、処分を科すことの方が優先されている、というのが日本の企業文化になっているのでは?という、気がしている。

随分前、世界経済を動かしていると言われている「GAFA」の一つ、Googleは「100%を求めない」という話を聞いたことがある。
IT情報企業ということもあるのだろうが、Googleはユーザーと共にシステムやサービスをつくる、と言われている。
その顕著な例が、GoogleがつくったスマホのOS「Android」かもしれない。
基本「Android」のソフトウエアは、オープンになっている。
そしてユーザーに参加してもらい、バグを修正したりバージョンアップをしている(と言っても、数年前の話だが)。
ただ、GoogleというIT企業の場合、提供するサービス等の陳腐化はカタチのある商品に比べ、とても速い。
100%を求めていれば、提供する前に開発したOSそのものが、陳腐化してしまう可能性のほうが高いはずだ。

一方、日本では徹底的に作り込み、バグが発生した時は大騒ぎになる。
大騒ぎになる理由は、市場に出す時100%完璧なモノではなくてはいけない、という考えがあるからだ。
「100か0か」という考えが、柔軟な発想ではなくありきたりな発想を生む環境を作っているのでは?
と同時に、ソフトウエア開発等に遅れを取る要因となっているような気がするのだ。
「ものづくり大国」であった日本は、「100%の商品を市場に出さなくてはいけない」という、感覚に縛られている。
製品のリコール等は、ない方が良いに決まっているが、企業が提供する全てのサービスに100%を求めるがゆえに、国際競争から後れを取ってしまっている、という可能性はあるのでは?と、考えている。

「リスクを取りながら、最大限の利を考える」そして「失敗をすることを前提に、失敗から何を学ぶのか?」ということに、力点を置くことで人も企業も社会も良い関係が作れるのでは?
何故なら、同じ過ちを繰り返さないためには「リスクを如何に考えるのか?」という、考えから始まるからだ。









45歳定年制は、現実的か?

2021-09-11 19:12:26 | ビジネス

サントリーの新浪社長の「45歳定年制」発言が、問題となっている。
発言内容について、新浪社長が釈明をすることになってしまっている。
毎日新聞:サントリーHD新浪社長「45歳定年制を」SNSで波紋、釈明

新浪社長ご自身が、「社長」という仕事を渡り歩いてきたという人物ということは、ご存じの方も多いと思う。
企業に閉塞感が感じられるようになると、社風を一掃するために、外部から経営幹部を招き入れることが多い。
何も日本企業に限ったことではないのだが、新浪さんの様に「社長」として招き入れられ、実績はどうなの?という結果に終わる方も少なくないような印象を持っている。

「実績が残せない」最大の理由は、その企業の企業文化を十分理解せず、米国等の経営論で経営を推し進めようとするからでは?という、気がしている。
特にオーナー企業として大きく発展してきた企業で働く人たちにとって、「自分たちの企業文化を理解せず、上っ面のカタカナ言葉で経営論を言われても共感できない」という部分が大きいのでは?と考えている。
サントリー社内で、新浪さんの評判はどうなのか?は知らないが、余りにも社長が目立つ発言をする、というのは企業にとって得策ではないような気がする。

ただ、新浪さんの「45歳定年制」には賛成しかねるが、日本人のサラリーマンの問題をついているのでは?という、気もしている。
これまで日本の企業は「年功序列」で、よほどのことが無い限り「60歳(あるいは65歳)定年」まで、一つの企業で働き続けることができた。
新浪さんが社会人になった頃は、そんな時代だったはずだ。
日本の上場企業の多くは、「年功序列で定年まで勤めあげる」ということが、美談の様に言われてきたし、事実そうだったと思う。
ただ、「バブル経済の崩壊」は、それまでの「雇用形態」を見直す切っ掛けとなり、それまでの「日本型雇用」が崩れていったのも事実だろう。

あくまでも個人的な印象なのだが「日本のサラリーパーソンは、社会に出ると勉強をしなくなる」という、印象を持っている。
仕事で必要な資格は、企業からのススメもあり取得することには熱心だが、より幅広い知識や教養を身に着けようとすることが極端にないような気がするのだ。
一時期流行した「異業種勉強会」のような会も、その目的は「人脈づくり」であり、目的に合わない人とは話すこともなく、名刺交換だけをし、集まった名刺自慢で終わってしまっているのでは?という印象がある。

確かに日本の社会は、就職するまでに様々なハードルを飛び越えなくてはならない。
その多くは「受験」ということになるのだが、「受験勉強」はしていても、それが「教養」として身についていないし、社会人になったからこそ、出世に直結しないような勉強はしない、という傾向があるように思う。
日本の場合「就職」ではなく「就社」である、と考えると新たな知識を得るよりも、企業研修で言われたコトを踏襲するほうが、ラクで上司受けもよいはずだ。
そのため、仕事の本質を知り、新たな知識や思考を刺激するような勉強をする必要が、ないのだ。

このような意識変革を起す、という意味で「働き盛りの転職」はあっても良いのでは?という気がしている。
仕事以外のスキルアップをすることを含め、大学や大学院等での学び直しという機会があっても良いと思うし、異分野にチャレンジする機会をつくるという、「人としての成長機会」の時間をライフステージに合わせ、必要なのでは?ということなのだ。
これからの社会は、個人として行動できるような人材が、企業にも社会人個人にも求められ、その行動の為の「異分野を含めた勉強」が大切で、その切っ掛けとしての45歳定年という考えもあるかもしれない、ということなのだ。







今日は何の日?「菊の節句」

2021-09-09 19:27:00 | 徒然

今日9月9日は、「五節句」の内の「菊の節句」の日だ。
と言っても、何?と思われる方のほうが多いように思う。
私が知ったのも、たぶん高校の古文の授業だったような、気がしている。

3月3日の「桃の節句」、5月5日の「端午の節句」、7月7日の「七夕」等日本には、季節折々の「節句」と呼ばれる季節の行事があった。
今では3月3日と5月5日と7月7日の節句位しか、行事として残っていないように感じている。

例年であれば、まだまだ残暑が厳しく、秋の花として菊(というよりも仏花のイメージンのほうが強いかもしれない)を見る機会はほとんどない。
他の節句同様に、旧暦の日付で考えれば丁度季節感があうのだから、仕方ないのかもしれない。

そんないまいちメジャーではない?「菊の節句」を思い出したのは、三笠宮彬子女王殿下が毎月雑誌にエッセイとして寄稿されていて、今月は「菊の節句」について書かれていたからだ。
和楽Web:思い出すのはほっぺたに触れたふわふわ着せ綿。菊の節句の由来と行事

おそらく私が古文の授業で知った「菊の節句」の描写は、この「着せ綿」のことだったのだろうな~、とおぼろげな記憶をたどりながら、エッセイを拝読する。
9月9日という、中国の「幾久しい」という考えと、季節の花である「菊」が結びつき、「菊の花に真綿を乗せ、菊の香と露を真綿にまとわせ、それで顔を拭き美と健康=長寿を願う、という発想は、今のような娯楽が無かった時代の生活の楽しみ方だったのかもしれない。

それにしても、菊の花を浮かべお酒を頂く、着せ綿で顔を拭く等、非科学的な発想ではあるが、古の高貴な人たちの「生活の楽しみの見つけ方」は、何かと忙しい現代で忘れた何かを思い起させてくれるような気がしている。
まして今のような「コロナ禍」では、様々な「生活の行動規制」が行われ、「規制された行動」に不満が起きやすい状況にある。
「コロナさえなければ…」という言葉と共に、どこかでクラスターが発生する度に、社会全体が監視社会になったかのような「行動規制」がされ、それが「同調圧力」の様になって、より閉塞感を感じさせる社会になりつつある。

以前拙ブログでも書かせていただいたが、今の生活者が抱えている不満は、「不利益感」と「不平等感」によるところが大きいと感じている。
「不利益感」と「不平等感」が、「同調圧力」となって政策としてではなく、社会の暗黙の規範の様になって、生活を締め付けているのでは?ということなのだ。

「今まで当たり前」だったことが、「当たり前で無くなる」という生活が続いているからこそ、古の人たちの「娯楽が無い時代の季節折々の生活の楽しみ方」が、参考になるのでは?と、感じている。

彬子女王殿下のような、「着せ綿」を頬にあて季節を感じるような生活はできないが、スーパーで売っている「食用菊」をお浸しにしたり、日本酒に浮かべて見たりすることはできる。
それが、日本社会を覆っている「(理不尽と感じる)同調圧力」から逃れ、一時の「不利益感」や「不平等感」を忘れさせてくれるのでは?ないだろうか?


「ウッドバブル」にならなければ良いのだが・・・

2021-09-08 21:12:04 | ビジネス

朝日新聞のWebサイトを見ていたら、「ウッドショック」という言葉があった。
朝日新聞:ウッドショック、住宅メーカー「あるものをくれ」 高騰にも産地複雑

「新型コロナ」の世界的流行により、輸入木材が入ってこないために住宅メーカーが国内産にシフトをした結果、国内産の木材が高騰している、ということのようだ。
ご存じのように、日本の林業は衰退の一途をたどっている。
そのような状況の中で突然起こった、需要に戸惑っている、ということのようだ。

ただ、山から切り出した木材がすぐに住宅や家具等に使えるわけではない。
皮をはぎ、何年もかけ乾燥をさせてやっと使えるようになるのだ。
「新型コロナ」が流行する前、近くのショッピングモールで、建築資材や家具用として販売した木材の端材の販売をしていたことがあった。
カッティングボードに丁度良い大きさの端材があったので、お店の人に聞くと「3年位乾燥させないとカッティングボードとして使えないかな?」と言われ、「検討します」と言って、帰ってきた経験がある。
建築資材として使われた端材でも、用途によってはまだ3年も乾燥をさせるのか?!と、驚いたのだ。
鉄筋コンクリートと違い、木材はそれだけ手間ひまと時間をかけ、やっと使える状態になるのだ。

そう考えると、今住宅建材として使いたい木材は、数年前に伐採されたもので、「日本の林業が衰退の一途!」と、言われていた頃の木材ということになる。
言い換えれば、需要と供給に合わせて伐採された木材であり、伐採量そのものも決して多くは無いはずだ。
そこに突然需要が起きれば、「ウッドショック」という名の「ウッドバブル」が、起きてくるのでは?

ただ建築資材として使えるようになるためには、少なくとも50~60年はかかると言われている。
林業が衰退する理由の一つが、植林から下草の管理、間伐等手間をかけ一世代を超えて、やっと出荷することができる、という長い時間が必要という点があると、言われている。
問題となっている「花粉症」の原因であるスギやヒノキは、戦後に住宅建材用として植林され、輸入木材との価格競争により、伐採されることなくそのままになったものである、ということも言われている。
それほどの時間を要するのが林業であり、ビジネス化という点では「成育の効率化」とは無縁の産業だともいえる。
だからこそ、産地は困惑しているのだ。

高値で売買できれば、一時的には儲かるが、それは過去何度も起きた「バブル」と同じで、長続きするモノではない。
しかし、上述した通り林業そのものは「製品化」までに、50年、60年という時間が必要だ。
今の価格が、50年後・60年後の価格ではない。
戦後の住宅不足により半ば国策として、植林事業を積極的に進めると同時に、住宅建設を進めた結果、輸入木材による国産木材の暴落を経験している人たちからすれば、「今の儲けは未来の損失」という考えが起きるのも当然だろう。

そもそも、今の住宅需要というのは、住宅メーカーが思うほどあるのだろうか?
日本各地で「空き家」が問題になって久しい。
住宅そのものが不足しているのではなく、今ある住宅が活用されていないだけなのでは?
それだけではなく、「家を建てる」ための資金調達が、この経済状況では厳しいどころか、「コロナ禍」で生活の不安を抱えている人も数多くいる。
そのような経済状況の中で、住宅メーカーが家を建てようとするのは、何故なのだろう?
住宅メーカーのビジネスモデルが、「家を建てる」ことしかない、と言うことだろうか?

木材の高騰は、一見林業にとって良いことの様に思えるが、林業が抱えている根本的な問題解決になっていないように思えるのだ。
林業には「国土保全」という観点からも、重要な産業であると考えれば、「木材が製品化するまでの長期的ビジョン」を考える必要があると思う。




人生を楽しむ自主規制をして欲しくない

2021-09-07 20:27:22 | 徒然

先月末、愛知県の常滑で開催されたヒップホップの野外音楽フェス。
今日になり、このフェスの観客14名が、新型コロナ陽性者と判明した。
判明したのが14名なだけで、陽性者そのものはもっと多いだろう、と想像している。

このような事態を受け、これまで「感染予防対策」を徹底していたライブが次々と中止となっている。
多くは、会場となる施設を管理する自治体側の要請によるものだ。
ライブの主催者側、ミュージシャン側にとっては苦渋の決断、ということになるとは思うのだが、今の社会状況では開催すること自体、社会的批判を浴びることになりかねない。
それほど、愛知で行われた傍若無人な野外音楽フェスの影響は大きい。

「新型コロナウイルス」の感染拡大が始まり、1年数カ月経つ。
その間、生活者の多くは「自粛」という名の元、様々な「生活行動の自主規制」を行ってきた。
マスクや頻繁な手洗い・うがい等だ。
ただ「自主規制期間」が長引けば長引くほど、人の心は荒んでくる。
「自分は、こんなに我慢しているのに!」という気持ちの増大し、「我慢していない人はけしからん!」と、攻撃の対象となる。
自分に対する「不利益感」は「不平等感」へと発展し、それが他者を攻撃する心理へと変わっていく、という指摘が随分前からされている。
そして正に今の社会状況は、「不利益感」と「不平等感」のピークに達し始めているのでは?と、感じている。

確かに要因となっているのは「新型コロナ」による感染拡大だ。
感染拡大によって、亡くなられた方も数多くいらっしゃる。
このような状況では「新型コロナ憎し」ということに、フォーカスされるのは当然だ。
「新型コロナ」さえ感染拡大しなければ、以前と変わらない生活が送れていたはずだからだ。

ただ「新型コロナ」にばかりフォーカスしすぎると、今の社会を覆う「不利益感」や「不平等感」の本質を見失ってしまうのでは?という、気がしている。
上述したように、ここにきて次々と中止を様られているライブイベントを「中止」に追いやったのは、傍若無人な振舞をした野外音楽フェスの主催者であり、それに乗じた観客だ。
この野外音楽ライブが無ければ、主催者側と自治体側が考えうる限りの「感染症対策」の実施により、ライブが開催できたはずなのだ。
「憎し」と思う相手は、今や「新型コロナ」よりも、基本的なルールを守らない人たちへと、移っているという状況なのだ。

だからと言って、「憎し」という気持ちばかりを心に持ち続けることは、決して精神的にも肉体的にも良いことだとは思えない。
そこにフォーカスしすぎることは、自分の人生を楽しむ時間と労力を「憎い」気持ちに費やしている、ということでもあるからだ。
このような社会状況だからこそ、「不利益感」や「不平等感」から逃れるのは、難しいと思う。
ただ「自分の人生を楽しむコト」を自主規制してまで費やすのは、もったいない。
些細なことで構わない、道を歩いていたら公園の萩が咲き始めていた、程度の発見をすることを、今だから大切にする必要があると思うのだ。
それは「新型コロナ」から解放された時、より大きな人生の楽しみとなって帰ってくる種だからだ。




「自民党総裁選」既に終盤か?

2021-09-06 19:43:05 | アラカルト

先週、菅さんが「総裁選には出ません」発言をし、実質的な「総理退陣」宣言となった。
その直後から始まったはずの「自民党総裁選」だが、すでに終盤なのか?という感じになってきたようだ。
と言っても、あくまでも私の感じ方なので、まだまだ一波乱、二波乱あるかもしれない。

「終盤」と感じた理由は、河野さんに対する支持が自民党内から出始めている、という点だ。
安倍前首相は「高市さん支持」を、早々に表明したが、それは安倍さんにとって「言うことを聞いてくれそうな相手」だからなのでは?という、印象がある。
要はフィクサーのようなスタンスで自民党内での影響力を維持したいがための、高市さんへの支持表明だったのでは?という、気がするのだ。

ところが、安倍さんに対する有権者の不信感は強い。
自民党としては「安倍カラー」を極力排除しなくては、今後の選挙に勝てないのでは?という、気がしている議員さんがいるような気がしている。
何故なら、安倍さんの指名を受けた菅さんで首長選を含め、勝てた選挙が無かったからだ。
もちろん、菅さんの失政もあるのだが、安倍さんに対する疑惑解明を菅さんがしなかった、ということで安倍さんが裏で何かをしているのでは?という、疑念が付きまとっていた、という印象を持っている有権者が多い、という点もあるのでは?
そのような印象が良くない安倍さんが支持表明をした高市さんに対して、表向きはともかく実際に支持をする自民党員はどれほどいるのだろうか?

もう一つ高市さんについて言うなら、自民党の女性議員さんは「オヤジウケが良い」という印象が強いのだ。
決して、有権者のほうを向いて国会論戦をしているのではなく、党の党利党略に合わせた話しかしていない、という感じなのだ。
それを言ったら、野党の女性議員も同じだろう!と、ツッコまれるとは思いつつ、国会での発言時間の長さ等から圧倒的に、自民党が女性議員を起用して国会論戦をする時には、そんな印象がある。

とすれば、政治一家としてサラブレッドの河野さんは、自民党党員以外の有権者から見てもどこか安心感がある。
発言が分かりやすく、それなりの発信力もある。
石破さんが出馬を取りやめ、河野さん支持に回ったのも、その後の党三役等の重要ポストが欲しい、ということもあるだろうが、「選挙に勝てる党の顔」という理由もあるのではないだろうか?

残念なことだが、日本の選挙制度ではまず「選挙に勝つ」ことが、最優先なのだ。
選挙に勝たなくては、政権を執ることもできない。
「政権を執る」ことで、政党は初めて有権者から負託を受けた、ということになると考えているからだ。

先日、「総裁選」で注目すべきは野党なのでは?という内容のエントリをした。
それは「総裁選」で「総裁」となっても、与党にならない限り「政権を執る」ことにはならないからだ。
これほど自民党に逆風が吹いている今は、野党にとっては「政権を執る」最大のチャンスのはずなのだ。
だからこそ、野党は積極的に「自分たちの具体的政治ビジョン」を、有権者に語るべきなのだ。

その意味で「総裁選立候補者」の顔ぶれを見た時、「誰が選挙に勝てる顔」なのか?という、思惑で票トリが始まり、既にほぼ終わっているのでは?という、気がしている。


菅総理退陣で問われる、野党の実力

2021-09-03 20:27:39 | アラカルト

今日のお昼に、菅総理が「自民党総裁選に出馬しない」という、ニュースがあった。
その直後、9月末を持って辞任する、というニュースへと発展した。
任期が切れる総裁選に出馬しない、ということはその時点で辞任する、ということでもあると思われるのだが、その直後から自民党内からは、これまで「総裁候補」と名前が挙がっていなかった人まで「総裁選に出る」と言い始めたようだ。

高市氏や野田氏は「女性初の総裁=女性初の総理大臣」を狙っているのかもしれないし、ジェンダーギャップが先進諸国の中で最低、という不名誉な順位を回復する起爆剤、という意識もあるのかもしれない。
ただ、同じ女性として見たとき、大変申し訳ないのだが「自民党総裁の器」に成れたとしても、「総理大臣の器」なのだろうか?という、疑問を感じてしまう。
かつての社会党を率いていた土井たか子さんや、市民運動家として活躍をし、その後政治の世界に飛び込んだ市川房枝さんのような「意思や政治ビジョン」のようなものを、感じないからだ。

と同時に、今の選挙民は「自民党に期待しているのか?」という、疑問もある。
安倍さんが総理になり「アベノミクスで景気回復!」と打ち上げたが、2017年の調査ではあるが、生活基盤となる平均賃金は、OECD諸国の中でも平均以下というのが現状だ。
OECD:平均賃金

このような調査が発表されるたびに、「非正規雇用者が多いため」と指摘されているが、逆に言えば「企業が非正規雇用者しか雇えない」という状況にある、ともいえるのではないだろうか?
他にも安倍政権では「モリカケ問題・桜を見る会問題・広島県選出の河井夫妻に対する選挙資金疑惑」等、様々な疑惑や問題を、権力者として「無いもの」にしてきた。
そこへ「新型コロナウイルス対策」の失策が続いた、という状況が今の自民党政権に対する生活者の印象であり、不信感でもあるのだ。

とすると、今回の「総裁選」で重要になってくるのは、野党なのでは?という気がしている。
「何でも反対、野党」などと揶揄され、今やその存在感も「???」という感じの野党だが、野党内での主導権争いをしている場合ではないはずなのだ。
もちろん、政党としてのビジョンや考えはとても重要だ。
しかし「絵に描いた餅」のようなビジョン等は、聞きたくないというのが、有権者の本音なのではないだろうか?
具体性があり実現可能なビジョンを、打ち出してほしいのだ。
その中には「皇位継承」という問題も含まれている、ということを忘れて欲しくはない。

ジェンダーギャップを無くすための「女性起用」ではなく、米国のバイデン氏を支えたような女性たちを政党としてサポートし、活躍の場を与えることで、自然と社会の目はそのような女性たちに注目するようになる。
そのような「女性政治家」の登場を待っているし、活躍できる社会を野党として実現するために「何が必要で、どのようなコトをすれば実現できるのか?」という話をして欲しい。
それは、経済の問題においても、「新型コロナウイルス対策」にしても同じことのはずなのだ。


人のエゴで動物を飼うのは、いかがなもの?!

2021-09-02 21:37:16 | 徒然

Huffpostを見ていたら「ペットブームとは言え、どうなのだろう?」と、感じる記事があった。
Huffpost:「謎の生物」を九州の山中で保護、バイクで交番に届ける。その意外な正体とは?

「新型コロナウイルス」の感染が拡大し始めた頃から、ペット関連のビジネスが伸びている、と言われている。
在宅時間が増えただけではなく、「人と会う」ことが難しくなり、寂しさを紛らわすためにペットを飼う人達が増えたため、と言われている。

ペットを飼うこと云々する気はない。
飼い始めたペットの最期まで、面倒を見切れるというのであれば、どんな理由であってもペットを飼うことに、問題はないと考えている。
最近では、ペットショップではなく「保護ペット」を譲渡会のような場所で見つけ、飼う人達も増えていると聞く。
例えば、「豆柴」と呼ばれる頃は無条件に可愛かった柴犬も、成犬になれば個体も大きくなり、散歩する時に引っ張る力も強くなる。
世話をするためには、ペットフードや適度な運動をさせるために散歩に行かなくてはならない。散歩途中の排泄物の処理も飼い主の責任だ。
病気になれば、ペット病院に連れて行き、人様よりも高額な治療費を支払う必要がある。
猫の場合は、散歩をさせ、道端での排泄物の処理等が無いとはいえ、多頭飼いをする人が多いため、避妊手術等をしなくてはならず、それなりの世話が必要だ。
「ペットを飼う」ということは、時間とお金と労力を膨大に必要とするものでもあるのだ。

犬や猫、最近ではハムスターのような小動物をペットにする方ばかりではない。
Huffpostの記事にあるような、珍しい動物をペットとして飼う人達もいる。
ただ、このような記事を読むたびに「ワシントン条約」で禁止されていないにせよ、環境の違う場所に連れてこられた動物たちにとって、どうなのだろう?と、思うのだ。

今回の様な「脱走劇」等は時々あり、何も知らない人が噛まれたり引っかかれたりする、という場合もあるのでは?
正体不明の動物に、噛まれたり引っかかれたりした時、すぐに治療してもらうにしても、正体不明の動物なら、どんな病原を持っているのかも分からないはずだ。
そのようなリスクを、ペットを飼っている人以外に負わせるというのは、いかがなものだろう?
全く違う環境で飼育されることが、種の保存という観点から考えて、どうなのだろう?
それがもし、野生化してその地域の生態系に影響を与えるようなことになったら、どうするのだろう?
そのようなことを、色々と考えてしまうのだ。

SDGsという視点で考えてみても、その地域に合わないペットを飼うことは、様々な点でデメリットがあり過ぎるように思えるのだ。
「人のエゴ」でペットを飼う、という時代は既に終わっているのではないだろうか?