一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

湯川博士統括幹事の教え

2010-09-09 00:32:40 | 愛棋家
「将棋ペン倶楽部」(「将棋ペンクラブ」は団体名、「将棋ペン倶楽部」は書名)に投稿すると、その文章は100%掲載される。将棋を愛する会員の投稿だから、ボツになることはないのだ。ただし原稿料は一切でない。素人の文章だから、これは当然である。
投稿された文は、湯川博士統括幹事が中心となって、校正が行われる。原文には日本語の乱れや、意味が分からない箇所が見受けられ、そのままでは掲載できないからだ。
そこから投稿者とのやりとりが電話やeメールを通じて行われ、多い時は数回に上る。ここが投稿者の運命の分かれ道である。文章の瑕疵を指摘されることは投稿者にとって不愉快かもしれないが、ここで怒って投げ出してはいけない。湯川統括幹事は文章のプロである。そのプロに無償で原稿を手直ししていただけるのだ。それをありがたい、と捉えることが大事である。
…とここまで書いて自慢するようで恐縮だが、私の文章は湯川統括幹事の好みにあっているらしく、大幅な直しが入ったことはない。
以前、関東交流会のレポートを仰せつかったとき、窪田義行六段が自己紹介で、「ヒロシです」とモノマネをしたから、そのことを文章に盛り込んだら、冊子ではその箇所が削除されていた。湯川統括幹事は「ヒロシ」をご存じでなかったのかもしれない。あるいはヒロシを知ってはいたが、窪田六段を揶揄した、と取り、削除したのかもしれない。
また昨年末に行われた「将棋寄席」のレポートを書いたときも、オバサマ方のコーラスグループを、「元妙齢の美女」と書いたら、冊子では「元」が削除されていた。
まあ、記憶に残る直しはその程度である。ただし一度だけ、あることで注意を受けたことがある。それも直々にハガキで郵送されてきたものだった。
私は昨年の3月、第2期マイナビ女子オープンの挑戦者決定戦・中村真梨花女流二段と岩根忍女流初段(当時)の懸賞スポンサーになり、控室の視点から見た観戦記を、将棋ペン倶楽部に投稿した。
その文章の中で注意されたのが、「女流棋士の肩書きについて」だった。
このとき私は、女流棋士の肩書きに、「女流」をつけずに書いていたのである。つまり「中村女流二段」は「中村二段」、「岩根女流初段」は「岩根初段」という具合に書いていた。正確に言うと、初めの記述で「△△女流○段」、2回目以降は「女流」を省略して、ただの「△△○段」と書いていた。
将棋ペン倶楽部の原稿量には一応制限が設けられており、原則的に4頁以内である。私はそんなもの無視してどんどん書いていくが、やはり字数制限は気になる。そこで少しでも文字数を減らそうと「女流」の2文字を削ったのだが、これがよくなかったらしい。
「『女流○段』と『○段』、は違います。『女流○段』は女流の肩書き、『○段』のみは男性(奨励会)の肩書きです。読者が誤解しないよう、そこは正確な記述をお願いします」という趣旨の記述だった。
いわれてみれば確かにそうで、たとえば○○四段、と書けば、奨励会を抜けた正式な棋士である。それを女流棋士にあてはめてしまうと、この女性は男性棋士と同等の肩書きなのか、と取られてしまう恐れがある。まさに目からウロコが落ちる思いだった。
さらに湯川統括幹事のハガキでは、「○○女流○段」「○○さん」「○○(呼び捨て)」の、場面による使い分けを、詳しく書いてくれていた。
湯川統括幹事は、怒ったときはもちろん、笑顔でも恐ろしく見えるというというコワモテだが、棋士に対しての尊敬の念が垣間見え、私は湯川統括幹事の繊細な一面を見た気がした。と同時に、私のような一会員にも過分なアドバイスをくださったことに、私は大いに恐縮したのだった。
そんなことがあってから、私のブログでは、女流棋士の肩書きには、めんどうなようでも、必ず「女流」の2文字をつけるようになった。ただし、(女流)棋士と私では住む世界が違うので、「○○さん」と書いたことはなく、すべて「○○女流○段」で統一している。ときに「ヨーコ」とか「ヒロミ」とか、呼び捨てで書くことはあるが、それは敬愛の表れである。
コメント
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